第六話「宝塚」
二月の初め、私立高校の入試があった。
十日ほどして、合格の通知が届いた。母はそれを見ると、黙って封筒に戻し、居間の引き出しにしまった。
三月に入ってすぐ、公立高校の入試があった。
試験の帰り道、同じ中学の子たちが答え合わせをしていた。ひかりはその輪から少し離れて歩いた。頭の半分は、まだ数学の最後の問題に残っていた。もう半分は、別の場所にあった。
その週の終わりに、宝塚音楽学校から封筒が届いた。
受験票だった。
厚い紙に、試験の日時と集合の時刻、受験する会場が印刷されていた。そして、大きく、数字が一つ。
三桁の数字だった。
ひかりはその数字を、長いあいだ見ていた。自分の誕生日でもない。電話番号でもない。どこにも、ひかりとのつながりはない。それなのに、この数字が、これからひかりの代わりに呼ばれる。
美羽の手帳に挟まっていた三枚の紙を思い出した。
ひかりは受験票を、郵便局の控えと一緒に、生徒手帳の一番後ろに挟んだ。
三月の半ば、中学の卒業式があった。
体育館で名前を呼ばれ、返事をして、壇上へ上がる。校長先生から卒業証書を受け取り、礼をして、降りる。
面接の練習で、何十回も繰り返したのと同じ動きだった。
壇を降りるとき、ひかりは足元を見なかった。
式が終わると、友達が写真を撮ろうと集まってきた。高校でもよろしくね、と言われた。ひかりは笑って頷いた。
卒業式の数日後、公立高校の合格発表があった。
ひかりの番号は、あった。
友達から、写真付きの連絡が何通も届いた。同じ高校に通えるね、と書いてあった。ひかりは一通ずつ、ありがとう、と返した。
母は合格の通知を受け取ると、私立の通知と同じ引き出しにしまった。手続きの書類も、黙って書いて出した。
ひかりは、自分の番号をそれほど長く見なかった。
高校でもよろしくね。あの言葉が本当になるのか、ならないのか。あと一週間で、決まる。
三月二十一日の朝、父の車で博多駅へ向かった。
父は前の晩、「駅まで送る」とだけ言った。母は「電車で行けるけん」と言いかけて、やめた。
車の中では、誰もしゃべらなかった。ラジオが小さく天気予報を流していた。兵庫県南部、晴れ。
駅の送迎の場所に車が止まると、父はトランクを開けて、ひかりのキャリーバッグを下ろした。持ち手を伸ばして、ひかりに渡した。
それから運転席に戻った。
窓が少し開いた。
「気ぃつけて行け」
窓が閉まった。車はそのまま、ロータリーを回って出ていった。
母は小さく息をついて、自分の鞄を肩にかけ直した。
「行こうか」
新幹線は、二時間半ほどで新大阪に着いた。
そこから大阪の中心へ出て、梅田で電車を乗り換えた。
ホームに入ってきた電車は、深い茶色をしていた。古い家の柱のような、艶のある色だった。ひかりはその色を、どこかで見たことがある気がした。
座席に座ると、向かいの席に、ひかりと同じくらいの年の女の子が座っていた。母親らしい人と一緒だった。
女の子は髪をきっちりと後ろでまとめていた。膝の上に両手をそろえ、背筋を伸ばしたまま、窓の外を見ていた。一度も、背もたれに寄りかからなかった。
ひかりは自分の背中が、背もたれにくっついていることに気づいた。そっと体を起こした。
電車は川を渡り、住宅地を抜けていった。駅に止まるたびに、同じような女の子が乗ってきた。誰も、ほかの誰とも話さなかった。
終点の宝塚に着いた。
改札を出て、ひかりは足を止めた。
駅前から、広い遊歩道がまっすぐに延びていた。両側に桜の木が並んでいる。枝の先の蕾が、まだ固く膨らんでいた。
その道を、少女たちが歩いていた。
一人で歩く子がいる。母親と並ぶ子がいる。キャリーバッグを引く子がいる。皆、同じ方向へ向かっていた。
まとめ上げた髪。まっすぐな背中。前だけを見ている目。
全員が、ひかりより宝塚に見えた。
ひかりはキャリーバッグの持ち手を、強く握り直した。
「ひかり」
母が言った。
「歩かんと」
ひかりは頷いて、歩き出した。
遊歩道の先に、大きな建物があった。
赤みがかった壁。入り口の上に、華やかな看板。人がたくさん出入りしていた。開演を待つ人たちらしかった。
宝塚大劇場だった。
テレビの中で、あの階段があった場所。
ひかりの足が、ゆっくりになった。
入り口の脇に、公演のポスターが貼ってあった。衣装をまとった人たちが、こちらを見ている。中にいる誰かが、今日もあの階段を降りるのだろうか。
母が隣で立ち止まった。
「見ていく?」
ひかりは、入り口の扉を見た。ガラスの向こうに、赤い絨毯が見えた。
「いい」
ひかりは前を向いた。
「受かってから」
母は何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ口の端を動かした。ひかりはそれを見なかったことにした。
ホテルは、駅のそばにあった。
ロビーに入ると、窓際のソファに美羽が座っていた。隣に、美羽によく似た顔の女の人がいた。
美羽は立ち上がって、ひかりの母に頭を下げた。母も頭を下げた。二人の母親は、短く挨拶を交わした。どちらも、多くは話さなかった。
ひかりと美羽は、少し離れたところに立った。
「大学、受かった」
美羽が言った。
「……おめでとうございます」
「うん」
美羽はそれだけ言って、窓の外を見た。
これで、落ちても行く場所がある。美羽が決めたとおりの、普通の大学生になる場所が。
ひかりは何か言おうとして、何も見つからなかった。
「明日、何時?」
美羽が聞いた。
ひかりは受験票の時刻を言った。美羽の時刻とは、二時間ずれていた。
「じゃあ、会わんね」
「はい」
「終わったら、何も話さんでいいけん」
美羽はそう言って、母親と一緒にエレベーターのほうへ歩いていった。
部屋は、細長いツインだった。
窓から、さっきの遊歩道の桜並木が少しだけ見えた。
母はフロントに電話をかけて、アイロンを借りた。ひかりが明日着る服を、一枚ずつ、ベッドの上に広げる。小さなアイロン台の上で、襟の先まで丁寧にかけていった。
ひかりは窓際の机に座って、受験票を見ていた。
三桁の数字。
明日、この数字が呼ばれる。
背中の後ろで、アイロンの蒸気の音がした。母は一度も、こちらを振り向かなかった。
最後の一枚をハンガーにかけると、母は電気を少し暗くした。
「早よ寝なさい」
ひかりはベッドに入った。
天井を見ていた。眠れなかった。
隣のベッドで、母も眠っていないことが分かった。寝返りの音がしなかったからだ。
窓の外で、電車が一本、駅に入ってきた。
――第六話 完――




