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番号(ニュメロ)――まだ、舞台には立っていない。――  作者: 八雲 海


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2/11

第二話「鏡」

その教室は、福岡市の中心部にある古いビルの三階にあった。

八月の最初の土曜日。エレベーターの扉が開くと、すぐ目の前に、すりガラスの扉があった。紙が一枚貼ってある。

受験科 体験レッスン 十時より

ひかりはしばらく、その紙を見ていた。

隣で母が腕時計を見た。

「入らんと?」

「入る」

扉を開けると、冷房の風と、松脂《まつやに》の匂いがした。バレエ教室と同じ匂いだった。少しだけ、肩の力が抜けた。

受付で名前を書く。保護者の欄に、母が自分の名前を書いた。それから母は、ロビーの長椅子に座って、持ってきた文庫本を開いた。もう顔を上げなかった。

更衣室で着替えて、レッスン場に入った。

壁一面が鏡だった。

その前に、十五人ほどの少女が立っていた。中学生も、高校生もいるらしい。誰もしゃべっていない。それぞれがバーに手を置いて、黙って体を伸ばしている。

ひかりは端のほうに場所を見つけて、バーに手を置いた。

鏡の中に、自分がいた。

その両隣にも、少女たちがいた。

ひかりは、自分が小さいと思った。背の高さのことではない。もっと別の何かだった。

バレエ教室の鏡では、ひかりはいつも前のほうに映っていた。上手な子として、先生に呼ばれて手本を見せることもあった。ここでは、誰もひかりを見ていなかった。

鏡の奥のほうに、一人の少女がいた。

高校生くらいだろうか。髪をきつく後ろでまとめている。何もしていなかった。体を伸ばしてもいない。ただ、バーのそばに立っているだけだった。

それなのに、ひかりの目はそこへ戻っていった。何度目をそらしても、戻っていった。

扉が開いた。

六十歳を少し過ぎたくらいの女の人が入ってきた。白い髪を短く切って、黒い服を着ている。背筋が、壁のようにまっすぐだった。

少女たちが一斉に向き直り、頭を下げた。ひかりも遅れて下げた。

「おはようございます」

声は低く、よく通った。

「高見《たかみ》です。今日から来た人もいるわね。始めましょう」

自己紹介も、説明もなかった。

バーレッスンが始まった。

これなら分かる、とひかりは思った。八年間、毎週やってきたことだ。足の位置、腕の運び、首の角度。体が覚えている。

高見先生は、少女たちの後ろをゆっくり歩いた。ときどき立ち止まり、誰かの肘《ひじ》に指を一本当てる。それだけで、その子の腕が少し高くなる。

ひかりの後ろでも、先生は立ち止まった。

ひかりは息を止めた。

先生は何も言わず、また歩いていった。

直されなかった。ひかりは、それを褒められたのだと思った。


次は歌だった。

レッスン場の隅に置かれたピアノの前に、若い男の先生が座った。少女たちに紙が配られる。

楽譜だった。

五本の線の上に、黒い玉がいくつも並んでいる。ひかりの知っている曲ではなかった。

「では、端から。初見で」

初見、という言葉の意味が、ひかりには分からなかった。

一人目の少女が立った。先生がピアノで最初の音を一つだけ鳴らすと、少女は紙を見たまま歌い出した。聞いたこともない旋律を、まるで前から知っていたかのように。

二人目も、三人目も、そうだった。

ひかりは自分の紙を見た。黒い玉が上がったり下がったりしている。どれが高い音で、どれが低い音なのか、音楽の授業で習ったはずだった。思い出そうとすると、線が全部同じに見えた。

ひかりの番が来た。

立ち上がる。ピアノが一つ鳴る。

口を開けた。

最初の音だけは出た。二つ目で、どこへ行けばいいのか分からなくなった。三つ目で、声が止まった。

レッスン場が、静かだった。

誰も笑わなかった。それが、かえってつらかった。

「はい。次の人」

ピアノの先生は、それだけ言った。

ひかりは座った。紙を膝《ひざ》の上で裏返した。手のひらが湿っていた。


最後は、フロアでの踊りだった。

高見先生が、短い組み合わせを一度だけ見せた。回って、跳んで、腕を開いて止まる。三十秒ほどのものだった。

四人ずつ、鏡の前に出て踊る。

ひかりの組が呼ばれた。

音楽が鳴った瞬間、ひかりの体は軽くなった。さっきの楽譜も、湿った手のひらも、どこかへ行った。回る。跳ぶ。着地で膝が吸い込むように曲がる。最後に腕を開いて止まったとき、鏡の中の自分が、少しだけ大きく見えた。

音楽が終わった。

ひかりは息をついて、腕を下ろした。鏡の前から下がって、壁際に戻る。髪のほつれを耳にかけて、次の組の踊りを見た。

「水野さん」

高見先生に呼ばれた。

「はい」

「あなた、踊っている時しか舞台にいないのよ」

ひかりは先生の顔を見た。

先生はもう、次の組のほうを見ていた。

意味が分からなかった。

踊っている時以外に、何をすればいいのだろう。

鏡の奥で、あの高校生がこちらを見ていた。目が合うと、その子はすぐに前を向いた。


帰りの車は、渋滞していた。

赤信号で止まったとき、母が言った。

「どうやった」

ひかりは窓の外を見ていた。

「……普通やった」

「そう」

母はそれ以上、何も聞かなかった。

信号が青に変わった。


その夜、ひかりは机の上に、持ち帰った楽譜を広げた。

小学校の音楽の教科書を、押し入れの奥から出してきた。ページをめくって、ドの位置を探す。線の下に、短い線が一本。それがド。そこから一つずつ数えていく。

ド、レ、ミ。

指で黒い玉を押さえながら、声を出さずに口だけ動かした。

最初の一行を数え終えるのに、二十分かかった。

廊下で足音がした。父が帰ってきたらしい。ドアの前で、足音が一度止まった。

「早《は》よ寝ろよ」

足音は遠ざかっていった。

ひかりは返事をしなかった。楽譜の二行目に指を置いた。


日付が変わるころ、ひかりは手すりの前に立った。

窓ガラスに、自分が映っている。

踊らずに、ただ立ってみた。

背筋を伸ばす。顎を引く。腕は下ろしたまま。

十秒もしないうちに、どこを見ればいいのか分からなくなった。手の置き場がなかった。体が、勝手に動き出そうとした。

あの高校生は、何もしないで、そこにいた。

ひかりには、それができなかった。


翌朝、台所のテーブルの上に、一枚の紙が置いてあった。

教室の入会申込書だった。

保護者の欄に、母の字で名前が書いてあり、その横に判子が押してあった。

母はもう仕事に出ていた。

――第二話 完――


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