第5話 現実の痛み
目が覚めたとき、頬が濡れていた。
美咲はしばらく、天井を見つめていた。
夢の中で見た少女。
白い花。
そして――自分に似た、あの顔。
「……ゆ……」
口から、知らない言葉がこぼれた。
名前。
少女が言っていた。
――ママが私につけようとした名前。
「ゆ……き……?」
そこまで口にした瞬間、美咲の胸が締めつけられた。
知っている。
その名前を、自分は確かに知っている。
けれど、どうして知っているのかが分からない。
*
「今回は、少し難しいですね」
診察室で医師が言った。
美咲は膝の上で手を握りしめた。
「……やっぱり、駄目ですか?」
「まだ結果が出たわけではありません。ただ、今回の状態を見る限り、もう少し時間が必要だと思います」
隣に座る健一は、何も言わなかった。
美咲は診察室を出てからも、ずっと俯いていた。
待合室には、妊婦がいた。
大きなお腹を抱えて、夫と笑っている。
その光景から目を逸らした。
見たくなかった。
羨ましい。
悔しい。
悲しい。
そんな感情を持ってしまう自分が嫌だった。
「美咲」
健一が声をかける。
「帰ろう」
「……うん」
それだけだった。
車の中でも、二人はほとんど話さなかった。
やがて信号で車が止まる。
美咲は窓の外を見た。
小さな女の子が、母親の手を握って歩いていた。
女の子が何かを言う。
母親が笑う。
その瞬間。
また、胸の奥が痛くなった。
「……私、最低だね」
「何が?」
「他人が幸せそうにしてるの見て、辛くなる」
健一は少し黙ってから言った。
「最低じゃないよ」
「……でも」
「俺だって同じだ」
美咲は健一を見た。
健一は前を向いたままだった。
「俺も、羨ましいと思うことあるよ」
その言葉だけが、妙に心に残った。
*
その夜。
美咲は眠るのが怖かった。
眠れば、またあの庭に行く。
少女に会う。
そして――五年前のことを、また思い出してしまう。
忘れていたかった。
そう思っていたはずだった。
なのに。
午前二時。
美咲は目を閉じた。
*
――白い花が揺れていた。
また、あの庭だった。
けれど今日は、少し違っていた。
前より明るい。
湖の水面が、月明かりを反射している。
そして。
少女が木の家の前に立っていた。
「ママ」
「……ねえ」
美咲は少女に近づいた。
「あなたは、本当に……私の子なの?」
少女は答えなかった。
ただ、悲しそうに笑った。
「ママは、どうしてそんなに苦しそうなの?」
「あなたのせいじゃない」
「ううん」
少女は首を横に振った。
「私のせいでもないよ」
「じゃあ、誰のせいなの?」
少女はしばらく美咲を見つめた。
そして、小さな手で美咲の手を握った。
温かかった。
夢なのに。
まるで、本当に誰かに触れられているようだった。
「ママが、自分を責めてるから」
「……私が?」
「うん」
少女は白い花を一輪、摘み取った。
「ママは、私を守れなかったって思ってる」
美咲の呼吸が止まった。
「……どうして、それを知ってるの?」
少女は花を美咲に渡した。
「だって、ママが毎日思ってることだから」
その瞬間。
頭の奥で、何かが弾けた。
――白い天井。
――冷たい診察室。
――健一の泣きそうな顔。
そして。
自分の声。
『ごめんね……』
『ごめんなさい……』
「……やめて」
美咲は頭を抱えた。
「やめて……!」
少女が驚いたように美咲を見る。
「ママ……」
「思い出したくない!」
声が庭中に響いた。
湖の水面が大きく揺れた。
止まっていた時計塔の針が――
カチッ。
ほんの少しだけ動いた。
少女は時計を見上げた。
「……時間が動いた」
「え?」
「もう、ここに長くはいられないかもしれない」
美咲は少女を見る。
「どういう意味?」
少女は答えなかった。
ただ、少しだけ寂しそうに笑った。
「ママ」
「なに?」
「今度は、私のことをちゃんと覚えていて」
その言葉を聞いた瞬間。
美咲の目の前が、真っ白になった。
そして最後に聞こえたのは――
少女の声だった。
「私がいなくなったあとも……」
「ちゃんと、生きてね」
*
美咲はベッドの上で飛び起きた。
午前四時。
心臓が激しく鳴っている。
手のひらを見る。
そこには何もない。
白い花なんて、あるはずがない。
――なのに。
枕元から、かすかな花の香りがした。
美咲はゆっくり振り返った。
誰もいない。
窓も閉まっている。
それでも。
部屋の隅に――
白い花びらが一枚だけ落ちていた。




