第三話「四度」
その日、ひかりは一時間早く教室に着いた。
受付の女の人は少し驚いた顔をしたが、何も言わずにレッスン場の鍵を開けてくれた。
誰もいないレッスン場は広かった。冷房がまだ効いておらず、鏡が少し曇っていた。
ひかりは隅のピアノのそばに座って、楽譜を広げた。入会してから三回目のレッスンだった。歌の時間は、まだ一度も最後まで歌えていない。
鉛筆で、黒い玉の下に小さく字を書いていく。ド、ミ、ソ、ラ。音楽の教科書を見ながら一つずつ数えて、一つずつ書く。
半分まで書いたところで、扉が開いた。
鏡の奥に立っていた、あの高校生だった。
ひかりは慌てて楽譜を閉じた。
その子は、ひかりのほうを見なかった。荷物を壁際に置いて、バーのそばで靴を履き替える。それからまっすぐピアノのところへ来て、蓋を開けた。
白い鍵盤を、一つ押した。
ぽん、と音が鳴った。
「それ、ド」
その子が言った。
ひかりは顔を上げた。
「書いてあるやろ。ドって」
その子は、ひかりの膝の上の閉じた楽譜を指さした。
ひかりがおそるおそる楽譜を開くと、その子は横に腰を下ろした。鉛筆で書いた字を、上から順に見ていく。
「合っとる」
それだけ言って、二つ目の鍵盤を押した。
「これがミ。あんたが書いたミ。歌ってみ」
ひかりは小さく声を出した。
「低い。もう一回」
ぽん。
「……ミ」
「うん」
その子はまた鍵盤を押した。ソ。ラ。ひかりが書いた字のとおりに、一つずつ。ひかりはそれを追いかけて、一つずつ声を出した。
十分ほどそうしていた。
レッスン場の扉が開いて、他の少女たちが入ってきた。その子は何も言わずに立ち上がり、ピアノの蓋を閉めると、自分のバーのほうへ戻っていった。
その日の歌の時間、ひかりは初めて最後の小節まで歌った。
音は何箇所も外れた。ピアノの先生は何も言わなかった。ただ、「次」と言う前に、ほんの少しだけ間があった。
レッスンが終わると、外は夕方になっていた。
ビルを出たところで、ひかりはその子に追いついた。
「あの」
その子が振り向いた。
「ありがとうございました」
「なにが」
「ドとか、ミとか」
その子は、少し考えるような顔をした。
「桐生。桐生美羽」
「水野ひかりです」
「知っとる。先生に呼ばれよったろ」
並んで駅まで歩いた。
美羽は高校三年生だと言った。福岡市の東区に住んでいて、週に三回この教室に通っている。ひかりより頭一つ背が高かった。歩くとき、肩がまったく揺れなかった。
信号待ちで、美羽はカバンから手帳を出した。来週のレッスンの時間を確かめてるらしかった。
開いたページの間から、何かがのぞいた。
薄い紙が三枚。同じ大きさで、きちんと重ねて挟んである。一番上の紙に、大きく数字が印刷されていた。
ひかりの目が、そこで止まった。
美羽はそれに気づいた。手帳を閉じようとして、やめた。
「受験票」
美羽が言った。
「去年のと、その前のと、その前の」
信号が青に変わった。美羽は手帳をカバンに戻して歩き出した。ひかりはその後ろを歩いた。
三枚。
ひかりは頭の中で数えた。中学三年で一回。高校一年で一回。高校二年で一回。
そして、今年。
「……じゃあ、今年が」
「四回目。最後」
美羽は前を向いたまま言った。声の調子は、レッスンの時間を確かめたときと同じだった。
駅の階段の手前で、ひかりは足を止めた。
聞いてはいけないことだと、分かっていた。分かっていて、口が先に動いた。
「どうして、落ちたんですか」
美羽も足を止めた。
ひかりのほうを見た。怒ってはいなかった。笑ってもいなかった。
「それが分かったら、去年受かっとる」
駅のアナウンスが、上りの電車の到着を告げた。
美羽は階段を一段上がった。それから振り向いた。
「水野さん、楽譜、あと何枚ある?」
「え……三枚です」
「次、一時間前に来られる?」
ひかりは美羽の顔を見た。
「来られます」
「そう」
美羽は階段を上っていった。
ひかりは、その背中に向かって聞いた。
「なんで、教えてくれるんですか」
美羽は止まらなかった。階段の途中で、片手だけを少し上げた。
「一人で数えてるの、見とられんかったけん」
ひかりの乗る電車は、反対側のホームから出た。
向かいのホームに、美羽が立っていた。こちらには気づいていないようだった。
美羽はカバンから、また手帳を出した。今度はページを開かなかった。表紙の上から、挟んである紙のあたりを、親指でそっと押さえていた。
電車が入ってきて、美羽の姿を隠した。
その電車が出ていくと、向かいのホームには誰もいなかった。
家に帰ると、ひかりは楽譜の残りの三枚を机に並べた。
鉛筆を持つ前に、一度だけ手を止めた。
四十人。
そのうちの一つに、美羽が入るかもしれない。そして、ひかりも。
二人とも入れば、席は二つ減る。
ひかりはその考えを、頭の隅に押しやった。
楽譜の一枚目の、最初の黒い玉の下に、小さく字を書いた。
ド。
――第三話 完――




