三十三話
時間が差し迫る頃には、僕のマーカーが、掠れ始めていた。五ヵ月、走り続けたインクだった。クロッキー帳の残りも、あと数枚。書くたびに、太い線の真ん中に白い筋が入る。
僕は書く前に息を吹き込み、キャップを閉めて振り、だましだまし、最後の在庫を絞り出していた。
その時、遠くで警笛が鳴った。雪の奥。下りの方角。除雪を終えた線路を、光がゆっくりと、こちらへ向かって動き始めていた。
雪の神様がくれた延長戦の終わりの笛だった。
彼女も、気づいた。ヘッドライトの方を見て、僕を見て、それから、背筋を伸ばした。ペンを取る。書く。掲げる。
『(凪咲) 最後のクイズです』
『(凪咲) 一番簡単な問題だよ』
雪が、彼女のスケッチブックの上で溶けていく。彼女は最後の一枚を、ゆっくりとめくって、両手で、まっすぐに掲げた。
『(凪咲) 私の名前は何?』
———その瞬間、この世界の時間が止まった気がした。
名前。文庫本の見返しで眠らせると決めた四文字。訊かない、書かない、呼ばない。黒い塗りつぶしの数だけ積み上げてきた、僕たちの法律の中の最も重要な条文。
それを彼女はいま、最後の問題にした。答えは、知っている。ずっと知っていた。
でも、多分、書いて掲げたら、それは正解じゃない気がする。この問題の正解の出し方は、一つしかない。
きっと、彼女は、それを求めている、はず。ヘッドライトが近づいてくる、この数分間に。
僕は、クロッキー帳のページを開いた。何も書いていない、まっさらな一枚。この一発勝負のために、ずっと空けておいた一枚。
掠れかけたマーカーに最後の息を吹き込んで、僕は書いた。僕と彼女の今までを全部、八文字に込めて。
『(創太) 君の声が聞きたい』
掲げた。彼女の目が、見開かれた。
僕はその一枚を、ベンチの背に彼女から見える角度で立てかけた。クロッキー帳ごと。もう、書く紙は要らない。
そして、走った。
「おい、常連!」
改札の脇で、駅員さんが目を丸くした。僕がホームの端へ、跨線橋へ向かって走っているのを見て、それから一瞬で、何かを察した顔になった。
「すべるぞ! 手すり掴んで行け!」
一段目。二段目。三段目で、足が滑った。融雪剤の白い粒ごと、雪が凍りかけている。膝が鉄板を打って、鈍い音がした。痛い。どうでもいい。
緑の手すりを掴んで、体を引き起こす。四段目。五段目。彼女が何十回も頭の中で上ったであろう階段を、僕は膝を濡らしながら駆け上がる。
通路。小さな窓の外、レール。上から見れば、ただの細い鉄。僕たちを隔てているこの脆そうな細い鉄。そして、下りの階段。今度は滑らなかった。
二番線。
彼女は、ベンチの前に立っていた。絵を胸に抱えて、雪の中で、まっすぐにこちらを見て、ヘッドライトが雪の奥で大きくなっていく。
僕は歩み寄って、初めて、十メートルより近くで、彼女の前に立った。
近い。声の届く距離。
息が白かった。僕のも、彼女のも。二つの白い息が、初めて、同じ光の輪の中で混ざった。
僕は、息を整えて答えた。僕自身の声で。
「白瀬、凪咲さん」
彼女の肩が震えた。
「初めまして。真木創太です」
正解の出し方は、これで合っているはずだった。彼女の目から、涙が一粒、雪と一緒に落ちた。僕は続けた。ここからはクイズの答えじゃない。お返しだ。三月十四日の。
「お返しに来た。……チョコの箱の、いちばん底まで届いた言葉のお返し」
一度、息を吸う。
「君は、君の本当の声を出して、生きていい。誰かの期待は、君自身の声で裏切っていい。書けない日は白紙でいいし、明日も明後日も、これから全部白紙だっていい。でも、もし、今夜だけ、一枚分だけ、声が出せるなら———」
「僕の名前を君の声で聞かせてほしい」
彼女の手が、僕の学ランの袖を掴んだ。初めて感じる彼女の指の力。俯いて、肩で息をして、喉の奥で何かと戦っている。
「……っ、」
掠れた息が、漏れた。
「……ま、き……くん」
———出た。
小さくて、掠れていて、途切れそうで。それでも、確かに、彼女の声だった。彼女は顔を上げた。大泣きしながら、でも笑っていた。そして、涙と一緒に、続きが零れた。
「私を見つけて、くれて……ありがとう。初めまして、真木くん、真木創太くん」
雪の静寂の中に、その声が響く。
五ヵ月分の大量の紙面に書かれた文字たちが、頭の中で一斉にこの声で再生され直していく。『泣けるんだ?』も『天才?』も『また明日』も『……たぶん、嘘』も、全部、この声だったのだ。
想像していた声と、違った。想像より、ずっと彼女らしい声だった。
下り列車が、雪を巻き上げてホームに入ってきた。僕たちはベンチの前で、並んで、それを見ていた。扉が開く。誰も降りない。誰も乗らない。彼女は動かなかった。
僕は思わず訊いた。
「……乗らないの」
彼女は首を振って、それから、掠れた小さな声で言った。
「見送るの。……得意なので」
扉が閉まって、列車は雪の向こうへ出ていった。ランプの赤色が、闇に溶けて消える。彼女は初めて自分で選んだ。二人で同じホームから電車を見送ると。
それから彼女は、胸に抱えていた絵を、両手で差し出した。
『十七時四十五分』
二番線から見た、彼女がいつも見ている一番線の僕。
「……もう手渡し、できた」
僕は受け取って、代わりに、紙袋を渡した。焼き菓子。世界一ありきたりで、世界一遠回りなホワイトデーだった。
「あと、もう一つ」
僕たちは、初めて同じホームを、並んで歩いた。人の歩幅に合わせるという行為を、僕は彼女と、初めてやった。
改札の脇の自動販売機。この駅にたった一台の自販機。僕は硬貨を入れて、あったかいココアを、二本買った。
一本を手渡す。缶の熱が、手袋越しに移っていく。
「世界でいちばんあったかい飲み物。……答え合わせの続き」
彼女は缶を両手で包んで、一口飲んで、目を閉じた。それから、笑って、小さな声で言った。
「……正解」
決して、治ったわけではないのだと思う。彼女の声は掠れていたし、一言ごとに、喉の門番と交渉している間があった。明日はまた、出ないかもしれない。
でも、きっと出し方を思い出したのだ。出していい場所と、待っていてくれる人がいれば、声は帰ってくる。
雪はまだ降っていた。僕たちは並んでココアを飲みながら、次の列車を待った。何も話さない時間が、少しあった。
白紙の時間。
そこには、二人分の白紙が初めて隣り合っていた。




