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三十四話

 その夜、玄関のドアを開けると、母が立っていた。


 コートも脱がずに、たたきのすぐ手前で。片手にスマートフォンを握って、何度も電話をかけようとして、私の位置情報を見ていたのだと思う。


 地図の上の私の点は、いつもの駅で、いつまでも動かなかった。雪の夜に。予定の時刻をとうに過ぎても。


「凪咲! もう……こんな時間まで、雪なのに。何度も電話したのよ、お母さん。位置は駅から動かないし、何かあったんじゃないかって」


 母の声が途中で止まった。


 私の顔を見たからだと思う。溶けかけた雪と、乾いた涙の跡と、それから、多分、今までとは違う何かがそこにあったから。


 母は言葉を探すみたいに、口を半分開けたまま、私を見ていた。


「……凪咲? あなた、泣いてたの? 誰かに、何かされたの?」


「ううん」


 首を振る。母の声が、みるみる不安の色を濃くしていく。


「じゃあ、どうして……ねえ、何があったの。お母さんに言って。ホワイトボード、持ってくる?」


 私は、廊下のホワイトボードに手を伸ばしかけた。いつもの反射だった。この家で、私の言葉は、あの白い板の上にだけ出る。マーカーを取って、書く。それが私の声だった。指先が、もうペンの位置を覚えている。


 でも、やめた。伸ばしかけた手を下ろす。


 今夜だけは。今夜だけは、違う。


 跨線橋を越えた。膝を濡らして、滑って、それでも越えてきてくれた人がいる。


「君の本当の声を出して、生きていい」と、雪の中で言ってくれた人がいる。


 その人が名前を、私の声で聞かせてほしいと言ってくれた。そして私は出せたのだ。私の言葉を、私の声で、誰かに渡した。掠れて、途切れて、みっともない声で。それでも渡せた。


 だったら、一番渡さなきゃいけない相手は。一番怖くて、一番渡せなかった相手は———。


 今、目の前にいる。


 息を吸う。


 喉の奥で、石が待ち構えているのが分かった。これまでで一番大きな石。母の前でだけ、絶対に完璧に通り道を塞いできたあの石。


 いいよ。身構えていていい。今夜は、あなたごと、声にするから。あなたを飲み込んだまま、それでも、口を開けるから。


「……お母さん」


 声は出た。掠れて、細くて、消えそうな声。でも、ホワイトボードじゃない。私の喉から出た、私の声。


 母の目が見開かれた。手の中のスマートフォンが、滑って落ちていった。硬い音がした。母は、それを拾わなかった。拾うことも忘れて、ただ、私を見ていた。二ヵ月ぶりに聞く、娘の生の声を。


「凪咲……声」


「話が、あるの」


 母の言葉に、かぶせるように、言った。かぶせなければ、続きが出ない気がした。喉が、また閉まる前に。


「聞いて、ほしいの。……全部。今まで、言えなかったこと」


「……喉、大丈夫なの? 無理して声出したら——」


「無理してでも、今日は、言うの」


 母が、黙った。


 私の顔を、じっと見て。それから、何かを察したように、床に膝をつくみたいに、腰を下ろした。コートのまま。私と目の高さを合わせるように。


 そして、今まで一度も聞いたことのない言い方で、言った。


「……わかったわ」


 声が、震えていた。


「聞かせて。全部。お母さん、今夜は……聞くから。何時間でも。座って、聞くから」


 母が、聞く側になった夜だった。


 私は、母と向かい合って座った。コートも脱がないまま。玄関の少し寒い空気の中で。


 最初は、言いやすいことから。


「学校でね。……特進クラスの廊下に、毎月、順位が貼り出されるの」


「……順位が? 廊下に?」


「うん。全員の。四十人文、名前と、順位が。みんな、その前を通って、教室に行くの」


 母の眉が、寄った。


「そんな……プレッシャーになるじゃない。誰の名前も、全部見えるなんて」


「見えるの。私のも」


「……凪咲、あなた、それを毎月」


「先生は、『二年後の自分だと思いなさい』って、毎朝、言うの。今の三年生を見て。一年後の、二年後の、自分だと思って勉強しなさいって」


 母の顔が、少しずつ、こわばっていく。


「そんなの……知らなかった。学校って、そこまで……」


「まだ、途中」


 私は、首を振った。ここで母に、学校を責めさせてはいけない。それは、一番の話じゃない。


「学校のことも、あるけど。……本当は、もっと、別のことなの」


 声が、掠れてきた。喉の門番が、そろそろと身構えるのがわかる。


私は、鞄の中の、あの厚い束に、手を伸ばした。


 スケッチブックと、太いフェルトペン。


 母の前で、これを開くのは、初めてだった。


「……声だけじゃ、たぶん、最後まで、話せないから。ときどき、これも、使わせて」


 母が、その束を見た。何かを言いかけて、やめて、頷いた。


「うん。……いいわよ。ゆっくりで。急がなくて、いいから」


 私は、座り込んだまま、スケッチブックを膝に開いた。ペンを走らせる。キュッ、と、玄関に音が鳴った。声の出る言葉は声で。詰まった言葉は、紙で。


『本当のことを言おうとすると、声が出なくなるの』


 書いた紙を、母に見せた。母の顔から、表情が抜けた。


「……声が、出なく、なる? ……喉の調子が悪いんじゃなくて?」


「うん」


「いつから……そんな」


 私は、ペンを取った。


『最初は、大事な模試の朝だけだった。中三の頃。今は、ほとんどいつも。喉の奥に、小さくて硬い石が挟まってるみたいな感じで』


「石……」母が、繰り返した。


「でも、この前、耳鼻科で……喉はきれいだって」


『石は、きっと写真に写らないの。名前のつかないものは、この世界では、無いことになってる。でも、あるの。ずっと私の喉の奥に』


 母が、口元を手で覆った。指の隙間から、「そんな」という声が、漏れた。


「じゃあ……あの、ホワイトボードも」


「体調が悪いわけじゃないの」


 声で言った。掠れた声で。


「ごめんなさい。……ずっと、嘘ついてた。喉の調子が悪いだけって。……本当は、違うの」


「謝らないで」


 母が、強く言った。初めて、声を少し荒げて。それから、はっとして、声を落とした。


「……ごめん。違うの。あなたが謝ることじゃない。お母さんが……気づかなかったのが」


「まだ、あるの」


 私は、また、ペンを取った。いちばん深い、いちばん古い、いちばん出せなかった石を。


『小学校の、写生大会の海。覚えてる?』


 母の手が、止まった。


 覚えている、という顔だった。九年前の、あの海。金色のシールの賞状。ハンバーグを一品増やしてくれた、あの夜。


「……覚えてる。あなたが、防波堤の絵を描いて。市民ホールに、飾られて」


「うん」


「上手だったわ。空の色が……ほんとに、きれいで」


『あの絵ね。今も、押し入れのクリアファイルの中にあるでしょう。お母さんが、大事にしまってくれた』


「……ええ。ちゃんと、取ってあるわ。折れないように、厚紙も入れて」


『あの日ね』


 私は、ペンを、ゆっくり走らせた。


『私、絵を描いてるとき、楽しいと思えたの。次はどの色を混ぜようって、それしか考えなくてよくて、頭の中がしんとして、すごい楽に思えた』


 母が、その紙を、じっと見ていた。


『でも、次の春、絵画教室が、塾になった。「どっちもは難しいから、凪咲のためになる方にしようね」って。お母さんが、言った』


 母の顔が、ゆっくりと、青ざめていく。


「……言った。言ったわ、私。……あのとき」


『お母さんは、悪くないの。本当に。ずっと、私のために、やってくれてた。それは、わかってるの』


 ペンを持つ手が、震えていた。寒さじゃない。あの時から今までの分の震えだった。


 そこで、ペンが止まった。続きが書けなかった。喉と、同じだ。一番、本当のことは、紙の上でも、やっぱり重い。ペン先が紙に触れたまま、動かない。


 母は、待っていた。私のペンが、次の一画を出すのを。急かさずに。跨線橋の下で、一段目に足をかけたまま動けなかった私を、彼が待っていてくれたように。


「……ゆっくりで、いいのよ」


 母が、静かに言った。


「お母さん、どこにも行かないから。ずっと、ここにいるから」


 深く、息を吸った。


 そして、私は、声で言うことにした。いちばん本当のことだけは。紙じゃなくて、声で。喉の石を真正面から、押しのけて。


「……わかってるから、」


「わかってるから、余計に……言えなかったの」


「……何を?」


「お母さんのこれまでを……『無駄だった』って、言ってるみたいで」


声が、割れ始める。


「お母さんは、私のために、ぜんぶ、やってくれた。塾も、送り迎えも、お弁当も、単語カードも。それが全部、愛情だって、わかってるの。……だから、『本当はやめたい』なんて、『こんなの要らない』なんて、言えなかった。言ったら、お母さんの、今までの全部を、否定することになるから」


「凪咲……」


「お母さんを、傷つけるくらいなら。……私が、黙っていれば、いいって。私が、我慢すれば、丸く収まるって。……ずっと、そう思ってた」


 涙がこぼれた。止まらなかった。


「でも……黙ってたら。声が、出なくなったの。ぜんぶ。……お母さんには、特に出なくなった。大好きなのに。本当は話したいのに。……声が、届かなくなったの」


 言い終えて、私はうつむいた。


 言ってしまった。飲み込んできた石を、母の前に、置いてしまった。母を、地獄に突き落とす凶器だと、ずっと思っていた言葉を。本音を。


 ———長い、沈黙だった。


 私は、母の顔を見られなかった。怖かった。母が、どんな顔をしているのか。私が今、母の人生にどんな傷をつけてしまったのか。


 やがて、母の手が伸びてきた。私の頬に触れて、涙を、指で拭って、そして、母は、私を抱きしめた。


 床の上で、膝で、にじり寄って。雪で湿ったコートの匂いがした。母の肩が、震えていた。私の背中に回された腕に力がこもる。


「……ごめんなさい」


 母の声も、震えていた。


「ごめんなさい、凪咲。……お母さん、全部、あなたのためだと思ってた。本当に、心から、そう思ってた。あなたが幸せになるって、信じて。……それが」


 母は、そこで言葉に詰まった。今度は、母の喉が、詰まる番だった。私たちはやっぱり、親子だ。詰まり方まで似ている。


「それが……あなたの声を、奪ってたなんて。あなたを、こんなに、追い詰めてたなんて。……お母さん、気づいて、あげられなくて。ううん、違う。気づこうと、しなかった。あなたの『大丈夫』を、本当だって、思いたかったから。……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」


 私は、首を振った。母のコートに顔を埋めて、何度も振った。


「……ちがうの。お母さんを、責めたいわけじゃ、ないの」


「わかってるわ」


「謝ってほしくて、言ったんじゃ、ないの。ただ……」


 声が、掠れる。それでも、言った。


「ただ、知ってほしかったの。私が、ここに、いるって。……よくできた娘の下に。送電線の色を混ぜるのが好きな、ただの、凪咲が、いるんだって」


 母の腕の力が、更に強くなった。


「いる」


 母が、私の耳元で、言った。


「いるわよ。ちゃんと、いる。……お母さん、その凪咲に、会いたかった。ずっと。ごめんなさい。今まで、見てあげられなくて」


 私たちは、しばらく、抱き合ったまま、動かなかった。


 母のコートが、私の涙で、濡れていく。玄関は寒かったけれど、抱きしめられた場所だけ、温かかった。多分、私は今日、二人の人に、大事に受け取ってもらったのだ。


 本当の私自身を。そっくりそのまま。


 やがて、母が、身を離して、言った。


「……こんなところで。寒いわね。中に、入りましょう。温かいもの、淹れるから」


 私たちは、居間へ移った。


 母が、ココアを淹れてくれた。「紅茶より、こっちの気分ね」と。どうしてわかったんだろう、と思った。


 母は、私のことを、わかっている部分も、ちゃんとある。ずれていた部分のすぐ隣に確かにあった。


 私は、まだスケッチブックを、膝に抱えていた。マグカップの湯気の向こうで、母と、向かい合う。長い、長い夜になった。


 それから話したことは、たくさんあった。


 喉の石のこと。詰まる瞬間のこと。学校で、朗読を当てられて、立ち尽くした日のこと。友達の助け舟のこと。押し入れの海を、いつか、もう一度、描いてみたいと思っていること。声で言えないところは、紙で。紙でも詰まるところは、また、声で。


 母は、一度も、遮らなかった。


 何度も泣いて、何度も「ごめんね」と言いかけて、そのたびに、それを飲み込んだ。謝罪で、話を終わらせないために。


 最後まで、聞くために。時々、「それは、つらかったね」とだけ、言った。「気づかなくて、ごめん」じゃなくて。「つらかったね」と。


 それが、多分、私が一番、言ってほしかった言葉だった。


 駅のことは、少しだけ、話した。線路の向こうに、毎日、待っていてくれる人がいること。声じゃなくて、紙で、話す人だということ。


 その人が、私に、白紙を掲げていいと言ってくれたこと。詰まっても、いいんだと。何も書けない日は、何も書けないままで、いいんだと。


「……その人が、今日?」


 母が、そっと、訊いた。


「うん。……その人が、今日、教えてくれたの。声の、出し方を。もう一度」


「そう」


 母は、それ以上は訊かなかった。名前も、どんな人かも。訊かないでいてくれた。


 母も私と彼の間にあるルールみたいなものを守ってくれたのかもしれない。訊かないことが、優しさになる場合があると。


「……お母さん、その人に、お礼を言いたいわ」


「いつか、ね」


「うん。いつか」


 夜が、更けていった。ココアは、とっくに空になっていた。


 そして、転校の話になった。


「凪咲」


 母が、マグカップを両手で包んで、まだ少し赤い目で、言った。


「東京の学校。……あれ、お母さんが、勝手に、進めてた」


「……うん」


「あなたの声のことを、学校から聞いて。環境を変えれば、って。専門の先生もいる、静かな学校だからって。……あなたのためだって、また、思って。また、同じことを、してた」


 母は、そこで、少し笑った。泣き笑いのような、笑い方だった。


「今までと同じ。あなたの選択肢を、あなたより先に勝手に選んでいた。……ねえ、凪咲。お母さん、学習能力がないのね」


「……そんなこと、ない」


「ううん。あるの。でも」


 母は、マグカップを置いて、私の手を両手で包んだ。


「でも、今夜は、選ばない。……あの学校に行くのも、この町に残るのも。全部、白紙にしましょう。一度、まっさらにして。それで、凪咲の声で、決め直しましょう。凪咲の言葉で、どうしたいか話して。お母さん、今度は……聞くから」


 白紙。


 母の口から、その二文字が出たとき、私は、少しだけ、笑ってしまった。こらえきれずに、涙のまま、笑った。母が、不思議そうな顔をした。


「……どうしたの?」


「ううん」


 私は、首を振って、掠れた声で、答えた。


「……なんでもない」


 今まで、何度も口にした「なんでもない」が一つの幸せの形に変わった。


 笑った理由は、内緒にしておいた。白紙が許される場所を、私が知っていることは。


 線路の向こうに、白紙を掲げていいと言ってくれた人がいて、今夜、母が、その同じ二文字を私にくれたことは。今は私だけの秘密。


 いつか、話す日が来るかもしれない。母に、彼のことを。駅のことを。白紙のことを。全部。


 でも、今夜はまだ、今はこの温かさだけで十分だった。


 今日、私は母に、私の言葉を渡した。一枚ずつ。声と時々、紙で。


 石は、まだ喉奥にある。明日の朝、また、詰まるかもしれない。母の前で、また、言葉を失う日も、あるかもしれない。


 でも、今夜、私は知った。


 石があっても、声は出せる。出していい相手と、待っていてくれる相手が、いれば。掠れても、途切れても、時々、紙を使っても。


 言葉は、届く。一番届けたい場所に。必ず。

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