第二話「鏡」
その教室は、福岡市の中心部にある古いビルの三階にあった。
八月の最初の土曜日。エレベーターの扉が開くと、すぐ目の前に、すりガラスの扉があった。紙が一枚貼ってある。
受験科 体験レッスン 十時より
ひかりはしばらく、その紙を見ていた。
隣で母が腕時計を見た。
「入らんと?」
「入る」
扉を開けると、冷房の風と、松脂の匂いがした。バレエ教室と同じ匂いだった。少しだけ、肩の力が抜けた。
受付で名前を書く。保護者の欄に、母が自分の名前を書いた。それから母は、ロビーの長椅子に座って、持ってきた文庫本を開いた。もう顔を上げなかった。
更衣室で着替えて、レッスン場に入った。
壁一面が鏡だった。
その前に、十五人ほどの少女が立っていた。中学生も、高校生もいるらしい。誰もしゃべっていない。それぞれがバーに手を置いて、黙って体を伸ばしている。
ひかりは端のほうに場所を見つけて、バーに手を置いた。
鏡の中に、自分がいた。
その両隣にも、少女たちがいた。
ひかりは、自分が小さいと思った。背の高さのことではない。もっと別の何かだった。
バレエ教室の鏡では、ひかりはいつも前のほうに映っていた。上手な子として、先生に呼ばれて手本を見せることもあった。ここでは、誰もひかりを見ていなかった。
鏡の奥のほうに、一人の少女がいた。
高校生くらいだろうか。髪をきつく後ろでまとめている。何もしていなかった。体を伸ばしてもいない。ただ、バーのそばに立っているだけだった。
それなのに、ひかりの目はそこへ戻っていった。何度目をそらしても、戻っていった。
扉が開いた。
六十歳を少し過ぎたくらいの女の人が入ってきた。白い髪を短く切って、黒い服を着ている。背筋が、壁のようにまっすぐだった。
少女たちが一斉に向き直り、頭を下げた。ひかりも遅れて下げた。
「おはようございます」
声は低く、よく通った。
「高見です。今日から来た人もいるわね。始めましょう」
自己紹介も、説明もなかった。
バーレッスンが始まった。
これなら分かる、とひかりは思った。八年間、毎週やってきたことだ。足の位置、腕の運び、首の角度。体が覚えている。
高見先生は、少女たちの後ろをゆっくり歩いた。ときどき立ち止まり、誰かの肘に指を一本当てる。それだけで、その子の腕が少し高くなる。
ひかりの後ろでも、先生は立ち止まった。
ひかりは息を止めた。
先生は何も言わず、また歩いていった。
直されなかった。ひかりは、それを褒められたのだと思った。
次は歌だった。
レッスン場の隅に置かれたピアノの前に、若い男の先生が座った。少女たちに紙が配られる。
楽譜だった。
五本の線の上に、黒い玉がいくつも並んでいる。ひかりの知っている曲ではなかった。
「では、端から。初見で」
初見、という言葉の意味が、ひかりには分からなかった。
一人目の少女が立った。先生がピアノで最初の音を一つだけ鳴らすと、少女は紙を見たまま歌い出した。聞いたこともない旋律を、まるで前から知っていたかのように。
二人目も、三人目も、そうだった。
ひかりは自分の紙を見た。黒い玉が上がったり下がったりしている。どれが高い音で、どれが低い音なのか、音楽の授業で習ったはずだった。思い出そうとすると、線が全部同じに見えた。
ひかりの番が来た。
立ち上がる。ピアノが一つ鳴る。
口を開けた。
最初の音だけは出た。二つ目で、どこへ行けばいいのか分からなくなった。三つ目で、声が止まった。
レッスン場が、静かだった。
誰も笑わなかった。それが、かえってつらかった。
「はい。次の人」
ピアノの先生は、それだけ言った。
ひかりは座った。紙を膝の上で裏返した。手のひらが湿っていた。
最後は、フロアでの踊りだった。
高見先生が、短い組み合わせを一度だけ見せた。回って、跳んで、腕を開いて止まる。三十秒ほどのものだった。
四人ずつ、鏡の前に出て踊る。
ひかりの組が呼ばれた。
音楽が鳴った瞬間、ひかりの体は軽くなった。さっきの楽譜も、湿った手のひらも、どこかへ行った。回る。跳ぶ。着地で膝が吸い込むように曲がる。最後に腕を開いて止まったとき、鏡の中の自分が、少しだけ大きく見えた。
音楽が終わった。
ひかりは息をついて、腕を下ろした。鏡の前から下がって、壁際に戻る。髪のほつれを耳にかけて、次の組の踊りを見た。
「水野さん」
高見先生に呼ばれた。
「はい」
「あなた、踊っている時しか舞台にいないのよ」
ひかりは先生の顔を見た。
先生はもう、次の組のほうを見ていた。
意味が分からなかった。
踊っている時以外に、何をすればいいのだろう。
鏡の奥で、あの高校生がこちらを見ていた。目が合うと、その子はすぐに前を向いた。
帰りの車は、渋滞していた。
赤信号で止まったとき、母が言った。
「どうやった」
ひかりは窓の外を見ていた。
「……普通やった」
「そう」
母はそれ以上、何も聞かなかった。
信号が青に変わった。
その夜、ひかりは机の上に、持ち帰った楽譜を広げた。
小学校の音楽の教科書を、押し入れの奥から出してきた。ページをめくって、ドの位置を探す。線の下に、短い線が一本。それがド。そこから一つずつ数えていく。
ド、レ、ミ。
指で黒い玉を押さえながら、声を出さずに口だけ動かした。
最初の一行を数え終えるのに、二十分かかった。
廊下で足音がした。父が帰ってきたらしい。ドアの前で、足音が一度止まった。
「早よ寝ろよ」
足音は遠ざかっていった。
ひかりは返事をしなかった。楽譜の二行目に指を置いた。
日付が変わるころ、ひかりは手すりの前に立った。
窓ガラスに、自分が映っている。
踊らずに、ただ立ってみた。
背筋を伸ばす。顎を引く。腕は下ろしたまま。
十秒もしないうちに、どこを見ればいいのか分からなくなった。手の置き場がなかった。体が、勝手に動き出そうとした。
あの高校生は、何もしないで、そこにいた。
ひかりには、それができなかった。
翌朝、台所のテーブルの上に、一枚の紙が置いてあった。
教室の入会申込書だった。
保護者の欄に、母の字で名前が書いてあり、その横に判子が押してあった。
母はもう仕事に出ていた。
――第二話 完――




