第九話「本当のこと」
三月二十六日も、試験のない日だった。
東京の会場で一次を受けた子たちが、この日、二次を受けている。ひかりは朝から、ほとんど部屋を出なかった。
喉は少しずつ戻っていた。母が毎晩、濡れたタオルをかけてくれたからかもしれない。美羽の黄色いのど飴は、まだ開けずに、受験票と一緒に生徒手帳に挟んであった。
午後、母が窓の外を見て言った。
「桜、ちょっと咲いとるよ」
ひかりは窓際へ行った。遊歩道の桜並木の、一本の枝の先に、白いものが二つ三つ見えた。
「ほんと」
ひかりはまた机に戻った。
何もすることがなかった。歌の練習をしても、もう遅い。楽譜を見ても、昨日声の出なかった一小節が浮かぶだけだった。
ひかりは手すりの代わりに、窓枠に手を置いた。背筋を伸ばす。顎を引く。
ガラスの向こうで、白い花びらが一枚、風に揺れていた。
三月二十七日。二次の発表の日。
時刻の前に、ひかりはベッドの端に座った。母は窓際の椅子に座った。一次の朝と、同じ場所だった。
時刻になった。
ひかりは画面を開いた。
数字が並んでいた。一次のときより、ずっと少なかった。画面を少し動かしただけで、一番下まで見えてしまう数だった。
ひかりは上から順に見ていった。指が震えて、画面が少し揺れた。
あった。
受験票を出して、画面の横に並べた。同じ数字だった。
ひかりは、すぐには顔を上げられなかった。
裏返った声。出なかった一小節。回る向きを間違えた足。それでも、番号はそこにあった。
嬉しい、とは思わなかった。
少なかった。
一次のときは、指で何度も画面を動かさなければ、終わりまでたどり着けなかった。今は、画面一つに収まっている。この中から、明日、また半分ほどが消える。
残った番号の一つ一つに、ひかりと同じように喉を枯らし、眠れない夜を過ごした誰かがいる。
自分の番号が、急に心細く見えた。
母が椅子から立ち上がった。画面をのぞいて、それから、ひかりの頭の上に、手のひらを一度だけ置いた。すぐに離した。
母は窓際に戻ると、ひかりに背を向けたまま、窓の外を見ていた。
ひかりは受験票を握ったまま、画面の数字を数えた。一つ、二つ、と。最後まで数えて、もう一度、最初から数えた。
扉を叩く音がした。
美羽だった。
美羽は何も言わずに、自分の画面を見せた。指で押さえた数字が一つ。
ひかりも、自分の画面を見せた。
美羽はそれを見て、それからひかりの顔を見た。
「顔、白いよ」
「……少なかった」
美羽は少しだけ黙った。
「うん。ここからが、いちばん嫌なんよ」
それから、画面を閉じた。
「あと一つ」
三月二十八日。三次試験。
試験は、面接だけだった。
控え室の椅子の数が、一次の日よりずっと少なかった。部屋が、広く見えた。
ここにいる少女たちのうち、半分ほどが明日、番号を見つける。残りの半分は、見つけられない。
ひかりは膝の上に両手を置いた。指先は、一次の日ほど冷たくなかった。
番号が呼ばれた。
扉が開く。机までの七歩。止まる。背筋を伸ばす。顎を、もうちょっと引く。
番号を言った。名前を言った。
机の向こうの一人が、手元の紙を見ながら聞いた。
「宝塚の舞台を、ご覧になったことはありますか」
ひかりは答えようとした。
教室で、何度も練習した問いだった。観劇の経験を聞かれたら、こう答えなさい。高見先生に、そう教わっていた。どの公演の、どの場面が心に残ったか。周りの子たちは、皆、何十回も劇場に通っていた。
ひかりは、一度も劇場に入ったことがなかった。
大劇場の前を通ったとき、入らなかった。受かってから、と言った。
ひかりは口を開いた。
「一度だけです」
机の向こうで、誰かが顔を上げた。
「祖母の家の、テレビで」
言ってから、ひかりは自分が何を言ったのか分かった。
止めようと思えば、止められた。何か付け足して、取り繕うこともできた。
ひかりは、そうしなかった。
「ずっと、息を止めて見ていたそうです」
部屋が静かだった。
「自分では、覚えていません」
机の向こうで、鉛筆を持った手が止まった。
誰も、何も言わなかった。
間があった。長い間だった。
ひかりは、そこに立っていた。背筋を伸ばして、顎を引いて、まっすぐ前を見ていた。
「ありがとうございました」
ひかりは礼をした。
扉までの七歩を、歩いた。
扉が閉まった瞬間、膝が少し震えた。
廊下の窓から、川が見えた。
いちばん言ってはいけないことを言った、とひかりは思った。
その夜、美羽に誘われて、ホテルの外へ出た。
二人の母親は、ロビーのソファで並んで座っていた。何か話しているようだったが、声は聞こえなかった。
遊歩道の桜並木を、二人で歩いた。
街灯の下で、昨日より少し多くの花が開いていた。まだ、ほとんどが蕾だった。
「今日、どうやった」
美羽が聞いた。
「……言うたらいかんこと、言うた」
「何を」
「劇場、一回も行ったことないって」
美羽は立ち止まった。
ひかりの顔を見た。
それから、何も言わずにまた歩き出した。
しばらく、二人とも黙っていた。大劇場の前まで来て、美羽が足を止めた。入り口の明かりは、もう消えていた。
「今年はね」
美羽が言った。
「ちゃんと答えられた気がする」
ひかりは美羽を見た。
美羽は暗い大劇場の扉を見ていた。
「四回目で、初めて。聞かれたことに、ちゃんと、自分の言葉で答えられた」
美羽の声は、静かだった。
ひかりは何か言おうとした。何も出てこなかった。
美羽はカバンから手帳を出した。挟んである紙は、今年の分を足して四枚になっていた。美羽は手帳を開かずに、表紙の上から、それをそっと押さえた。
「明日」
美羽が言った。
「どっちもあったら、電話しよう」
「はい」
「どっちか片方やったら」
美羽はそこで言葉を切った。
ひかりは待った。
美羽は、続きを言わなかった。手帳をカバンにしまうと、ホテルのほうへ歩き出した。
ひかりはその後ろを歩いた。
帰り道、一本の桜の枝が、街灯の明かりの中に低く垂れていた。開いたばかりの花が一つ、ひかりの目の高さにあった。
明日の朝、四十の番号が並ぶ。
その中に、二人とも入るのか。どちらか一人なのか。二人とも入らないのか。
ひかりは、桜の花を見なかった。前を歩く美羽の、肩の揺れない背中を見ていた。
――第九話 完――




