三十一話
三月十三日、十七時四十五分。
最後から二番目の空白に、粉雪が舞い始めていた。積もらないやつだ。地面に触れる前に消える、粉砂糖みたいな雪。水銀灯の光の輪の中でだけ見える雪。
四ヵ月前の夜と、同じ種類の。
『(凪咲) 明日、大雪だって』
『(創太) 常連に天気は関係ない』
『(凪咲) 頼もしい』
『(創太) 明日来られる?』
『(凪咲) 何があっても来る』
『(創太) 了解。何があっても』
『何があっても』を二人で一枚ずつ。短い誓約書を交わした。いつも通りの往復を、僕たちは、何も変えずいつも通りにやった。
明日の話は、それ以上しなかった。引っ越しの話も、ダイヤの話も。最後から二番目の夜には、二番目らしいやり方がある。いつも通りこそが、まさに正しい。
特別なことは、全て明日へ。今夜は、ただの平日の十分間でいい。
『あめ、きらい』と書いた日。
『さむいね』と書いた日。
それらと同様の『ただの一日』だ。その『ただの一日』が、何回も続いてきたことの奇跡を、僕はようやく気付いた。
一番幸せな時間は、幸せだと気づかないまま過ぎていく。気づいたときには、大抵、終わりが近い。電車の走行音が、粉雪の向こうから近づいてくる。
彼女がページをめくった。書く。掲げる。
『(凪咲) 明日。忘れてないよね?』
年末年始の付箋の一枚。それと同じ言葉。思わず、口に出して、「忘れていない」と答えたあの言葉と同じだ。
そして今夜、僕は書いた。あの時と変わらない言葉を。
『(創太) 忘れるわけがない』
彼女は頷いて、最後にもう一枚、掲げた。
『(凪咲) じゃあ、また明日』
———また明日。
十月からずっと、僕たちの一日を締めくくってきた四文字。何百回も掲げて、何百回も口の形にしてきた、一番軽くて、一番確かな約束。それが今夜は、こんなにも重い。
『(創太) また明日』
その四文字を掲げながら、僕は思った。明日、僕たちは『また明日』を掲げない。明日からは『また明日』が存在しない世界になる。十月からずっと、当たり前に繋がっていた言葉が行き場を失う。
だから、今夜の『また明日』を、僕は目に焼き付けた。彼女の掲げる、少しだけ丸い文字をこれでもかと。
列車が、粉雪を巻き上げてホームに滑り込んでくる。乗り込む間際、僕は振り返った。彼女は雪の中で、スケッチブックを胸に抱えて、指先を小さく振っていた。
動き出した窓の外、遠ざかる光の中で、白い息と、濃紺のマフラーをつけた彼女の姿が、残像になって焼きついた。




