三十二話
三月十四日は、朝から雪だった。
天気予報の言った通り、いや、予報より少し早く、少し強く。昼休みには校庭が白くなり、五時間目には、窓の外が絵本のページみたいになった。
教室のあちこちで「積もるぞ」「電車やばくない?」という声が上がる。僕は窓の外ばかり見ていた。
「おい創太、帰り気をつけろよ。マジで積もるぞ、これ」
帰りのホームルームのあと、健人が言った。それから僕の顔をまじまじと見て、付け足した。
「……お前、今日、行くとこあるんだろ」
「なんでわかる」
「わかるよ。新作ゲームの発売日前日くらい、そわそわしてるからな」
健人は、たまに、無駄に鋭い。僕は「ん」とだけ返して、鞄を担いだ。鞄の中には、クロッキー帳。描き上げた四コマの最終回。小さな紙袋に入れた、店で選んだ焼き菓子。
学校から駅までの二十分は、雪のせいで二十五分かかった。踏切の警報音が、雪に吸われてくぐもって聞こえる。
国道の車はみんな徐行していて、町全体が、音量を絞られたみたいだった。三月の雪は重たくて、傘の上でしんしんと嵩を増していく。
駅に着くと、駅員さんが改札の前で雪かきをしていた。
「おう、来たな、常連」
竹箒じゃなくて、今日は雪かき用のスコップだった。駅員さんは腰を伸ばして、掲示板の隣の小さな電光表示を顎で示した。
「電車、遅れてるぞ。上も下も、だいぶな。除雪が追いついてないんだと」
「遅れてる」
その言葉が、胸の中で妙な音を立てた。駅員さんは僕の顔を見て、にっと笑った。
「まあ、あれだ。ゆっくりしていけ」
十七時四十分。彼女は、来た。
スロープの向こうから、傘も差さずに、走って。マフラーに雪を載せて、肩で息をして、二番線のいつものベンチに辿り着いて、こちらを見て、マスクの上の目で、笑った。
『(凪咲) 走ってきた』
『(創太) 見ればわかる。傘は』
『(凪咲) 途中で、裏返った』
『(創太) 雪を舐めた罰』
『(凪咲) 舐めてない。急いだだけ』
彼女は前の夜、ホワイトボードに一行だけ書いたのだという。『明日だけは、電車で帰らせてください。お願いします』と。
母親は長いことその一行を見て、それから「……最後だものね」と言ったそうだ。
十七時四十二分になった。上り列車は、来なかった。十七時四十四分になった。下りも、来なかった。頭上のスピーカーが、雪のせいで少し割れた音のアナウンスを流した。
『―大雪の影響により、上下線とも、大幅に遅れております。運転再開の見込みは――』
僕たちは、ほとんど同時に顔を上げて、線路越しに目を合わせた。
そして、ほとんど同時に、理解した。今日は時刻表が雪で足止めを食っている。つまり、今日だけは空白の時間が延長される。
『(凪咲) これって』
『(創太) 延長戦だ』
『(凪咲) 神様って、いるかもね』
『(創太) 雪の日だけいるらしい』
僕たちは笑った。声のない笑いと、マフラーの中の笑いが、降りしきる雪の中で向かい合った。水銀灯の光の柱の中を、無数の雪が落ちていく。二つの舞台照明は今夜、いつもの倍、明るく見えた。
それからの時間を、僕たちは、全力で使った。在庫という在庫を、放出した。くだらない話を、真剣にやった。
『(凪咲) 寮の持ち物リスト』
『(凪咲) 傘がなかった』
『(凪咲) 東京は雨降らないかも』
『(創太) 降るよ、常識』
『(凪咲) 常識は苦手』
『(創太) 知ってる』
『(創太) 覆面パトカーの人だし』
『(凪咲) あれは本物志向』
インクの残りも、紙の残りも、頭の隅で数えながら、それでも僕たちは手を止めなかった。五ヵ月間、鍛えた僕たちの筆談は、今夜、これまで史上最高速で回っていた。
やがて、僕は決めた。順番が、来たのだ。
『(創太) 四コマ、最終回です』
彼女が、居住まいを正すのがわかった。ベンチの上で背筋を伸ばし、両手を膝に置く。あの、まっすぐ受け取る姿勢。
僕はクロッキー帳をめくって、描き上げてきた四コマを、雪に濡れないように少し傾けて、掲げた。
一コマ目。詰所の窓から、いつものように一番線と二番線を眺める駅員さん。
二コマ目。一番線のベンチで紙を掲げる、学ランの男。
三コマ目。二番線のベンチで紙を掲げる、ブレザーの女の子。
そして、四コマ目。
雪の降るホームに、二人が、並んで立っている。同じホームに。線路のこっち側でも向こう側でもなく、同じ光の輪の中に。それを詰所の窓から見つけた駅員さんが、湯呑みを持ったまま、一言。
『やっと会えたのかい』
実在しない光景だった。没にした第五話の描けなかった四コマ目。それを僕は、最終回に持ってきた。
彼女は、長いこと、動かなかった。雪が、彼女のマフラーに積もっていく。やがて彼女はペンを取って、震える線で書いた。
『(凪咲) 反則』
『(創太) 泣かせたら反則だった』
『(凪咲) 大反則。罰金です』
『(創太) 罰はあとで受けるよ』
彼女はマスクを外した。素顔が見えた。泣いて、そして笑っていた。バレンタインの夜と同じようで、まったく違う泣き笑い。彼女は目元を拭って、それから、居住まいを正し直した。
今度は、彼女の番だった。
『(凪咲) じゃあ、私の番』
彼女は、スケッチブックを持ち上げた。いつものように構えて、でも、開いたのは、いつものまっさらなページじゃなかった。
一番、最初のページだった。いつも飛ばされる、あの数ページ。風の日に一瞬だけ見えて、『没収します』と言われた、あの色のあるページ。彼女はそれを、一枚ずつ、ゆっくりとめくって、掲げていった。
海辺の風景。灰色の防波堤と、橙色の空。
夕暮れの送電線。黒い線が、燃える空を横切っていく。
名前のない野良猫。日向で丸くなった、白と茶色。
十メートル先から見る彼女の秘密は、小さくて、遠くて、それでも、はっきりと美しかった。
『いつか。ちゃんと描けたら』
今日いちばん小さな字で書いた人が、いま、その「いつか」を一枚ずつめくっている。
そして、最後に一枚。それは、見覚えのある景色だった。当たり前だ。僕は毎日、その景色の中にいる。
夜の駅。二本の水銀灯。降る雪。
そして、一番線のベンチに、クロッキー帳を膝に置いて座る、学ランの男が一人。それは二番線から見た、十七時四十五分の僕だった。
『(凪咲) 新作です。題は———』
『(凪咲) 「十七時四十五分、』
『(凪咲) 向かいのホームの君」』
『(凪咲) これが、渡したいもの』
彼女は絵を胸に抱えて、書いた。
『(凪咲) 手渡しできる日まで』
『(凪咲) 心の中で預かっていて』
手渡しできる日。十メートルの線路の向こうから差し出された、その言葉の意味を、僕は雪の中で、静かに受け取った。




