二十九話
隣の席の子に伝えられたのは、三月の最初の月曜日だった。
朝のホームルームの前、私は一枚の付箋を、彼女の机の端にそっと貼った。三日前から書いては剥がしていた、四度目の清書だった。
『三月で多分、転校します。東京の学校へ。黙っていて、ごめんなさい』
彼女は付箋を読んで、固まって、私を見て、もう一度付箋を読んだ。それから、勢いよくペンを取って、返事を書いた。丸い字が怒っていた。
『なんで早く言ってくれないの!』
マスクを外して、「ごめんなさい」と口の形で言うと、彼女は何かを言いかけて、やめて、猛烈な速さで二枚目を書いた。
『今、泣きそうだから、授業中に泣いたら凪咲さんのせいだからね』
三枚目も続けて渡してくる。
『じゃあ、それまで、毎日、隣の席で約束、ね』
約束。
私は頷いた。何度も頷いた。口が「ありがとう」の形に動いた。彼女はそれを読み取って、「どういたしまして」と、小さな声で返してくれた。
その日から、私たちの机の間には、付箋の往復が生まれた。彼女は面白がって、専用のメモ帳まで買ってきた。
『これ、筆談って言うんだよね。なんか、いいね。ゆっくり話せるし』
駅の外の世界にもう一つ、大切な往復が出来た。その子は、私の声のことを、根掘り葉掘り訊かなかった。
「治してね」とも「頑張って」とも言わなかった。ただ、隣の席で、この紙の速度に合わせてくれた。
彼が線路の向こうでしてくれたことと、同じだった。
私にとっての優しさというのは、自分の速度に合わせてくれることなのだと思った。
私はこの五ヵ月の間に、それをしてくれる人に二人も出会った。今までの私の生活は何だったんだろうと思えるほどの変化。それはきっと、遅すぎたなんてことはなかった。
クラス全体への転校の公表は、最後の日でいい、と決めた。お別れ会も、寄せ書きも、要らない。私の三月は、もう、行き先が決まっている。
付箋のメモ帳は、二人の間で、みるみる分厚くなった。ある日の彼女の一枚は、こうだった。
『東京の住所、教えてよね。文通するから』
『手紙、書いたことあるの?』
『ない! 初めて書く! 凪咲さんが第一号だよ』
手紙の第一号。その言葉を、私は定期入れの束の仲間に入れた。行き先の決まった三月十四日以降も、この約束は続いていく。そう思うと、心の中をあったかいものが満たしていった。
****
残りの十七時四十五分を、僕たちは一枚ずつ、丁寧に使った。彼女が来られない日も、僕はずっとクロッキー帳を手に持ちながら、駅にいた。
彼女がいない十分間、考えることは一つだけだった。
三月十五日からの僕は、この駅のホームのどこで電車を待てばいいのだろうか。夕方、短くなったダイヤの中、僕自身のこのホームでの立ち位置が分からなくなりそうだった。来る電車の間隔が短くなる。
向こう側のホームの彼女が居なくなる。周りから見たら、些細なことだと思う。でも、その事実は僕にとって、不都合な形をしている。
誰もいない二番線に向かって、僕は時々、掲げない一枚を膝の上で書いた。
『今日も来た』と掲げる相手のいない出席簿が、クロッキー帳に少しずつ、溜まっていった。
彼女の来られる日は週に三日程度だった。その三日の十分間は、残りの二日分を補うように以前の倍の密度で流れた。
持ち越しクイズの在庫も、計画的に消化された。
『世界で一番静かな音は?』
『世界で一番長い一分は?』
答え合わせのたびに、残りの回数が減っていく。静かな音の答え合わせは、こうだった。
『(創太) 雪が積もる音』
『(凪咲) 正解は白紙をめくる音』
『(創太) それはそれが正解だ』
『(凪咲) でしょう』
出題者が正解を持っているとは限らない、というのがこのクイズの掟だったけれど、彼女の正解は、いつも僕の答えより、少しだけ正しかった。
ある日、彼女が予告した。
『(凪咲) 最後のクイズは最終日に』
『(創太) 最終日? 答えは?』
『(凪咲) 持ち越さずその場で』
『(創太) 難易度による』
『(凪咲) 簡単だから大丈夫』
春の便りも届いた。ある夕方、見覚えのある三年生が、四十二分の上りの乗車位置に立っていた。一月に、深呼吸をしてから乗っていった、あの人だ。
今日は参考書を持っていなかった。代わりに携帯を握りしめて、画面を見て、雪の残るホームで、一人で泣いて、そして笑っていた。
『(凪咲) 受かったんだね』
『(創太) だと思う。よかった』
『(凪咲) 祈りが効いた』
『(創太) そういう事にしよう』
知らない誰かの春が、確かに来ていた。春は、律儀だ。律儀で、そして、誰の事情にも構わずにその時期になれば、必ず来る。あの人の春と、僕たちの三月十五日は、同じ暦の上に、並んで印刷されている。
駅員さんは、多分、分かっていた。ある夕方、融雪剤の袋を抱えた駅員さんが、僕のベンチの前で足を止めて、世間話みたいに言った。
「三月十五日からは、兄ちゃんも四十六分ので帰るのかい」
「……はい。たぶん」
「そうかい」
それだけだった。駅員さんは二番線の方を見て、それから掲示板の方を見て、何も言わずに、跨線橋の階段に白い粒を撒きに行った。ざら、ざら、という音が、いつもより少しだけ、丁寧に聞こえた。
そういえば、四コマ漫画のことも、決めなければならなかった。
『三崎賀原駅の一日』は、あれから第十話まで続いていた。最終回をどうするか、と考えているものの僕の頭の中には、ずっと、没原稿が浮かんでいた。
クロッキー帳の後ろで眠っている、第五話に書こうとした『常連二人が、同じホームに立つ回』。三コマ目で止まったまま、そのままになってしまったものだ。
『(創太) 四コマ最終回は当日に』
『(凪咲) 楽しみにしてる』
『(凪咲) 泣かせたら反則だよ』
『(創太) 努力します』
『(凪咲) 努力の方向が心配』
その夜、僕はクロッキー帳のいちばん後ろを、久しぶりに開いた。没になった第五話『常連二人が同じホームに立つ回』の白いコマの縁を、指でなぞった。二月の僕は、想像の中でさえ、ここに二人を立たせられなかった。
———最終回に、これを描こう。
描けるかどうかは、分からない。でも、締め切りというものは残酷で、そして少しだけ、目的を達成するうえでは有能なのだ。
それから、蔵書の問題があった。
僕の手元には『星の王子さま』『僕は勉強ができない』がある。彼女の手元には『夜のピクニック』『銀河鉄道の夜』がある。最終便で全部交換して、元の持ち主に戻すのが、多分、正しい手続きだった。
『(創太) 本どうする?』
彼女の返事は、少しの間のあとに来た。
『(凪咲) 返さなくていい』
『(創太) ?』
『(凪咲) 二人目の持ち主になって』
『(創太) じゃあ、僕のも』
『(凪咲) いいの?』
『(創太) お返しだから』
彼女は、マスクの上の目を細めて、深く頷いた。返すのをやめた瞬間、貸し借りは、贈り合いに変わった。
互いの本棚に、互いの字が、永住することになった。東京の寮の本棚に僕の蔵書が並ぶところを想像した。想像は、少しだけ痛くて、少しだけ、誇らしかった。見知らぬ寮の、見知らぬ本棚。
その一冊の見返しに、僕の名前が書いてある。彼女がそれを開くたび、三崎賀原駅の十メートルが、東京の彼女の部屋に、少しだけ再現される。
距離は、本の厚みでは埋まらない。でも、本の分だけ、確かに、近くはなる。そう思うことにした。思わないと、やっていられない夜が近づいていた。
そして、僕は正式に予告した。ずっと胸ポケットで折り畳まれていた一枚を。
『(創太) 三月十四日』
『(創太) 伝えることがある』
彼女のペンが、一瞬止まって、それから彼女は、ゆっくりと書いた。
『(凪咲) 了解。私も渡したい物がある』
『(創太) 物?』
『(凪咲) 内緒』
『(創太) こっちも内緒』
お互いの宣言が成立した。三月十四日の空白の十分間に、二つの『内緒』が待ち合わせをした。家に帰って、僕は二冊目のクロッキー帳の残りページを数えた。残り十七枚。最終回の四コマに一枚。当日の筆談に、余裕を見て十枚。
多分、足りるだろう。当日の会話に下書きは要らない。思いを伝えるのなら、考え抜いた言葉じゃなくて、その瞬間に、体の奥から出てくる言葉であるべきだ。
彼女がいつも、詰まりながら、それでも紙の上に本当の声を出してきたように。僕も一度くらい、剥き出しの一枚を、掲げたい。それを掲げることができる相手が目の前にいるのだから。
ただ、そう思いつつも、そこに何を伝えたいのかは、もう、決まりかけていた。決まりかけているけれど、当日の自分にすべてを託すことにした。




