第18話 もう一度、現実へ
病院の自動ドアが開いた。
冷たい空気が、頬に触れる。
美咲は足を止めた。
何度も来た場所なのに。
今日は、まるで初めて来たような気がした。
「美咲?」
隣にいた健一が、心配そうに顔を覗き込む。
「大丈夫?」
「うん」
美咲は頷いた。
「今日は……ちゃんと話したい」
「何を?」
「これからのこと」
健一は少しだけ黙った。
そして。
「分かった」
二人は受付へ向かった。
◇
診察室。
担当医は、これまでの治療記録を確認していた。
「これまで、いくつか治療を続けてきましたが……」
医師の言葉を聞きながら、美咲は膝の上で手を握った。
結果。
数字。
可能性。
選択肢。
どれも大切な話だった。
けれど、以前の美咲とは少し違っていた。
以前なら。
「妊娠できるか」
その一点だけを考えていた。
今は違う。
自分たちが、これからどう生きたいのか。
それも考えたい。
「……先生」
美咲が口を開いた。
「治療について、少し考える時間をもらってもいいですか?」
医師は頷いた。
「もちろんです。焦って決める必要はありません」
その言葉に、美咲は少しだけ肩の力を抜いた。
診察室を出る。
廊下を歩きながら、健一が言った。
「……変わったね」
「私?」
「うん」
美咲は笑った。
「そうかな」
「前は、結果が出るたびに自分を責めてた」
美咲は何も言わなかった。
「俺も……どうしたらいいか分からなかった」
「健一……」
「ごめん」
突然、健一が立ち止まった。
「五年前のこと」
美咲の胸が痛む。
「俺も、ちゃんと向き合えてなかった」
「……うん」
「美咲が泣いてるのを見て、どう声をかけたらいいのか分からなくて」
健一は俯いた。
「だから、二人とも忘れたふりをしてた」
「……そうだったね」
「でも」
健一が顔を上げた。
「もう、忘れなくていいんじゃないかな」
美咲の目に涙が浮かんだ。
「うん」
二人は、その場で手を握った。
五年前。
失ったものは戻らない。
けれど。
その記憶まで消す必要はない。
それが分かっただけで。
少しだけ、呼吸が楽になった。
◇
その夜。
美咲は眠った。
夢を見るつもりはなかった。
けれど――
気づいたとき。
そこにいた。
約束の庭。
今までとは違う。
白い花畑。
木造の家。
湖。
そして時計塔。
時計の針は――
十二時を指していた。
「……十二時」
美咲が呟く。
すると。
湖の向こうから声がした。
「ママ」
美咲は振り返った。
そこに――
男の子が立っていた。
初めてだった。
今までなら。
影だけ。
足跡だけ。
声だけ。
けれど今は。
小さな身体が、はっきり見える。
青い服。
短い髪。
小さな手。
ただし――
顔だけが、白い光に包まれていた。
「……あなた」
美咲はゆっくり近づく。
「来たよ」
「うん」
「約束したから」
男の子が笑った。
その笑顔を見て。
美咲の胸に、何かが込み上げてきた。
懐かしい。
会ったことなんてないはずなのに。
ずっと昔から知っていたような。
「ねえ」
美咲は尋ねた。
「あなたは、誰なの?」
男の子は答えなかった。
代わりに湖を指差した。
水面に映っているのは――
美咲。
健一。
そして。
小さな男の子。
三人だった。
「……家族?」
美咲が呟く。
男の子は首を横に振る。
「まだ分からないよ」
「どうして?」
「未来は、まだ途中だから」
男の子は湖を見る。
「でもね」
「うん」
「ママが今日、ちゃんと選んだから」
美咲の目に涙が浮かんだ。
「私が?」
「うん」
「何を選んだの?」
男の子は答えた。
「生きること」
その瞬間。
時計塔の針が動いた。
――カチ。
十二時。
そこから。
ほんの少しだけ。
針が進んだ。
美咲は息を呑んだ。
「……時計が」
「うん」
男の子が笑う。
「もう、時間が止まってない」
白い花が風に揺れる。
花びらが一枚。
湖へ落ちた。
そして。
男の子の顔を覆っていた光が――
ほんの少しだけ薄くなった。
「……顔」
美咲が呟く。
「見える?」
「少しだけ」
「もう少し……」
美咲が近づく。
男の子も、一歩近づく。
あと少し。
あと一歩。
その距離まで近づいたとき――
男の子が小さく笑った。
「ママ」
「なに?」
「次は……」
男の子の姿が、白い光に包まれる。
「夢じゃなくて――」
美咲は手を伸ばした。
「待って!」
男の子の声だけが残る。
「ちゃんと会おう」
――目が覚めた。
美咲はベッドの上で、激しく息をしていた。
「……夢……?」
隣を見る。
健一は眠っている。
いつもの朝。
いつもの部屋。
いつもの現実。
美咲は胸に手を当てた。
心臓が、まだ激しく鼓動している。
そして。
枕元を見る。
そこには何もなかった。
青い花も。
白い花も。
紙も。
何もない。
「……そうだよね」
美咲は小さく笑った。
今度こそ。
本当に夢だったのかもしれない。
けれど。
カーテンを開けた瞬間――
庭の隅に。
小さな青い足跡が二つ。
土の上に残っていた。
美咲は言葉を失った。
そして、その足跡の先には――
まだ蕾のままの、白い花が一輪だけ咲いていた。




