第10話 男の子につける名前
美咲は、紙を何度も見返した。
『男の子なら、この名前にしよう』
その下には――名前が書かれている。
けれど。
そこだけが、滲んでいた。
「……読めない」
指で擦ってみる。
何度見ても同じだった。
文字は確かに存在している。
なのに、名前だけが見えない。
「どうして……?」
美咲は紙を箱に戻そうとした。
そのときだった。
背後から声がした。
「何してるの?」
振り返る。
健一だった。
美咲は咄嗟に紙を隠した。
「……五年前のもの」
健一の表情が固まった。
「また見てるのか」
「うん」
「もう、いいだろ」
「よくない」
美咲は紙を握りしめた。
「女の子の名前だけじゃない」
「……」
「男の子の名前も考えてたんだよね?」
健一は答えなかった。
それだけで分かった。
「知ってるんだ」
「……覚えてない」
「嘘」
「本当に覚えてないんだ」
健一は苦しそうに言った。
「五年前のことは、俺だって全部覚えてるわけじゃない」
「じゃあ、どうしてそんな顔するの?」
「……」
「私たち、あの子が生まれる前に、男の子の名前も考えたんでしょ?」
長い沈黙。
やがて健一が小さく頷いた。
「考えた」
「何て名前?」
「……それが」
健一は首を振った。
「俺も思い出せない」
「そんなことある?」
「あるんだよ」
健一は苦笑した。
「女の子の名前は覚えてる。でも男の子の名前だけは……どうしても出てこない」
美咲は紙を見る。
名前だけが見えない。
まるで、誰かが意図的に隠しているようだった。
*
その夜。
美咲は眠るのをためらった。
けれど、眠りに落ちる。
次に目を開けたとき――
約束の庭にいた。
雨は止んでいた。
少女が一人、湖のほとりに立っている。
「ゆき」
少女が振り返る。
「ママ」
「これ、あなたがやったの?」
美咲は紙を見せた。
少女は首を横に振った。
「私じゃないよ」
「じゃあ誰が?」
「ママ」
「私?」
「うん」
少女は笑った。
「ママ自身が、まだ見えないようにしてるの」
「どうして?」
「知ったら、未来を変えようとするから」
美咲は黙った。
「未来を変えるって……悪いことなの?」
「分からない」
少女は湖を見つめた。
「でも、未来は一つじゃないから」
「……」
「ママがこれから選ぶことで、いろんな未来になる」
その言葉を聞いて、美咲は思った。
自分は、子どもを産む未来だけを追いかけている。
治療が成功する未来。
妊娠する未来。
母親になる未来。
それ以外を考えないようにしていた。
「私……」
美咲は呟いた。
「子どもができなかったら、何も残らないと思ってた」
少女が美咲を見る。
「どうして?」
「だって……」
美咲は涙を拭った。
「私は、母親になりたいから」
少女は黙って聞いている。
「でも、それだけじゃないのかもしれない」
「うん」
「健一と笑いたい」
「うん」
「普通にご飯を食べて、くだらないことで笑って……」
「うん」
「それだけでも、幸せなのかもしれない」
少女は嬉しそうに笑った。
「やっと気づいた」
「何に?」
「ママは、子どもを欲しがってるんじゃなくて――」
少女は美咲の胸に手を当てた。
「幸せな家族が欲しかったんだよ」
美咲は泣いた。
声を出さずに、ただ泣いた。
少女はそんな美咲を抱きしめた。
「ママ」
「……なに?」
「私が生まれなかったからって、家族が消えたわけじゃないよ」
「……うん」
「パパもいる」
「うん」
「ママもいる」
「うん」
少女は笑った。
「それに……」
一瞬だけ、少女の視線が湖へ向いた。
「これから増えるかもしれない」
美咲は振り返った。
湖の向こう。
誰もいないはずの場所に――
小さな足跡が二つ。
濡れた地面に残っていた。
少女はそれを見つめながら言った。
「でも、まだ早い」
「誰の足跡?」
「……秘密」
「また秘密?」
「うん」
少女が笑う。
そのとき。
時計塔の鐘が鳴った。
――ゴーン。
一回。
――ゴーン。
二回。
美咲は時計を見上げた。
今まで止まっていた時計の針が――
十時を指していた。
少女が呟く。
「あと、半分」
「何が半分なの?」
少女は答えない。
ただ、美咲の手を握った。
「ママ」
「うん」
「私との時間が、半分終わった」
その言葉と同時に。
少女の身体が、また少し透けた。
美咲は強く手を握り返した。
「嫌だ」
「……」
「絶対に、いなくならないで」
少女は悲しそうに笑う。
「ママ」
「なに?」
「私がいなくなることは――」
少女は一度、言葉を切った。
「私が消えることとは違うんだよ」
美咲はその意味が分からなかった。
そして少女は、まだ見えない男の子の名前を知っているように――
湖の向こうを見つめていた。




