第9話 もう一つの名前
「……それだけじゃない?」
美咲は、誰もいない部屋に向かって呟いた。
返事はない。
時計の秒針だけが動いている。
カチッ。
カチッ。
まるで、誰かが遠くから時間を押しているようだった。
健一が不安そうに時計を見る。
「今……動いたよな?」
「うん」
「電池、切れてたはずなのに」
二人とも、時計から目を離せなかった。
やがて秒針は止まった。
美咲は、手の中の紙を見る。
そこには確かに書いてある。
ゆき。
五年前、自分たちが考えた名前。
自分が一度だけ呼んだ名前。
それなのに、少女は言った。
――私の名前は、それだけじゃない。
「……じゃあ、何なの?」
*
その夜。
美咲はなかなか眠れなかった。
ベッドの横に、五年前の箱を置いている。
何度も開けては閉じた。
紙の裏側。
箱の底。
何か他に残っていないか探した。
けれど、何もない。
午前一時。
美咲はようやく目を閉じた。
*
目を開けると――
雨が降っていた。
約束の庭で、初めて見る雨だった。
白い花が濡れている。
少女は、木の家の軒下に立っていた。
「ゆき……」
美咲が呼ぶ。
少女は振り返った。
そして、嬉しそうに笑った。
「呼んでくれた」
「……うん」
「ずっと待ってた」
美咲は少女の前まで歩いた。
「ねえ、ゆき」
「なに?」
「もう一つの名前って何?」
少女は雨の向こうを見る。
「まだ秘密」
「どうして?」
「ママが自分で見つけるの」
「私には分からないよ」
「分かるよ」
少女は微笑んだ。
「ママは、もう一度私に名前をつけるから」
「……もう一度?」
少女は頷いた。
その言葉に、美咲は妙な違和感を覚えた。
「どういう意味?」
「今はまだ言えない」
「またそれ?」
「だって……」
少女は少し寂しそうに笑った。
「ママが未来を変えちゃうかもしれないから」
美咲は息を呑んだ。
「未来?」
少女は答えない。
代わりに、美咲の手を引いて雨の庭へ出た。
二人で湖のほとりまで歩く。
水面には、雨粒が無数の輪を作っていた。
その水面に――
一瞬だけ何かが映った。
美咲は目を凝らした。
「……子ども?」
水面に映っていたのは、小さな男の子だった。
後ろ姿。
顔は見えない。
白いシャツを着ている。
「誰?」
少女は答えない。
「ゆき?」
少女は黙ったまま、湖を見つめている。
すると水面の男の子が振り返った。
――顔が見える。
美咲は息を止めた。
自分に似ていた。
そして、どこか健一にも似ている。
「……誰なの?」
男の子は何も言わない。
ただ、美咲を見て笑った。
次の瞬間。
湖に大きな波紋が広がり、姿が消えた。
「待って!」
美咲が湖へ駆け寄る。
けれど、もう何もない。
少女が後ろから言った。
「まだ会えないよ」
美咲は振り返る。
「え?」
「その子とは、まだ会えない」
「どういうこと?」
少女は首を横に振る。
「今は、まだ」
その瞬間。
遠くの時計塔から音がした。
――カチッ。
――カチッ。
――カチッ。
針が一気に三つ進んだ。
少女の表情が変わる。
「……急がなくちゃ」
「何を?」
「ママが起きる前に、見せたいものがあるの」
少女は美咲の手を引いた。
雨の庭の奥へ走っていく。
「どこへ行くの?」
「ママが忘れた最後の場所」
「五年前の?」
「ううん」
少女は振り返って笑った。
「まだ起きていない場所」
美咲の足が止まった。
「……まだ、起きてない?」
少女は頷く。
そして、木々の向こうを指差した。
そこには――
今まで存在しなかった、真っ白な扉が立っていた。
「この先にあるよ」
「何が?」
少女は答えた。
「ママが、まだ知らない未来」
美咲が扉に手を伸ばす。
その瞬間――
目の前が真っ白になった。
そして耳元で、少女の声が響いた。
「ママ」
「お願い」
「未来を怖がらないで」
――美咲は、目を覚ました。
枕元に置いていた五年前の箱。
その中に――
昨日までなかったものが入っていた。
小さな、青いリボン。
そして、その下に一枚の紙。
そこには、美咲自身の字で――
『男の子なら、この名前にしよう』
と書かれていた。




