エピローグ「行ってきます」
四月。
博多駅のホームには、朝の光が斜めに差し込んでいた。線路の向こうの街路樹では、桜がもう葉を出し始めていた。
父がキャリーバッグを引き、母がその横を歩いた。ひかりは二人の少し前を歩いた。
指定された乗り場に着くと、祖母が立っていた。
ひかりは足を止めた。
祖母が来るとは、聞いていなかった。始発のバスと電車を乗り継がなければ、この時間には着かないはずだった。
祖母は、いつもの玄関と同じように、そこに立っていた。いつからそこにいたのかは、分からなかった。
「おばあちゃん」
「間に合うた」
祖母は、手に提げていた小さな包みを、ひかりに差し出した。
布巾で包んだ、四角いものだった。
「お昼」
ひかりは包みを受け取った。少しだけ重かった。中身は聞かなくても分かった。
発車のアナウンスが流れた。
母が言った。
「忘れ物ない?」
「ない」
父が言った。
「ほんとか」
「たぶん」
母が、少しだけ笑った。父は笑わなかった。いつもと同じ朝の会話だった。家の玄関で、何百回も繰り返してきた会話だった。
新幹線がホームに入ってきた。
扉が開く。父がキャリーバッグを車内に運び入れ、荷物棚の下に置いて、すぐに降りてきた。
ひかりはデッキに立った。
ホームに、三人が並んでいた。
母が、何か言おうとした。
口が少し開いた。ひかりの顔を見て、それから、隣に立つ祖母のほうを、ほんの一瞬だけ見た。
ひかりは、母が言うより先に言った。
「行ってきます」
母の口が、閉じた。
小さく、頷いた。
扉が閉まった。
ガラスの向こうで、三人の姿が少し遠くなった。
新幹線が動き出した。
母が手を上げた。父は上げなかった。腕を組んだまま、まっすぐこちらを見ていた。
祖母も、手を振らなかった。
祖母は背筋を伸ばして、そこに立っていた。顎を少し引いて、まっすぐ前を見ていた。足元を、見ていなかった。
その姿が、ホームの端へ流れていって、消えた。
ひかりは席に座った。
窓の外を、福岡の街が流れていった。ビルが減り、家が減り、田んぼが見え始めた。
膝の上の包みを開いた。
玉子サンドだった。白いパンに、刻んだゆで卵が厚く挟んである。耳は落としてある。祖母の家の、夏の居間の味がした。
一切れ目を食べ終えて、二切れ目を取ろうとしたとき、包みの底に何かがあるのに気づいた。
薄い紙が一枚、布巾の折り目に挟まっていた。
写真だった。
古い写真だった。色が少し褪せて、端が丸くなっていた。
若い女の人が写っていた。ひかりと同じくらいの年だった。
髪をきつく後ろでまとめていた。紺色の上着を着て、背筋を伸ばして立っていた。顎を少し引いて、まっすぐこちらを見ていた。
その後ろに、大きな川が写っていた。広い河原と、低く連なる山。
ひかりは、その川を知っていた。
一次の朝、母と歩いた川だった。犬を連れた人がいて、子どもが石を投げていた、あの川だった。
ひかりは写真を裏返した。
青いインクで、細い字が書いてあった。
昭和四十八年 宝塚
その下に、数字が一つ。
三桁の数字だった。
ひかりは、写真をもう一度表に返した。
背筋を伸ばしている。顎を少し引いている。まっすぐ前を見ている。
足元を、見ていない。
さっき、ホームの端へ流れていった姿と、同じ立ち方だった。
「……おばあちゃん」
声に出したのは、自分でも気づかないくらい小さな声だった。
ひかりは、もう一度、写真を裏返した。
ひかりの知らない数字だった。
どこにも、載らなかった数字だった。
ひかりは、それを見ていた。
窓の外を、山が流れていった。トンネルに入り、窓が暗くなり、自分の顔が映った。トンネルを抜けると、また光が差した。
それでも、ひかりはその数字を見ていた。
あんた、ずっと息止めて見よったよ。
ひかりは写真を、生徒手帳の一番後ろのページに挟んだ。
そこには、郵便局の控えがあった。受験票があった。
そして、黄色い包み紙ののど飴が一つ。
ひかりは、のど飴を手に取った。包み紙を、初めて開いた。口に入れると、少し酸っぱかった。
舞台も、大階段も、羽根も、まだどこにもない。
ひかりはまだ、何者でもない。
ただ、四十人の一人になった。
――完――




