三十五話
四月。三崎賀原駅のスロープの脇で、遅咲きの桜が、三分だけ咲いていた。
十七時四十五分。新しいダイヤの駅に、もう、空白はない。一分後には四十六分の上りが来る。ホームに人が立つ時間は短くなって、駅は予定通り、少しだけ便利になった。
それでも僕たちは、今日もここにいる。一番線の、同じベンチに、並んで。
彼女の転校は、撤回された。母親と何度も話し合って。
結論は「この町で続ける」になった。喉の事については、専門の先生のところへ、ここから通っているという。
環境を変える代わりに、聞き方を変えた人が、彼女の家に一人、増えたからだ。居間には最近、彼女の絵が額に入って飾られたらしい。
「お母さんも昔、少しだけ描いてたのよ」と、ある夜ぽつりと言ったのだと、彼女は教えてくれた。
そして、彼女の声は、帰ってきた。全部ではない。掠れる日も、出ない日も、まだある。そういう日、彼女は鞄からスケッチブックを出す。
僕もクロッキー帳を出す。三冊目だ。筆談は、治療じゃなくて、僕たちの言語だから、卒業の予定はない。声の出る日は声で、出ない日は紙で、どちらでもない日は、白紙で隣に立つ。
「創太、お前さあ、彼女でもできただろ! 最近、機嫌めちゃくちゃいいな!」
新学期の教室で、健人が言った。僕は「……うん」とだけ返した。否定はしなかった。事実は事実だから。わざわざ、否定する必要はないから。
健人は「よっしゃ! 詳細は唐揚げ奢りで」と騒いで、僕は初めて、放課後の「また今度」を「じゃあ金曜日で」に変えた。
「おう、常連さんたち」
駅員さんが、竹箒を担いで通りかかる。僕たちが並んでいるのを見て、にっと笑う。
「今日は、どっちのホームだい」
「「こっちです」」
声と、声で答えた。片方は少し掠れていたけれど、ちゃんと、二人分の声だった。駅員さんは「そうかい」と笑って、僕が描いた四コマ目と寸分違わない顔で、詰所へ戻っていった。嘘は本物へと変わり、四コマ漫画は、無事に完結した。
十七時四十六分。上り列車が、桜の花びらを少しだけ巻き込んで、ホームに滑り込んでくる。
僕たちは、同じ扉から乗る。隣に立つ。窓の外を、昼間はただの灯柱でしかない水銀灯が、ゆっくりと流れて、遠ざかっていく。
「……また明日」
隣で、小さな声がした。
「また明日」
僕も、声で返した。
よだかは、空へ飛んだ。でも、僕は、彼女は、飛ばなかった。地上に残って、隣同士で立つことを選んだ。地上の常連は、今日も皆勤賞を更新していく。
十七時四十五分、向かいのホームの君は、もう向かいにいない。
すぐ隣に、いるからだ。




