第1話 白い病院
「ママ、どうして私を迎えに来てくれなかったの?」
少女は、泣いていた。
美咲は何も言えなかった。
目の前にいるのは、見たこともない女の子だった。
七歳くらい。
白いワンピース。
長い黒髪。
そして――なぜか、ひどく懐かしい顔。
「……あなた、誰?」
美咲が尋ねると、少女は涙を拭った。
「忘れちゃったの?」
「何を……?」
少女は答えなかった。
ただ、美咲の手を握った。
「ずっと待ってたのに」
小さな手は、驚くほど温かかった。
「ママ……」
その瞬間。
美咲の胸に、強い痛みが走った。
知らないはずの少女。
知らないはずの場所。
なのに、なぜかこの子を知っている気がする。
「私は……あなたのお母さんじゃない」
震える声で言う。
少女は悲しそうに笑った。
「ううん」
そして、静かに首を振る。
「ママだよ」
――そこで、美咲は目を覚ました。
「……っ!」
息を切らしながら、ベッドの上で身体を起こす。
隣では夫の健一が眠っている。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいた。
「夢……?」
美咲は自分の手を見る。
少女に握られた感触が、まだ残っている。
けれど、その顔はもう思い出せない。
名前も。
声も。
夢の中の場所も。
全部、霧のように消えていく。
ただ、一つだけ。
少女の言葉だけが頭に残っていた。
――「ずっと待ってたのに」
*
その日の朝。
美咲は病院の待合室にいた。
白い壁。
消毒液の匂い。
膝の上で握りしめた診察券。
ここへ来るのは、もう何度目なのか分からない。
三十五歳。
結婚して七年。
夫の健一との間に、まだ子どもはいない。
不妊治療を始めてから、時間だけが過ぎていった。
「美咲さん」
看護師に呼ばれる。
「はい」
立ち上がる。
診察室へ向かいながら、美咲は昨夜の夢を思い出していた。
――ママ。
どうして、あの少女は自分を母親だと思ったのだろう。
考えても分からない。
自分には子どもがいない。
少なくとも、美咲はそう思っていた。
診察を終え、病院を出る。
スマートフォンを見ると、健一からメッセージが届いていた。
『病院どうだった?』
美咲は少し迷ってから、
『いつも通り』
と返した。
空を見上げる。
青い空。
どこにでもある、普通の一日。
なのに、美咲の胸には妙な不安が残っていた。
まるで、何かを忘れている。
そんな感覚。
*
その夜。
美咲はなかなか眠れなかった。
ベッドに入り、目を閉じる。
少女の顔を思い出そうとする。
けれど、どうしても思い出せない。
「……誰なの?」
小さく呟く。
やがて意識が遠くなる。
そして――。
美咲は、再び同じ場所に立っていた。
一面の花畑。
遠くに古い時計台。
止まった時計。
風に舞う白い花びら。
「……ここ……」
昨日と同じ場所だった。
そのとき。
背後から、少女の声が聞こえた。
「来てくれたんだね、ママ」
美咲は振り返った。
少女が笑っている。
今度は、はっきり顔が見えた。
その顔を見た瞬間――。
美咲の中で、何かが弾けた。
胸が苦しい。
涙が勝手に溢れてくる。
「……どうして……」
「?」
「どうして、あなたを見ると……こんなに泣きたくなるの?」
少女はしばらく美咲を見つめていた。
そして、少しだけ寂しそうに笑った。
「だってママ……」
少女が一歩近づく。
「私のこと、忘れちゃったんだもん」
美咲の背筋に、冷たいものが走った。
「……私、あなたに会ったことがあるの?」
少女は答えない。
ただ、美咲の手を握った。
「いつか思い出すよ」
その言葉と同時に、遠くの時計台の針が――
ほんの少しだけ動いた。
カチッ。
美咲は時計を見つめた。
少女は笑っている。
その笑顔を見ながら、美咲はまだ知らなかった。
この少女が、自分が忘れようとしていた過去を知っていることを。
そして――
少女との出会いが、美咲の人生を大きく変えていくことを。




