三十話
三月十二日の夜、私の部屋は、段ボールの海になっていた。
本棚が空になり、机の引き出しが空になり、九年分の参考書が番号つきの箱に沈んでいく。小学校の頃のドリルまで、母は捨てずに取ってあった。私の九年間が、そのまま、番号の振られた段ボールになって、廊下に積み上がっていく。
———よくできた娘の、よくできた記録。
その箱のどこにも、私の絵は入っていない。あれは、母の求めている公式な記録じゃないから。私の九年間の公式記録には、私の一番好きなものだけが載っていない。
母は手際よく、丁寧に、私の部屋を畳んでいった。その手つきは、絵をクリアファイルに仕舞った夜と、同じ手つきだった。
ただ今回は、私も隣で、同じように荷造りをしている。几帳面に、角を揃えて、隙間を緩衝材で埋める。母のやり方を、私は、いつのまにか完璧に真似られるようになっていた。
血は争えないということなんだと思う。私は母の事を息苦しいと思っている。同時に、母の手つきを、指の先まで受け継いでいる。
だから、憎めない。憎めないから、逃げるしかなかった。逃げるための引っ越しの荷造りを、当の母と、同じ手つきで、並んでやっている。
そんな皮肉な夜だった。段ボールの海の真ん中で、私と母は久しぶりに、長い時間、同じ作業を、黙って、一緒にやっていた。
スケッチブックだけは、箱に入れなかった。当日の手荷物のリュックの一番取り出しやすい場所に入れた。あの厚い紙の束と、太いフェルトペンと、定期入れ、そして貰った本。
私の全財産は、リュック一つに収まった。荷造りの合間に、私は定期入れの中身をひっそりと点検した。大量の付箋。
『頬、お大事に』
『終わりが決まってない』
『十分間の同志より』
『手紙の一号の予約券』
一枚ずつ数えて、順番に戻して、定期入れを両手で包んだ。これが私の全部。軽くて、燃えやすくて、でも、喉の奥にある石なんかよりもずっと重い。そういうもの。
「凪咲、この棚の分はもう詰めていい? あら、本が足りないみたい」
母が、空に近い本棚を指した。参考書の抜けた隙間が二冊分。『星の王子さま』と『ぼくは勉強ができない』のあった場所だ。私はホワイトボードを持ってきて、書いた。
『その二冊は、友達にあげた』
母の手が、止まった。
「……友達に?」
私は頷いた。母は、隙間と私を交互に見て、それから、何かを訊きかけて、やめた。代わりに、少しだけ不思議そうな、少しだけ安心したような、複雑な顔で言った。
「そう。……いいお友達が、いたのね」
「いたのね」の過去形が、胸に刺さった。刺さったけれど、私は頷いた。「います」と現在形で書き直す勇気はまだなかった。
テレビの天気予報が、居間から聞こえてきた。
「明日から明後日にかけて上空に強い寒気が入り、太平洋側でも、季節外れの大雪となる恐れがあります。交通機関の乱れに、ご注意ください』
季節外れの大雪。私は窓のカーテンを少しだけ開けて、外を見た。まだ、雪は降っていなかった。三月の夜空は、雪の気配を隠して、ただ静かに濁っていた。
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僕は机の上に、描き上がったばかりの四コマを置いていた。
『三崎賀原駅の一日』、最終回。四コマ目に、僕は初めて、実在しない光景を描いた。描き終えて、しばらく眺めて、それからクロッキー帳を閉じた。
夕方には、駅前の商店街の洋菓子店で、焼き菓子の詰め合わせを買った。店員さんに「プレゼントですか」と訊かれて、僕は「はい」と答えた。声を出して、堂々と。
半年前の僕なら、曖昧に頷いて、ごまかしていたと思う。包装のリボンは、迷わず、彼女に似合う紺色にしてもらった。
テレビが、『大雪の恐れ』と言っていた。僕はベランダの窓から、夜空を見上げた。まだ、降っていない。
でも、空気の匂いが、もう十二月のあの夜に似ていた。雪虫の代わりに、僕の白い息だけが、三月の夜に昇って消えた。




