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『約束の庭――夢の中で、君に会った』  作者: こうた


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第9話 もう一つの名前



「……それだけじゃない?」


美咲は、誰もいない部屋に向かって呟いた。


返事はない。


時計の秒針だけが動いている。


カチッ。


カチッ。


まるで、誰かが遠くから時間を押しているようだった。


健一が不安そうに時計を見る。


「今……動いたよな?」


「うん」


「電池、切れてたはずなのに」


二人とも、時計から目を離せなかった。


やがて秒針は止まった。


美咲は、手の中の紙を見る。


そこには確かに書いてある。


ゆき。


五年前、自分たちが考えた名前。


自分が一度だけ呼んだ名前。


それなのに、少女は言った。


――私の名前は、それだけじゃない。


「……じゃあ、何なの?」



その夜。


美咲はなかなか眠れなかった。


ベッドの横に、五年前の箱を置いている。


何度も開けては閉じた。


紙の裏側。


箱の底。


何か他に残っていないか探した。


けれど、何もない。


午前一時。


美咲はようやく目を閉じた。



目を開けると――


雨が降っていた。


約束の庭で、初めて見る雨だった。


白い花が濡れている。


少女は、木の家の軒下に立っていた。


「ゆき……」


美咲が呼ぶ。


少女は振り返った。


そして、嬉しそうに笑った。


「呼んでくれた」


「……うん」


「ずっと待ってた」


美咲は少女の前まで歩いた。


「ねえ、ゆき」


「なに?」


「もう一つの名前って何?」


少女は雨の向こうを見る。


「まだ秘密」


「どうして?」


「ママが自分で見つけるの」


「私には分からないよ」


「分かるよ」


少女は微笑んだ。


「ママは、もう一度私に名前をつけるから」


「……もう一度?」


少女は頷いた。


その言葉に、美咲は妙な違和感を覚えた。


「どういう意味?」


「今はまだ言えない」


「またそれ?」


「だって……」


少女は少し寂しそうに笑った。


「ママが未来を変えちゃうかもしれないから」


美咲は息を呑んだ。


「未来?」


少女は答えない。


代わりに、美咲の手を引いて雨の庭へ出た。


二人で湖のほとりまで歩く。


水面には、雨粒が無数の輪を作っていた。


その水面に――


一瞬だけ何かが映った。


美咲は目を凝らした。


「……子ども?」


水面に映っていたのは、小さな男の子だった。


後ろ姿。


顔は見えない。


白いシャツを着ている。


「誰?」


少女は答えない。


「ゆき?」


少女は黙ったまま、湖を見つめている。


すると水面の男の子が振り返った。


――顔が見える。


美咲は息を止めた。


自分に似ていた。


そして、どこか健一にも似ている。


「……誰なの?」


男の子は何も言わない。


ただ、美咲を見て笑った。


次の瞬間。


湖に大きな波紋が広がり、姿が消えた。


「待って!」


美咲が湖へ駆け寄る。


けれど、もう何もない。


少女が後ろから言った。


「まだ会えないよ」


美咲は振り返る。


「え?」


「その子とは、まだ会えない」


「どういうこと?」


少女は首を横に振る。


「今は、まだ」


その瞬間。


遠くの時計塔から音がした。


――カチッ。


――カチッ。


――カチッ。


針が一気に三つ進んだ。


少女の表情が変わる。


「……急がなくちゃ」


「何を?」


「ママが起きる前に、見せたいものがあるの」


少女は美咲の手を引いた。


雨の庭の奥へ走っていく。


「どこへ行くの?」


「ママが忘れた最後の場所」


「五年前の?」


「ううん」


少女は振り返って笑った。


「まだ起きていない場所」


美咲の足が止まった。


「……まだ、起きてない?」


少女は頷く。


そして、木々の向こうを指差した。


そこには――


今まで存在しなかった、真っ白な扉が立っていた。


「この先にあるよ」


「何が?」


少女は答えた。


「ママが、まだ知らない未来」


美咲が扉に手を伸ばす。


その瞬間――


目の前が真っ白になった。


そして耳元で、少女の声が響いた。


「ママ」


「お願い」


「未来を怖がらないで」


――美咲は、目を覚ました。


枕元に置いていた五年前の箱。


その中に――


昨日までなかったものが入っていた。


小さな、青いリボン。


そして、その下に一枚の紙。


そこには、美咲自身の字で――


『男の子なら、この名前にしよう』


と書かれていた。

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