第2話 忘れていた名前
少女の手は、小さかった。
それなのに。
美咲は、その手を振りほどくことができなかった。
「……いつか思い出すって、どういう意味?」
「そのままだよ」
「私はあなたを知らない」
「うん」
「あなたのお母さんでもない」
「うん」
少女は何度も頷く。
否定しない。
怒りもしない。
ただ、当たり前のことを聞いているような顔をしていた。
「じゃあ、どうして私をママって呼ぶの?」
「ママだから」
「だから……私は違うって」
美咲が言いかけると、少女は花畑の中へ走り出した。
「待って!」
美咲も追いかける。
少女は振り返りながら笑った。
「ママ、遅いよ」
「だからママじゃないってば!」
少女は楽しそうに笑った。
その笑い声を聞いていると、不思議な気持ちになる。
初めて聞いたはずなのに。
どこか懐かしい。
まるで、ずっと昔から知っていたような――。
「ねえ」
少女が突然立ち止まった。
「なに?」
「私の名前、知りたい?」
「……うん」
「じゃあ、当てて」
「無理だよ」
「じゃあヒント」
少女は人差し指を一本立てた。
「ママが昔、好きだった名前」
美咲は眉をひそめた。
「私が?」
「うん」
「そんなの知らない」
少女は少し考える。
「じゃあ……『ゆ』から始まる」
美咲の胸がざわついた。
「……ゆ?」
「うん」
「ゆき?」
「違う」
「ゆう?」
少女は笑った。
「惜しい」
美咲は黙った。
なぜだろう。
胸の奥が、妙に痛い。
「……もう一つ、ヒント」
少女は美咲の顔を覗き込んだ。
「ママが一度だけ、呼んでくれた名前」
美咲の息が止まった。
「……一度だけ?」
「うん」
「私、そんな名前を呼んだこと……」
ない。
そう言おうとした。
けれど。
頭の奥に、突然何かが浮かんだ。
白い天井。
病院のカーテン。
自分の手。
そして――。
小さな画面に表示された、何か。
そこまで思い出した瞬間。
景色が揺れた。
「……何?」
美咲は頭を押さえた。
少女が心配そうに近づく。
「大丈夫?」
「頭が……」
「思い出しかけたんだね」
「何を?」
少女は答えなかった。
その代わり、美咲の手を握る。
「まだ、思い出さなくていいよ」
「どうして?」
「悲しくなるから」
その瞬間、遠くから鐘が鳴った。
――ゴーン。
少女が空を見上げる。
「今日はもう帰る時間」
「待って」
美咲は少女の腕を掴んだ。
「あなたは私の何なの?」
少女は少しだけ悲しそうな顔をした。
「……私?」
少女は自分の胸に手を当てる。
「ママが忘れたもの」
世界が白く染まった。
*
「……っ!」
美咲はベッドの上で目を覚ました。
朝だった。
隣を見る。
健一はまだ眠っている。
美咲はしばらく動けなかった。
夢だった。
また夢。
そう思おうとした。
けれど。
「……ゆ……」
口から、知らない音が漏れた。
美咲は自分でも驚いた。
何の名前なのか分からない。
ただ、その音を口にすると胸が苦しくなる。
朝食を作っている間も、そのことが頭から離れなかった。
「どうした?」
健一が聞く。
「え?」
「さっきからぼーっとしてる」
「……昨日、変な夢を見たの」
「夢?」
「女の子が出てきた」
健一の手が、一瞬止まった。
「……女の子?」
「うん」
「何て言ってた?」
「私のこと……ママって」
健一は黙った。
「どうしたの?」
「いや……何でもない」
健一は目を逸らした。
その反応が、美咲には引っかかった。
「ねえ」
「ん?」
「私って……昔、何か変な夢の話したことある?」
「……ないと思うけど」
「そう」
美咲はそれ以上聞かなかった。
しかし、その日の昼。
不妊治療のためにバッグの中身を整理していた美咲は、一枚の古い診察券を見つけた。
今通っている病院とは違う。
日付は――五年前。
「……五年前?」
美咲は診察券を裏返した。
そこには、自分の字で小さく書かれていた。
『次回、結果を聞く』
何の結果なのか。
美咲には分からなかった。
その夜。
再び夢を見る。
約束の庭。
少女は昨日と同じ場所にいた。
美咲を見るなり、嬉しそうに駆け寄ってくる。
「ママ!」
そして、何気ない顔で言った。
「五年前のこと、もうすぐ思い出すよ」
美咲は立ち尽くした。
「……どうして、それを知ってるの?」
少女は答えなかった。
ただ、遠くの時計台を指差した。
止まっていたはずの時計の針が――
また一つ、動いていた。




