第6話 夢の中の家族
白い花びらを拾い上げたまま、美咲は動けなかった。
指先に触れる感触は、確かに花だった。
夢の中で少女から渡されたものと同じ。
けれど――
「……そんなはずない」
夢の中のものが、現実に残るはずがない。
美咲はそう言い聞かせた。
それでも花びらを捨てることはできなかった。
小さな封筒に入れ、引き出しの奥へしまった。
誰にも見つからないように。
まるで、それが大切な何かであるかのように。
*
その日の夜。
美咲は眠る前に、五年前の日記を開いた。
五月。
六月。
七月。
ページをめくる。
けれど、肝心の部分だけが抜け落ちている。
何度見ても同じだった。
「……どうして」
破られたページの端を指でなぞる。
自分で破ったのか。
それとも、別の誰かが?
分からない。
ただ、ひとつだけ思い出した。
五年前。
医師に妊娠を告げられた日。
自分は健一に電話をした。
電話の向こうで、健一は泣いていた。
そして自分も――
泣いていた。
嬉しくて。
怖くて。
未来が突然、現実になったような気がして。
その記憶は、そこまでだった。
その先だけが、どうしても思い出せない。
*
眠りにつくと、また庭にいた。
今までと違う。
今日は木の家の扉が開いていた。
少女が中から顔を出す。
「ママ」
「……今日は家の中?」
「うん」
少女は美咲の手を引いた。
小さな木の家。
中にはテーブルが一つ。
椅子が二つ。
そして壁には、一枚の絵が飾られていた。
美咲は足を止めた。
「……これ」
そこには、三人の人間が描かれていた。
男。
女。
そして、小さな女の子。
三人とも手を繋いでいる。
「私たち?」
少女が聞く。
美咲は答えられなかった。
「……私には、こんな家族はいなかった」
「ううん」
少女は首を振った。
「まだ、いなかっただけ」
「……え?」
少女はテーブルの上に置かれた小さな皿を見た。
「ママとパパと、私」
「パパって……健一?」
少女は笑った。
「ママが一番好きだった人」
美咲の胸が苦しくなる。
「……健一とは、今も一緒にいる」
「知ってるよ」
「だったら……」
「でも、ママは最近、パパと一緒に笑ってない」
言葉が出なかった。
確かにそうだった。
治療のこと。
お金のこと。
結果のこと。
二人の会話は、いつからか「子ども」のことばかりになっていた。
子どもができなければ。
治療が成功しなければ。
自分たちは幸せになれない。
そんな考えが、いつの間にか二人の間に入り込んでいた。
「ママ」
少女が言う。
「私ね」
「うん」
「ママと暮らしたかった」
美咲は息を呑んだ。
「朝起きたら、ママがいて」
少女は笑った。
「一緒にご飯を食べて」
「……うん」
「学校に行って」
「……うん」
「帰ってきたら、ママに今日あったことを話すの」
美咲の目から涙が落ちた。
少女は続ける。
「そんな普通の毎日が欲しかった」
「ごめん……」
「どうして謝るの?」
「だって……」
美咲はしゃがみ込んだ。
「私が……あなたを守れなかったから」
少女は首を横に振った。
「違うよ」
「え?」
「ママは、私を捨てたんじゃない」
その言葉に、美咲の胸が大きく揺れた。
「じゃあ……どうして?」
少女は答えなかった。
代わりに、壁に掛けられた時計を指差した。
さっきまで止まっていた時計の針が――
また一つ進んでいた。
カチッ。
カチッ。
「時間が……」
美咲が呟く。
少女は小さく笑った。
「少しずつ、近づいてる」
「何に?」
少女は美咲を見る。
その瞳には、寂しさと優しさが混ざっていた。
「お別れに」
「……嫌」
美咲は即座に答えた。
「嫌だよ」
少女は驚いた顔をした。
「私、あなたともっと話したい」
「……ママ」
「あなたが誰なのか、ちゃんと知りたい」
美咲は少女の手を握った。
「だから、いなくならないで」
少女はしばらく黙っていた。
そして――
美咲の胸に顔を埋めた。
「……私も」
小さな声だった。
「本当は、ずっとママといたい」
その瞬間。
遠くで、何かが鳴った。
――ゴーン。
時計塔の鐘。
止まっていたはずの鐘が、一度だけ鳴った。
少女が顔を上げる。
「……もうすぐだ」
「何が?」
少女は答えない。
ただ、美咲の手を強く握った。
そして美咲は気づいた。
少女の手が――
昨日より少し、透けている。




