第4話 忘れていた妊娠
――妊娠しています。
その言葉だけが、頭の中に残っていた。
美咲は暗闇の中に立っていた。
何も見えない。
何も聞こえない。
ただ、さっき聞こえた医師の声だけが、何度も繰り返される。
『妊娠しています』
「……嘘」
美咲は首を振った。
「そんなはずない」
その瞬間、暗闇の中から声がした。
「本当だよ」
少女だった。
姿は見えない。
「あなたは……誰なの?」
「ママが忘れた子」
「私は子どもなんて――」
「いたよ」
少女の声が響く。
「五年前に」
美咲は耳を塞いだ。
「やめて……」
「ママ」
「やめて!」
叫んだ瞬間。
目の前に白い光が広がった。
*
「……っ!」
美咲はベッドの上で飛び起きた。
全身に汗をかいている。
隣では健一が驚いた顔で美咲を見ていた。
「美咲?」
「……健一」
「どうした?」
「私……」
言葉が出ない。
五年前。
妊娠。
病院。
少女。
全部が頭の中で繋がり始めている。
「私、五年前に……」
健一の顔から、少しずつ表情が消えた。
「……何?」
「妊娠したこと……あった?」
長い沈黙。
健一は答えなかった。
それが答えだった。
「……あったの?」
「美咲……」
「答えて」
「……うん」
美咲の呼吸が止まった。
「どうして……私、覚えてないの?」
健一は俯いた。
「覚えてないんじゃない」
「え?」
「美咲が……忘れようとしたんだ」
「何を?」
健一の声が震えた。
「赤ちゃんのこと」
美咲は何も言えなかった。
頭の中で、断片的な記憶が蘇る。
病院。
診察台。
エコー。
健一の手。
自分の涙。
そして――
『赤ちゃんの心拍が確認できません』
美咲は口元を押さえた。
「……いや」
涙が溢れた。
「いや……」
健一が近づく。
「美咲……」
「私……赤ちゃんがいたの?」
「うん」
「男の子? 女の子?」
「……分からなかった」
美咲は泣きながら首を振った。
「どうして教えてくれなかったの?」
「医師からは、まだ性別が分かる時期じゃないって……」
「そうじゃなくて!」
声が震える。
「どうして私に言わなかったの!」
「美咲が……聞きたくないって言ったんだ」
美咲は固まった。
「私が?」
「何も思い出したくないって」
その言葉に、美咲は何も返せなかった。
確かに。
思い出せない。
でも。
忘れたかったのかもしれない。
あまりにも辛くて。
*
その夜。
美咲は眠るのが怖かった。
少女に会いたくなかった。
けれど、眠りは容赦なくやってくる。
目を開けると――
約束の庭だった。
少女がベンチに座っている。
美咲を見ると、静かに立ち上がった。
「……どうして教えてくれなかったの?」
美咲が尋ねた。
「何を?」
「私が……あなたのお母さんだってこと」
少女は悲しそうに笑った。
「まだ、そうとは言ってないよ」
「でも……」
「ママ」
少女が美咲の手を握る。
「私が誰なのかは、ママが決めることじゃないよ」
「どういう意味?」
「思い出せば分かる」
少女はそう言って、美咲の手のひらに何かを乗せた。
小さな白い花。
「これ……?」
「ママがくれたもの」
「私が?」
「うん」
美咲は花を見つめる。
すると――
また記憶が蘇った。
病院のベッド。
泣いている自分。
健一が何かを渡している。
小さな箱。
その中に入っていた――
一輪の白い花。
「……私、これを……」
「覚えてきたね」
少女が微笑む。
「でも、まだ一つだけ思い出してない」
「何を?」
少女は答えなかった。
代わりに、美咲の耳元へ顔を近づける。
「ママが、私につけようとした名前」
美咲の目が見開かれる。
「……名前?」
「そう」
「あなたの名前……?」
少女は頷いた。
「次に会ったら、思い出して」
少女が離れる。
遠くの時計台が鳴る。
――ゴーン。
そして、美咲は初めて気づいた。
少女の顔が――
自分の幼い頃の顔に、どこか似ていることに。




