第四話「立つ」
九月になると、教室に面接の時間が加わった。
レッスン場の真ん中に、長机が一つ置かれる。その向こうに高見先生が座る。少女たちは壁際に並んで、名前を呼ばれるのを待つ。
扉の外から入り、机の前まで歩いて、止まる。名前を言う。聞かれたことに答える。礼をして、出ていく。
それだけのことだった。
「水野ひかりさん」
「はい」
返事をした瞬間、ひかりは自分の声が小さいと分かった。
扉から机までは、七歩だった。踊るときなら、その倍の距離を一息で跳べる。それなのに、歩くとなると足の運び方が分からなくなった。手をどこに置けばいいのかも分からない。机の前で止まると、高見先生の目がまっすぐこちらを見ていた。
「受験番号と、お名前を」
「……水野ひかりです」
「番号は」
「あ」
まだ、番号はない。練習用に、それぞれ好きな数字を決めておくように言われていた。ひかりはそれを忘れていた。
壁際で、誰かが小さく息をのんだ。
「いいわ。どうして宝塚を受けようと思ったの」
ひかりは口を開いた。
昨日の夜、ノートに書いておいた答えがあった。舞台に憧れて。夢を与える人になりたくて。最初の一言目が、喉の手前で引っかかった。
「舞台に……」
そこで止まった。続きの言葉は、ちゃんと覚えている。それが自分の言葉ではないことも、分かっていた。
「憧れて、います」
「そう」
高見先生は、手元の紙に何も書かなかった。
「ありがとう。下がって」
ひかりは礼をした。礼の角度が、自分でも浅いと分かった。
次に呼ばれたのは、美羽だった。
扉が開いて美羽が入ってきたとき、レッスン場の空気が少し変わった。七歩を、美羽は六歩で歩いた。机の前で止まると、そこに最初から立っていたように見えた。
番号を言う。名前を言う。声は大きくないのに、壁際のひかりのところまでまっすぐ届いた。
どうして宝塚を受けようと思ったのか。美羽は、少しも迷わずに答えた。三十秒ほどの答えだった。無駄な言葉が一つもなかった。
「ありがとう。下がって」
美羽が礼をして出ていく。その背中を見ながら、ひかりは思った。
あれで、三回落ちている。
全員の番が終わると、高見先生はひかりを呼んだ。
レッスン場の隅で、先生は立ったまま言った。
「上手に答えようとしなくていい」
ひかりは頷いた。
「あなたが何者なのか、私はまだ分からない」
それだけ言って、先生は次の時間の準備に戻っていった。
その夜、ひかりはノートを開いた。
どうして宝塚を受けたいのか。
昨日書いた答えに、一本線を引いた。その下に、別の答えを書いた。それにも線を引いた。三つ目を書きかけて、鉛筆が止まった。
あの日、祖母の家でテレビを見た。
大きな階段があった。人が降りてきた。足元を見なかった。
それで、どうして受けたいのか。
そこから先が、出てこなかった。
次のレッスンの帰り道、ひかりは美羽に聞いた。
「美羽さんは、どうして受けようと思ったんですか」
美羽は少し歩いてから答えた。
「それは教えられん」
「……すみません」
「謝らんでいい。私のは、私の理由やけん。あんたが聞いても、使えんよ」
駅の階段の前で、美羽は振り向いた。
「探しに行ったら? どこで見つけたか、覚えとるやろ」
十月の最初の日曜日、ひかりは一人で電車に乗った。
祖母の家に一人で行くのは、初めてだった。母に言うと、「おばあちゃんに電話しとき」と言っただけで、止めなかった。
駅からバスに乗り、田んぼの間の停留所で降りる。稲刈りの終わった田に、藁が束ねて並べてあった。
角を曲がると、瓦屋根の家が見えた。
祖母は玄関の前に立っていた。
バスの時刻を電話で伝えたのは、ひかりだった。それでも、いつからそこに立っていたのかは分からなかった。
「よう来たね」
昼は玉子サンドだった。
居間の座卓で向かい合って食べた。祖母は自分の分には手をつけず、お茶ばかり飲んでいた。
「おばあちゃん」
「なんね」
「夏に来たとき、テレビ、見よったやろ。宝塚の」
祖母は湯呑みを置いた。
「見よったね」
「私、あのとき、どんな顔しよった?」
祖母は少し首をかしげた。それから、窓の外の柿の木のほうを見た。
「あんた、ずっと息止めて見よったよ」
ひかりは玉子サンドを持ったまま、祖母の顔を見た。
「覚えとらん」
「そうやろうね」
祖母はそれ以上、何も言わなかった。
食べ終わると、ひかりは廊下に出た。古い板張りの廊下は、端から端まで十歩ほどあった。
教室で言われたことを思い出す。扉から入って、歩いて、止まる。
ひかりは廊下の端に立って、歩き出した。七歩目で止まる。背筋を伸ばす。腕を下ろす。
居間の襖が少し開いていた。その隙間から、祖母がこちらを見ていた。
「顎、もうちょっと引き」
ひかりは振り向いた。
祖母はもう、湯呑みに目を落としていた。
「……おばあちゃん、なんで分かると?」
「テレビでよう見よるけんね」
祖母は立ち上がると、空いた皿を重ねて台所へ持っていった。
ひかりは廊下に立ったまま、顎を引いた。
帰りの電車の窓に、ひかりの顔が映っていた。
あの日のことを思い出そうとした。大きな階段。光の流れる段。降りてくる人。白い羽根。
自分が息をしていたかどうかは、どうしても思い出せなかった。
覚えていないくらい、見ていた。
それが答えなのかどうかも、まだ分からなかった。
その夜、ひかりは手すりの前に立った。
踊らずに、ただ立つ。背筋を伸ばす。顎を、もうちょっと引く。
窓ガラスの中の自分を見る。
時計の秒針を数えた。
前は、十秒もたなかった。
その夜は、二十秒立っていられた。
――第四話 完――




