第8話 夫が隠していること
「……知ってる」
美咲は呟いた。
健一は、知っている。
あの少女のことを。
そう考えると、今までの健一の反応がすべて違って見えた。
夢の話をしたときの、あの沈黙。
五年前の妊娠について聞いたときの、苦しそうな顔。
そして今。
――あの子のことまで、思い出さなくていい。
「……どういう意味?」
美咲は部屋を出た。
階段を下りると、健一はキッチンにいた。
コーヒーを淹れている。
「健一」
「……何?」
「さっきの話」
健一の手が止まった。
「あの子のことまでって、どういう意味?」
「……何でもない」
「嘘」
「美咲」
「私に隠してることあるよね?」
健一は黙った。
その沈黙だけで、答えは十分だった。
「五年前のこと?」
「……」
「赤ちゃんのこと?」
健一はゆっくり椅子に座った。
そして、両手で顔を覆った。
「……覚えてないんじゃなかったのか」
「少しずつ思い出してる」
「そうか……」
「あなたは何を知ってるの?」
長い沈黙。
やがて健一は顔を上げた。
「俺は……あの子に会ったことはない」
美咲は眉を寄せる。
「じゃあ、どうして知ってるの?」
「名前をつけたんだ」
「……名前?」
健一は頷いた。
「五年前」
その瞬間、美咲の胸がざわついた。
「まだ性別も分からない時期だった。でも、俺たちは名前を考えてた」
「……女の子の?」
「うん」
健一は苦しそうに笑った。
「美咲が言ったんだ」
「何を?」
「もし女の子だったら……『ゆ』から始まる名前がいいって」
美咲の呼吸が止まった。
夢の少女。
――ママが一度だけ、呼んでくれた名前。
「……ゆ」
「そう」
「名前は?」
健一は答えなかった。
その代わり、立ち上がって棚の奥から小さな箱を取り出した。
古い箱だった。
美咲の知らないもの。
「これ……」
「開けてみて」
蓋を開ける。
中には、一枚の紙が入っていた。
そこには、二人の字で書かれていた。
『女の子なら――』
その下には、名前。
美咲は震える指で紙を掴んだ。
「……これ」
読めなかった。
涙で文字が滲んだ。
健一が静かに言う。
「その名前を、君は一度だけ呼んだ」
「私が?」
「病院で」
「……どうして?」
「心拍が確認できなかった日」
美咲の手から紙が落ちた。
頭の中に、また映像が流れ込む。
白い天井。
冷たい診察室。
医師の声。
健一の手。
そして――
自分の声。
『……ゆ……』
『ゆき……』
『ごめんね、ゆき……』
「……っ」
美咲は口元を押さえた。
膝から力が抜ける。
「私……呼んだ」
「うん」
「名前……つけてた」
「うん」
「この子は……」
健一は答えなかった。
美咲は顔を上げる。
「この子は、私たちの……」
「美咲」
健一が遮った。
「それ以上は言わないほうがいい」
「どうして?」
「君が壊れてしまう」
「もう壊れてるよ!」
美咲の声が響いた。
「毎晩あの子に会うの!」
健一の顔から血の気が引いた。
「……毎晩?」
「うん」
「何を話してる?」
「五年前のこと」
健一は目を閉じた。
「……そうか」
「何なの?」
「分からない」
「嘘」
「本当に分からないんだ!」
初めて健一が声を荒らげた。
そして、震える声で続けた。
「俺だって……会いたいと思ってた」
美咲は言葉を失った。
健一の目から涙が落ちた。
「俺だって、あの子が生きてたらって……何度も考えた」
「健一……」
「でも、君は全部忘れたかったんだ」
「……」
「だから俺も、忘れたふりをした」
二人の間に沈黙が落ちた。
やがて美咲は箱の中の紙を見つめた。
そこには、二人が考えた名前。
「ゆき」
美咲は、その名前を何度も心の中で繰り返した。
――ゆき。
あの少女。
白い服。
黒い髪。
自分に似た顔。
「……ゆき」
小さく呟いた瞬間。
部屋の時計が――
カチッ。
動いた。
美咲と健一が同時に時計を見る。
秒針が、一つ進んでいる。
そして。
美咲の耳元で、聞こえた。
『ママ』
振り返る。
誰もいない。
それでも、確かに聞こえた。
『やっと、名前を思い出してくれたね』
美咲の目から涙が落ちる。
けれど次の瞬間。
声が続いた。
『でも……』
『私の名前は、それだけじゃないよ』
時計の針が――
もう一度、動いた。




