第七話「一次」
朝の空は、天気予報のとおり晴れていた。
ホテルを出て、昨日の遊歩道を歩いた。大劇場の前を過ぎ、川のほうへ向かう。母は少し後ろを歩いていた。
大きな川だった。広い河原の向こうに、山が低く連なっている。風が冷たかった。
その川のそばに、宝塚音楽学校はあった。
思っていたより、静かな建物だった。門の前に、係の人が立っていた。少女たちが一人ずつ、受験票を見せて中へ入っていく。付き添いの親は、ここまでだった。
ひかりは門の手前で振り向いた。
母は、門から少し離れた場所に立っていた。手を振らなかった。頷きもしなかった。ただ、ひかりを見ていた。
ひかりは前を向いて、門をくぐった。
控え室には、長い机と椅子が並んでいた。
番号の順に座らされる。両隣にも、前にも後ろにも、少女たちがいた。誰も話さない。紙をめくる音さえしなかった。
ひかりは膝の上に両手を置いた。
指先が冷たかった。手のひらを合わせると、自分の手ではないような気がした。
前のほうから、番号が呼ばれていく。一人が立つ。扉の向こうへ消える。しばらくして、別の扉から出ていったのか、もう戻ってこない。
呼ばれる数字が、少しずつ近づいてきた。
ひかりは頭の中で、何度も練習した答えを繰り返した。名前。番号。どうして受けようと思ったのか。夜、ノートに書いては線を引き、書いては線を引いて、最後に残した答えだった。
ひかりの番号が呼ばれた。
「はい」
声は出た。小さくはなかった、と思う。
扉の前に立った。係の人が扉を開けた。
部屋の奥に、長い机があった。その向こうに、何人かの大人が座っていた。顔は見えたが、一人一人の顔を覚えることはできなかった。
机の前まで歩いた。
七歩だった。教室で、祖母の家の廊下で、自分の部屋で、何度も歩いた七歩。
止まった。
背筋を伸ばす。顎を、もうちょっと引く。
「番号と、お名前を」
ひかりは番号を言った。名前を言った。
一人が、手元の紙から顔を上げた。
「あなたのことを、教えてください」
ひかりは口を開けた。
何も出てこなかった。
練習した答えは、どうして受けようと思ったのか、という問いのためのものだった。その問いは来なかった。
頭の中が、白くなった。
部屋が静かだった。机の向こうの大人たちは、急かさなかった。ただ、待っていた。
一秒。二秒。
ひかりの頭に、教室の鏡が浮かんだ。並んだ少女たち。その後ろに、ずっと昔の、バレエ教室の鏡があった。
「バレエを、八年やっています」
声が出た。
「発表会では、ずっと、二列目でした」
言ってから、しまった、と思った。こんなことを言うつもりはなかった。
それでも、口は止まらなかった。
「前の人の背中を、八年間、見てきました」
それ以上は、何も続かなかった。
机の向こうで、誰かの鉛筆が動く音がした。
「ありがとうございました」
ひかりは礼をした。
扉までの七歩を、どう歩いたのかは覚えていなかった。
門を出ると、母は朝と同じ場所に立っていた。
ひかりは母の前まで歩いて、止まった。
母は何も聞かなかった。
二人で川沿いの道を歩いた。河原で、犬を散歩させている人がいた。子どもが、石を川に投げていた。
「落ちた」
ひかりは言った。
母は前を向いたまま歩いた。
「二列目やった、とか言うた。言うつもりなかったのに」
「そう」
「ほかの人は、もっとちゃんと答えよる。絶対」
母は立ち止まらなかった。川を渡る風に、少しだけ目を細めた。
「お昼、何食べようか」
ひかりは答えなかった。
夕方、ホテルの廊下で美羽とすれ違った。
美羽は自分の試験を終えたところらしかった。制服のような紺の上着を、腕にかけていた。
目が合った。
美羽は約束どおり、何も言わなかった。ひかりも、何も言わなかった。
すれ違うとき、美羽は小さく一度だけ頷いた。
ひかりも、頷き返した。
その夜は、ほとんど眠れなかった。
天井の暗さを見ていると、面接の部屋が浮かんだ。机の向こうの大人たち。鉛筆の音。二列目でした、と言った自分の声。
何度も、言い直した。頭の中で、何度も。
窓の外が白くなり始めたころ、少しだけ眠った。
三月二十三日。
発表は、ウェブ(インターネット)の画面に出る。
その時刻の十分前から、ひかりはベッドの端に座って、スマートフォンを握っていた。母は窓際の椅子に座っていた。部屋の中で、時計の音だけがしていた。
時刻になった。
ひかりは画面を開いた。
読み込みの印が、くるくると回った。
数字が並んでいた。
たくさんの数字だった。上から、小さい順に。
ひかりは自分の番号の、最初の一桁を探した。指で画面を動かす。数字が流れていく。指が止まった。
二桁目。
三桁目。
あった。
ひかりは、それをじっと見た。見間違いではないかと思って、受験票を出した。生徒手帳の一番後ろから引き抜いて、画面の横に並べた。
同じ数字だった。
ひかりは顔を上げた。
母が、窓際の椅子から立ち上がっていた。いつ立ったのか、分からなかった。
母は何も言わなかった。
ひかりの隣まで来て、ベッドの端に腰を下ろした。それから、ひかりの手を握った。スマートフォンごと、強く。
母の手は、ひかりの手より冷たかった。
しばらく、二人ともそのまま動かなかった。
扉を叩く音がした。
ひかりが扉を開けると、美羽が立っていた。
美羽は何も言わずに、自分のスマートフォンの画面をひかりに向けた。
数字が一つ、指で押さえてあった。
ひかりも、自分の画面を向けた。
美羽はそれを見ると、小さく息を吐いた。
「あと二つ」
美羽は自分の部屋へ戻っていった。
――第七話 完――




