第五話「高校」
十一月の終わり、学校で三者面談があった。
放課後の教室。机を四つ寄せて、担任の先生と向かい合う。母はコートを膝の上にたたんで、まっすぐ座っていた。
「それで、水野さんは、志望校は」
先生が手元の紙を見た。進路希望の欄は、空いたままだった。
「……宝塚音楽学校を、受けます」
先生の手が止まった。
顔を上げて、ひかりを見た。それから母を見た。
「宝塚、というのは、あの」
「はい」
答えたのは母だった。
先生はしばらく黙っていた。窓の外で、運動部の掛け声が聞こえた。
「試験はいつごろですか」
「三月の終わりです」
これもまた、母が答えた。ひかりは母の横顔を見た。いつ調べたのか、ひかりは知らなかった。
「そうなると、高校の入試のほうが先になりますね」
「はい。高校も受けさせます」
母の声は、天気の話をするときと変わらなかった。
「私立を一つ。それと公立。どちらも、ちゃんと受けさせます」
先生はほっとしたように頷き、紙に何か書き込んだ。
帰りの廊下で、ひかりは言った。
「高校、受けると?」
「受けるよ」
「宝塚、受かったら」
「受かってから言いなさい」
夏の台所で聞いたのと、同じ言葉だった。
十二月になると、教室の空気が変わった。
休み時間に、単語帳を開く子が増えた。誰がどの高校を受けるのか、そんな話が机の間を行き来した。
「ひかりは、どこ受けると?」
隣の席の友達が聞いた。
ひかりは私立の高校の名前を言った。それから、公立の名前を言った。
友達は「一緒やん」と笑った。
宝塚のことは、言わなかった。
言えばきっと、すごいねと言われる。頑張ってねと言われる。そのあとで、落ちたら、と思われる。それが嫌だったのではない。自分でもまだ、そこに立っていいのか分からなかった。
その夜、父が珍しく早く帰ってきた。
三人で夕飯を食べた。テレビはついていなかった。父の箸が茶碗に当たる音がした。
父は口数の少ない人だった。仕事の話も、ほとんどしない。ひかりが小さいころから、家の中で一番静かなのは父だった。
味噌汁を一口飲んでから、父が言った。
「宝塚が駄目やったら、どうするとか」
ひかりは箸を止めた。
母は何も言わなかった。
父はひかりを見ていなかった。焼き魚の骨を、箸の先で丁寧に外していた。
「高校に行く」
ひかりは答えた。
「行って、どうするとか」
答えられなかった。
高校に行く。それは分かる。そのあと、来年もう一度受けるのか。三年間、受け続けるのか。美羽のように、手帳に受験票を挟んで。
それとも、やめるのか。
父は骨を外し終えると、黙って魚を食べた。それ以上、何も聞かなかった。
ひかりはご飯の残りを、ゆっくり口に運んだ。味がしなかった。
年が明ける少し前、レッスンの帰りに雪が舞った。
駅までの道で、美羽のカバンが重そうに見えた。いつもより膨らんでいる。信号待ちのとき、口の開いたカバンの中に、分厚い赤い本がのぞいていた。
大学の過去問だった。
美羽はひかりの視線に気づいて、カバンの口を閉めた。
「二月に受ける。私立の大学」
「宝塚の前に?」
「前に」
信号が変わった。二人で歩き出した。
雪が美羽の黒い髪に落ちて、すぐに消えた。
「落ちたら、普通の大学生になる」
美羽が言った。前を向いたままだった。
「それでいいって、決めとる」
ひかりは何も言えなかった。
駅の明かりが見えてきた。美羽は少しだけ歩く速さを落とした。
「でも、決めとるのと、平気なのは違う」
ひかりは美羽の顔を見た。
美羽は笑っていた。いつも面接で見せる顔とは、違う笑い方だった。
一月の半ば、ひかりは台所のテーブルで願書を書いた。
宝塚音楽学校から届いた封筒には、何枚もの紙が入っていた。入学願書。健康診断の用紙。歌唱試験の課題曲の楽譜。写真の注意書き。
氏名。生年月日。住所。身長。体重。
レッスン歴の欄に、バレエを八年と書いた。教室の名前を書いて、それから、夏から通い始めた受験の教室の名前も書いた。
本校受験回数。
ひかりは少し考えて、「初回」と書いた。
美羽なら、ここに四回目と書く。
家族の欄に、父と母の名前を書いた。
最後の欄だけが、空いた。
親権者の承諾。保護者が署名し、判を押す欄だった。
ひかりは、その欄を見つめた。母に頼めば、きっと書いてくれる。入会申込書のときと同じように、黙って。
ひかりは願書をそのままテーブルの上に置いて、自分の部屋に戻った。
翌朝、台所に下りていくと、願書はテーブルの同じ場所にあった。
親権者の欄に、名前が書いてあった。
父の字だった。
角ばった、少し右に傾いた字。小学生のころ、連絡帳に一度だけ書いてくれたことのある字だった。その横に、判子が押してあった。
願書の上に、白い封筒が一つ置いてあった。
封はされていなかった。中を覗くと、お札が入っていた。受験料と、それとは別に、新幹線の往復の分くらいの額があった。
玄関で、靴を履く音がした。
ひかりは封筒を持ったまま、廊下に出た。
父は玄関に腰を下ろして、革靴の紐を結んでいた。こちらを振り向かなかった。
「お父さん」
父は紐を結び終えると、立ち上がった。鞄を持って、ドアに手をかけた。
「行ってこい」
父は出ていった。
ドアが閉まった。ひかりは封筒を両手で持ったまま、しばらく玄関に立っていた。
台所から、母がフライパンを動かす音がしていた。
その日の放課後、ひかりは一人で郵便局へ行った。
ウェブ(インターネット)での手続きは、前の晩に済ませてあった。窓口で封筒を差し出すと、局員の人が重さを量り、受付の印を押した。
「簡易書留ですね。こちら、控えです」
小さな紙が一枚、渡された。
細長い数字が、印刷されていた。
ひかりの名前が、初めて番号になって、どこかへ届いていく。
郵便局を出ると、空はもう暗くなりかけていた。
ひかりはその控えを、生徒手帳の一番後ろのページに挟んだ。
――第五話 完――




