第19話 今度は、ちゃんと会おう
それから三週間。
美咲は、夢を見なかった。
約束の庭にも行かなかった。
ゆきにも。
あの男の子にも。
会わなかった。
最初の頃は、少し寂しかった。
けれど、不思議と怖くはなかった。
夢の中で言われた言葉が、心の中に残っていたからだ。
――未来は、待つものじゃない。
――選ぶもの。
美咲は、以前より少しだけ笑うようになった。
健一と一緒に食事をする。
休日には近くへ出かける。
くだらないことで笑う。
子どもの話をしない日も増えた。
それでも。
子どもを諦めたわけではなかった。
ただ――
子どもができる未来だけを「幸せ」と呼ぶことを、やめた。
◇
その日。
美咲は病院へ行った。
治療について、これからどうするか。
二人で相談するためだった。
診察室を出ると、健一が言った。
「お腹空いた?」
「うん」
「何食べたい?」
「ラーメン」
「また?」
「いいじゃん」
二人で笑った。
病院を出る。
その瞬間だった。
「……あ」
美咲が立ち止まった。
「どうした?」
病院の入口。
少し離れた場所に、小さな男の子が立っていた。
青い服。
短い髪。
背丈も――
夢の中の男の子と、よく似ていた。
男の子は、美咲を見ている。
じっと。
何も言わずに。
「……健一」
「ん?」
「あの子……」
健一が振り返る。
けれど。
男の子はもういなかった。
「どの子?」
「……ううん」
美咲は首を振った。
「なんでもない」
夢だったのだろう。
そう思った。
そのとき。
風が吹いた。
足元に、一枚の白い花びらが落ちる。
美咲は拾い上げた。
「……また白い花」
「何?」
「なんでもない」
美咲は花びらを財布にしまった。
◇
その夜。
久しぶりに夢を見た。
目を開けると――
約束の庭だった。
けれど。
以前とは、何もかも違っていた。
木造の家はなくなっていた。
湖もない。
白い花畑も、ほとんど消えている。
ただ一本の道だけが残っていた。
その先に――
男の子が立っていた。
今までより、ずっと近い。
顔には、もう光がかかっていない。
美咲は息を呑んだ。
「……あなた」
男の子が笑った。
「ママ」
その笑顔を見た瞬間。
美咲の胸に、懐かしさが込み上げた。
理由は分からない。
けれど。
ずっと探していた。
そんな気がした。
「やっと……会えた」
美咲が近づく。
男の子も歩いてくる。
一歩。
また一歩。
二人の距離が縮まる。
「ねえ」
美咲は尋ねた。
「あなたの名前……」
男の子は少しだけ困ったように笑った。
「まだ言わない」
「どうして?」
「名前は、会ったときに言うものだから」
「じゃあ……」
美咲は涙を浮かべながら笑った。
「いつ会えるの?」
男の子は答えなかった。
代わりに、美咲の手を見つめた。
そして――
小さな手を伸ばした。
美咲も手を伸ばす。
指先が触れた。
温かい。
夢なのに。
確かな温かさだった。
「……温かい」
「うん」
「本当にいるの?」
「今はね」
「今は?」
男の子は笑った。
「僕は、まだ未来だから」
その瞬間。
庭に風が吹いた。
白い花びらが舞い上がる。
遠くで、時計塔の鐘が鳴った。
――ゴーン。
今まで止まっていた時計が。
初めて時刻を告げた。
男の子は美咲を見上げる。
「ママ」
「うん」
「ありがとう」
「……何が?」
「僕を探してくれて」
美咲は首を横に振った。
「まだ、探してないよ」
「ううん」
男の子は笑った。
「もう見つけたよ」
美咲の目から涙が落ちた。
そして。
男の子が一歩、前へ進んだ。
「今度は――」
その声が、少しずつ遠くなる。
「夢じゃなくて」
白い光が二人を包む。
「ちゃんと会おう」
「待って!」
美咲が手を伸ばす。
けれど。
その手は空を掴んだ。
男の子の姿は消えていた。
ただ。
最後に聞こえた声だけが残った。
「ママ……」
◇
翌朝。
美咲は目を覚ました。
涙を流していた。
けれど。
悲しくなかった。
なぜか。
胸の奥が、とても温かかった。
隣で健一が目を覚ます。
「どうした?」
「……夢を見た」
「また?」
「うん」
「ゆき?」
美咲は少し考えた。
「ううん」
そして笑った。
「今度は、男の子」
健一が黙る。
「何て言ってた?」
美咲は答えた。
「今度は夢じゃなくて、ちゃんと会おうって」
健一はしばらく何も言わなかった。
やがて。
「……そうか」
美咲の手を握る。
「じゃあ、待とう」
「うん」
「でも、焦らずに」
「うん」
二人は窓を開けた。
朝の風が部屋に入ってくる。
そして――
窓辺に置いていた小さな鉢から。
白い花が一輪。
ゆっくりと開いた。
その隣には。
まだ芽を出したばかりの――
小さな青い蕾があった。




