第八話「声」
三月二十四日は、試験のない日だった。
朝、ひかりは窓際の机で課題曲の楽譜を広げた。教室で何十回も歌った曲だった。黒い玉の下には、もう字を書いていない。書かなくても、どの音か分かるようになっていた。
声を出さずに、口だけで歌った。ホテルの壁は薄い。隣の部屋にも、受験生がいるかもしれなかった。
一度通すと、もう一度通した。三度目の途中で、母が言った。
「外、歩こうか」
二人で川沿いの道を歩いた。昨日と同じ道だった。河原には、昨日と同じように犬を連れた人がいた。
人のいない橋の下で、ひかりは少しだけ声を出して歌った。
高いところで、声がかすれた。
ひかりはもう一度、同じところを歌った。また、かすれた。
「喉、どうかした?」
「なんでもない」
三度目は、かすれなかった。ひかりはそれで、大丈夫だと思うことにした。
夜になって、喉の奥がざらつき始めた。
ホテルの部屋は、暖房が効いていた。空気が乾いて、唇が少し割れていた。ひかりは水を何度も飲んだ。飲んでも、ざらつきは消えなかった。
小さく声を出してみる。
自分の声ではないような、低くかすれた音がした。
ひかりは母のほうを見なかった。母に聞こえないように、もう一度だけ、そっと声を出した。
同じだった。
母は何も言わずに立ち上がった。
浴室へ行き、バスタオルを二枚、水で濡らして固く絞った。それを椅子の背と、クローゼットの扉にかけた。それから、ひかりの枕元にコップの水を置いた。
「マスクして寝なさい」
それだけ言って、電気を消した。
暗い部屋の中で、濡れたタオルから、少しずつ湿った匂いがした。
三月二十五日の朝、ひかりの声は戻っていなかった。
かすれは昨夜より少しましになっていた。それでも、高い音を出そうとすると、喉の奥で何かが引っかかった。
門の前で、ひかりは振り向いた。母は一昨日と同じ場所に立っていた。
ひかりは門をくぐった。
最初は面接だった。
一昨日より短かった。番号と名前を言い、いくつか聞かれたことに答えた。何を聞かれたのか、あとになってもよく思い出せなかった。声が、かすれないように。それだけを考えていた。
次が、歌だった。
小さな部屋に、ピアノが一台置かれていた。机の向こうに、大人が何人か座っている。
番号を言い、名前を言った。
ピアノが前奏を弾き始めた。
ひかりは息を吸った。最初の一節が出た。低いところは、大丈夫だった。少しかすれていたが、音は外れていない。
曲が上がっていく。
高いところが近づく。橋の下で、かすれた場所。
ひかりは喉を開けて、声を押し出した。
声が、裏返った。
部屋の中に、自分のものとは思えない細い音が響いた。
ピアノは止まらなかった。
次の小節が来た。ひかりは、次の音が分からなくなった。
何十回も歌った曲だった。目をつぶっても歌えるはずの旋律が、頭の中からすっぽり抜けていた。
ピアノだけが、先へ進んでいく。
一小節。ひかりの声は、出なかった。
部屋が静かだった。ピアノの音だけが鳴っていた。
そのとき、頭の奥で、別の音が鳴った。
ぽん。
誰もいないレッスン場。ピアノの蓋を開けて、白い鍵盤を一つだけ押す指。
それ、ド。
ひかりは、ピアノの音を聞いた。伴奏の中に、歌の音が一つだけ混じっていた。それを拾った。そこから一つずつ、数えた。
次の小節の頭で、ひかりの声が戻った。
音は、合っていた。
そこから最後まで、ひかりは歌った。声はかすれたままだった。高いところで、もう一度だけ揺れた。止まらなかった。
ピアノが最後の和音を鳴らして、終わった。
「ありがとうございました」
机の向こうから、声がした。
ひかりは礼をした。部屋を出た。
廊下の壁に、手をつきそうになった。手をつかなかった。前を向いて歩いた。
終わった、と思った。
最後は、舞踊だった。
広いレッスン場に、十人ほどずつ入る。前の壁は、教室と同じように一面の鏡だった。
在校生が二人、前に出た。
ひかりと二つか三つしか違わないはずだった。それなのに、ずっと年上に見えた。二人は音楽に合わせて、短い踊りを見せた。回って、跳んで、腕を開いて止まる。それから、もう一度。
ひかりは、それを見ていた。
さっきの歌のことが、まだ頭に残っていた。裏返った声。出なかった一小節。
それでも、在校生の足が動くと、ひかりの目はそれを追った。
右足が前。体が回る。着地。腕が上がる。
見ているうちに、体の中に何かが入ってきた。ひかりの足の裏が、床の上で少しずつ動き始めた。
見るのは、得意だった。八年間、二列目から、前の人の背中を見てきた。
音楽が鳴った。
ひかりは踊った。
体が軽くなった。歌のことも、声のことも、どこかへ行った。回る。跳ぶ。
二度目の回転で、向きを間違えた。
右へ回るところを、左へ回っていた。
隣の子と、肩がぶつかりそうになった。
ひかりは、顔を上げたままだった。
止まらなかった。足を一つ踏み替えて、次の動きにつないだ。目は、鏡の向こうのずっと先を見ていた。何も起きなかったように、最後まで踊った。
腕を開いて止まる。
音楽が終わった。
ひかりは息をついた。
教室では、ここで腕を下ろし、髪のほつれを耳にかけて、壁際に下がっていた。
今日のひかりは、そうしなかった。
腕を下ろし、背筋を伸ばしたまま、そこに立っていた。次の指示があるまで、顎を引いて、まっすぐ前を見ていた。
自分がそうしていることに、ひかりは気づいていなかった。
門を出ると、母がいた。
ひかりは母の前まで歩いて、止まった。
「間違えた」
母は何も言わなかった。
「歌、声が裏返った。途中で、一小節、出んかった。踊りも、回る向き、間違えた」
一つずつ言った。言うたびに、喉が痛んだ。
母はひかりの顔を見ていた。それから、鞄の中からペットボトルのお茶を出した。蓋を開けて、ひかりに渡した。
まだ、少し温かかった。
ひかりはそれを飲んだ。
「帰ろうか」
母が言った。福岡へ、という意味ではないことは分かっていた。
二人で、川沿いの道を歩いた。
夜、扉を叩く音がした。
開けると、美羽が立っていた。
美羽は部屋着の上にカーディガンを羽織っていた。今日の試験のことは、何も聞かなかった。ひかりの顔を、少しだけ見た。
それから、ひかりの手を取った。手のひらを上に向けさせて、その上に何かを一つ置いた。
のど飴だった。
小さな包み紙に入った、どこにでも売っている、黄色いのど飴だった。
美羽はひかりの手を閉じさせると、何も言わずに自分の部屋へ戻っていった。
扉が閉まる音がした。
ひかりは部屋に戻って、ベッドの端に座った。
手のひらを開いた。
黄色い包み紙が、蛍光灯の下で少し光っていた。
ひかりはそれを開けずに、ずっと握っていた。
――第八話 完――




