第十話「番号」
三月二十九日の朝は、曇っていた。
ひかりは早くに目を覚ました。窓のカーテンの隙間から、灰色の光が細く入っていた。
隣のベッドで、母はもう起きていた。着替えを済ませ、ベッドの端に座って、何もせずに窓のほうを見ていた。
二人とも、朝食には下りなかった。
母がコンビニで買ってきたおにぎりを、ひかりは半分だけ食べた。残りの半分は、包みに戻した。
時刻の十五分前、ひかりはベッドの端に座った。
膝の上に、スマートフォンと受験票を並べた。生徒手帳から出した黄色いのど飴も、その横に置いた。
母は窓際の椅子には座らなかった。
ひかりの後ろに立った。ひかりからは、母の顔が見えなかった。
壁の向こうは、美羽の部屋だった。物音一つしなかった。
時刻になった。
ひかりは画面を開いた。
読み込みの印が回った。一次の日より、二次の日より、長く回っているような気がした。
数字が並んだ。
四十ほどの数字だった。
ひかりは上から見ていった。
一つ。二つ。三つ。
ひかりの番号に近い数字が来る。その前後を見る。
ない。
ひかりは、最初から見直した。上から、一つずつ。指で数字を押さえながら。
ない。
自分の番号の、最初の一桁から探した。二桁目。三桁目。
ない。
喉の奥が、固くなった。
昨日の面接の部屋が浮かんだ。一度だけです、と言った自分の声。止まった鉛筆。長い間。
やっぱり、と思った。
画面が、少しにじんで見えた。
後ろで、母が言った。
「ゆっくり見なさい」
声は低かった。いつもの、台所で洗い物をしながら話すときと同じ声だった。
ひかりは息を吸った。
受験票を手に取って、画面の横に並べた。
一つ目の数字から、もう一度。
今度は、自分の番号を探さなかった。並んでいる数字を、上から一つずつ、受験票の数字と見比べていった。
違う。違う。違う。
半分を過ぎたあたりで、ひかりの指が止まった。
同じだった。
ひかりは、受験票を見た。画面を見た。もう一度、受験票を見た。
三桁の数字。
そこに、あった。
声が出なかった。
ひかりは振り向こうとした。その前に、後ろで小さな音がした。
母が、口元を手で押さえていた。
母の目から、涙が落ちていた。声は出していなかった。手で口を押さえたまま、肩を震わせていた。
ひかりは、母が泣くのを初めて見た。
ひかりは立ち上がった。母は、ひかりを抱き寄せなかった。ひかりの手を取った。受験票ごと、強く握った。
その手は、温かかった。
スマートフォンが震えた。
画面に、家、と出ていた。家の電話からだった。
ひかりは母の手を離して、電話に出た。
「……もしもし」
向こうで、父の息づかいが聞こえた。
「あった」
ひかりは言った。
しばらく、何も返ってこなかった。
「……そうか」
それだけだった。
ひかりは聞いた。
「お父さん、仕事は?」
また、間があった。
「今から行く」
電話が切れた。
ひかりはスマートフォンを耳から離して、画面を見た。家、という文字が消えていくところだった。
母が、まだ濡れた目のまま、小さく笑った。
「休み、取っとったとよ。あの人」
ひかりは、窓の外を見た。
曇り空の下に、桜並木が見えた。昨日より、白いものが増えていた。
それから、壁を見た。
美羽の部屋の壁だった。
物音は、しなかった。
どっちもあったら、電話しよう。
スマートフォンは、鳴らなかった。
ひかりは画面を見つめた。美羽の名前は、一番上にあった。指を少し動かせば、かけられる。
かけられなかった。
指は、画面の上で止まったままだった。
部屋を出たとき、ひかりは隣の扉の前で足を止めた。
閉まった扉。番号の書かれた小さな札。
ひかりは手を上げた。
叩かなかった。
手を下ろして、エレベーターのほうへ歩いた。母が、少し遅れてついてきた。
合格した者は、その日のうちに学校で入学の説明を受けることになっていた。
ホテルを出ると、遊歩道には、ひかりと同じ方向へ歩く少女たちがいた。一次の前の日に見たときより、ずっと少なかった。
誰も、走っていなかった。泣いている子もいた。母親と手をつないでいる子もいた。
ひかりは、その一人一人の顔を見た。
前を歩く子の背中を見た。横を歩く子の横顔を見た。肩の揺れない、背の高い背中を探した。
いなかった。
どこにも、いなかった。
ひかりのポケットで、スマートフォンが短く震えた。
ひかりは足を止めた。
画面を見た。
美羽からだった。
おめでとう
それだけだった。五文字。絵文字もなかった。
ひかりは、その五文字を見ていた。
美羽は、自分の番号を見たのだ。それから、ひかりの番号を探したのだ。四十ほどの数字の中から、ひかりの数字を、一つずつ。
楽譜の黒い玉を、一つずつ押さえてくれたのと同じように。
返さなければ、と思った。
指が動かなかった。
ありがとう、と打てばいい。それだけのことだった。
それなのに、何を打っても、美羽の四枚の受験票の上に、何かを重ねてしまう気がした。
ひかりは、スマートフォンを両手で握った。
遊歩道の真ん中で、立ったまま、泣いた。
声を出さずに泣くことが、ひかりにはできなかった。しゃくり上げる声が、桜の枝の下に響いた。通り過ぎる少女たちが、ちらりとこちらを見て、また前を向いた。
母は、ひかりの後ろに立っていた。
何も言わなかった。ひかりの背中に、手を置くこともしなかった。ただ、ひかりが泣きやむまで、そこに立っていた。
どれくらいそうしていたのか、分からなかった。
ひかりは顔を上げた。
手の甲で、頬を拭った。スマートフォンを、ポケットにしまった。
返信は、しなかった。
ひかりは歩き出した。
大劇場の前を過ぎた。川のほうへ曲がった。
学校の門が見えた。
一次の朝と同じ門だった。あの日、母は少し離れた場所に立っていた。今日も、母は門の手前で足を止めた。
ひかりは振り向かなかった。
背筋を伸ばした。顎を、もうちょっと引いた。
足元は見なかった。
ひかりは、門をくぐった。
――第十話 完――




