第11話 白い花
翌朝。
美咲は、夢の中で聞いた言葉を何度も考えていた。
――私がいなくなることは、私が消えることとは違う。
意味が分からない。
それでも、少女の声だけは妙に鮮明に残っていた。
そしてもう一つ。
湖のほとりに残っていた、小さな足跡。
あれは誰のものだったのか。
「……男の子」
呟いた瞬間、美咲は首を振った。
「考えすぎだよ」
夢なのだ。
すべて自分の心が作り出したもの。
そう思おうとした。
けれど。
机の上を見る。
昨夜まで何もなかった場所に――
白い花びらが一枚、置かれていた。
*
数日後。
治療の結果が出た。
「今回は、妊娠には至っていません」
医師の言葉は、淡々としていた。
美咲は「はい」と答えた。
以前なら、涙が出ていた。
帰りの電車の中で泣いたこともある。
健一に八つ当たりしたこともある。
けれど今日は違った。
悲しい。
もちろん悲しい。
でも、それだけではなかった。
美咲は窓の外を見た。
「……また、駄目だった」
健一が隣に座っている。
「うん」
「悔しいね」
「うん」
「でも……」
美咲は少しだけ笑った。
「今日は帰ったら、一緒にご飯食べよう」
健一が驚いた顔をした。
「え?」
「何?」
「いや……」
健一は小さく笑った。
「そうだな」
二人は、それ以上話さなかった。
けれど、帰り道にコンビニへ寄って、二人で夕食を選んだ。
ほんの小さなことだった。
それなのに。
美咲には、それが久しぶりの「普通」に思えた。
*
夜。
美咲は眠った。
約束の庭。
今日は、いつもより明るかった。
花が増えている。
白い花が、庭いっぱいに咲いていた。
「ゆき?」
少女は木の家の前に立っていた。
「ママ」
少女は笑っている。
けれど――
その姿は、前よりも透けていた。
美咲は駆け寄った。
「大丈夫?」
「うん」
「本当に?」
「うん」
「嘘じゃない?」
少女は少し考えてから答えた。
「少しだけ、寂しい」
「……私も」
美咲は少女を抱きしめた。
すると少女は、美咲の胸に顔を埋めた。
「ママ」
「なに?」
「今日は、幸せだった?」
美咲は少し驚いた。
「……うん」
「どうして?」
「健一と、ご飯を食べたから」
少女が笑った。
「それだけ?」
「うん」
「子どもがいなくても?」
美咲は少しだけ考えた。
そして頷いた。
「うん」
少女は嬉しそうに笑った。
「それならよかった」
「どうして?」
「だって、ママが笑えるって分かったから」
美咲の胸が痛んだ。
「ゆき……」
「うん?」
「あなたは、私に何を伝えたいの?」
少女は白い花を一本摘んだ。
「これ」
「白い花?」
「うん」
「何の意味?」
少女は花を美咲の手に乗せる。
「始まりと終わり」
「……どっち?」
「両方」
風が吹いた。
白い花びらが舞う。
その向こうに――
男の子が立っていた。
今度は、少し近い。
顔はまだ見えない。
「……あの子」
美咲が駆け出そうとする。
少女が腕を掴んだ。
「待って」
「でも!」
「まだ駄目」
「どうして?」
「今会ったら、ママはまた苦しくなる」
「……」
「今は、私との時間を大切にして」
美咲は男の子を見る。
男の子は何も言わない。
ただ、こちらを見ている。
そして――
小さく手を振った。
美咲も手を振り返す。
その瞬間。
男の子の姿が消えた。
「……また会える?」
美咲が聞く。
少女は答えなかった。
代わりに、時計塔を見上げた。
「もうすぐ」
「何が?」
「時計が全部動いたら」
美咲も時計を見る。
長針が動いた。
十一時。
少女の姿が、さらに薄くなる。
「ゆき!」
美咲が抱きしめる。
「お願い……」
少女は美咲の背中に腕を回した。
「ママ」
「うん」
「私がいなくなったら――」
少女は一度、息を吸った。
「私のことを、悲しい記憶だけにしないで」
美咲の目から涙が落ちる。
「……分かった」
「約束?」
「約束する」
少女は笑った。
「じゃあ、最後に一つだけ」
「何?」
少女は美咲の手を取り、自分の胸に当てた。
「ここにいるから」
「……え?」
「ママが思い出してくれたから」
少女の身体が白い光に包まれていく。
「ゆき……?」
「大丈夫」
少女は最後まで笑っていた。
「私は消えないよ」
そして――
少女の姿が、白い花びらになって舞い上がった。
美咲は必死に手を伸ばした。
「ゆき!」
一枚の花びらが、手のひらに落ちる。
温かかった。
そして遠くから――
聞き覚えのない男の子の声がした。
「……まだだよ」
美咲が振り返る。
誰もいない。
ただ。
止まっていた時計の針が――
十一時五十九分を指していた。




