第一話「検索」
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・出来事は、実在のものとは関係ありません。宝塚音楽学校の入学試験に関する記述は、公表されている情報をもとにしていますが、物語の都合上、細部を省略・変更している場合があります。
七月の終わりの日曜日、母の運転する車で祖母の家へ行った。
高速を降りて二十分。田んぼの間を抜けると、瓦屋根の平屋が見えてくる。庭の柿の木は今年も青い実をつけていた。
「暑かったろう」
祖母は玄関で待っていた。いつもそうだ。車の音がする前から、そこに立っている。
母は台所へ入ると、祖母と並んで冷蔵庫の中を覗き始めた。二人はほとんど話さない。それでも、どちらが何を出すのか分かっているらしかった。
ひかりは居間の畳に寝転んだ。扇風機が首を振るたびに、髪が少しだけ揺れる。
先週、バレエ教室の発表会の配役が決まった。ひかりは群舞の二列目だった。八年続けて、二列目。上手だと言われる。先生にも、友達の母親にも。上手、という言葉がどこまで行けるのかを、ひかりはまだ知らなかった。
「ひかり。お昼」
祖母が皿を持ってきた。玉子サンドだった。白いパンに、刻んだゆで卵が厚く挟んである。耳は落としてある。ひかりが小さいころからずっと、この家の昼はこれだった。
「ありがと」
ひかりは起き上がり、一切れ手に取った。
祖母はテレビのリモコンを取った。番組表を少し探して、ある画面で指を止める。ひかりの家では映らない番組だった。
音楽が鳴っていた。
舞台の奥に、階段があった。とても大きな階段だ。その段の一つ一つに光が流れて、上から人が降りてくる。
黒い燕尾服。背の高い人だった。男の人の格好をしているのに、男の人ではない。それはひかりにも分かった。
その人は一段ずつ降りてくる。急がない。足元を見ない。手に持った何かを、胸の前で静かに構えている。背中に、大きな白い羽根が広がっていた。
客席から拍手が起きる。その人は笑わない。ほんの少しだけ顎を上げて、正面を見ている。
ひかりは玉子サンドを持ったまま、動かなかった。
階段の下に、たくさんの人が並んでいた。同じ衣装、同じ角度、同じ笑顔。最後に降りてきたその人が真ん中に立つと、全員がそろって礼をした。
その瞬間、ひかりの爪先が畳の上で少しだけ伸びた。バレエで、ルルベ(爪先立ち)に上がるときと同じ形だった。
「きれいやねえ」
祖母が言った。
ひかりは返事をしなかった。
祖母はそれ以上、何も言わなかった。テレビの音量を一つだけ上げると、自分の湯呑みを持って、また台所へ戻っていった。
番組が終わっても、ひかりの手の中の玉子サンドは一口も減っていなかった。
帰りの車の中で、母が言った。
「おばあちゃん、何か言いよった?」
「なんも」
「そう」
母はそれきり前を向いて運転した。窓の外を、暗くなりかけた田んぼが流れていった。
翌日。
夏休みの宿題を机に広げたまま、ひかりはスマートフォンを手に取った。何度か指を止めてから、検索欄に打ち込んだ。
宝塚 入るには
画面に文字が並んだ。
宝塚歌劇団に入るには、宝塚音楽学校を卒業しなければならない。劇団に直接応募することはできない。
まず、その学校がある。それを、ひかりは初めて知った。
受験できるのは、中学を卒業する年から高校を卒業する年までの女子。機会は、最大で四回。
ひかりは指を折った。中学三年。今年度の受験なら、最初の一回目になる。
試験は毎年三月の終わり。面接、歌唱、舞踊。
舞踊、の文字のところで、ひかりは少しだけ息をついた。歌唱、のところでは、指が止まった。音楽の授業以外で、歌を習ったことはない。楽譜も、ちゃんとは読めない。
そして、合格者は約四十人。
全国から集まった受験生の中から、四十人。
ひかりは画面を閉じた。宿題の問題集を開き、二問解いた。三問目の途中で、またスマートフォンを手に取った。
さっきのページを開き直す。四十、という数字を、もう一度見た。
夕方、母は台所で洗い物をしていた。水の音と、皿の重なる音がする。父はまだ帰っていなかった。
ひかりは台所の入り口に立った。母の背中を見て、何度か口を開きかけて、閉じた。
「お母さん」
「なん」
母は振り向かない。
「宝塚って、知っとる?」
「知っとるよ。おばあちゃんがよう見よる」
「そこの学校、受けてみたい」
皿を洗う手が、一度だけ止まった。
それから、また動き出した。
「高校は?」
「受かったら考える」
母は泡のついた皿をすすぎ、水切りかごに立てた。もう一枚取って、スポンジでこする。
「受かってから言いなさい」
反対はしなかった。頑張れとも言わなかった。水の音だけが続いた。
ひかりは自分の部屋に戻った。
窓のそばの壁には、父が付けてくれた手すりがある。小学三年生のとき、家でも練習したいと言ったら、日曜日一日かけて取り付けてくれたものだ。今では、洗濯物を干す場所にもなっている。
ひかりは掛かっていたタオルをどけて、手すりに左手を置いた。
背筋を伸ばす。顎を引く。
鏡はない。窓ガラスに、薄く自分が映っているだけだった。
それでも、ひかりはその窓に向かって、ゆっくりと爪先で立った。
あの人は、足元を見なかった。
ひかりも、見なかった。
――第一話 完――




