第17話 知らない声
その夜。
美咲は眠るのが怖かった。
ベッドに入っても、なかなか目を閉じられない。
目を閉じれば、またあの庭に戻る気がした。
ゆきがいた庭。
そして――
まだ顔を見せていない、あの男の子。
「……次に会うときは、顔を見せる」
昼間に聞いた声が、何度も頭の中で繰り返される。
美咲は時計を見る。
午前零時を過ぎていた。
「……もう寝よう」
そう呟いて、目を閉じた。
◇
――カチ。
時計の音がした。
美咲は目を開けた。
「……ここ……」
約束の庭。
けれど、いつもと違っていた。
白い花畑がない。
木造の家もない。
湖もない。
ただ、長い一本道だけが続いている。
道の先には、霧。
その向こうに何かがある。
「……また来たんだ」
美咲は一人で呟いた。
すると。
――とん。
足音。
美咲は振り返った。
誰もいない。
「……いるんでしょう?」
返事はない。
少しだけ待つ。
――とん。
今度は前から聞こえた。
美咲は道を進んだ。
「ねえ」
――とん。
「名前、教えて」
足音が止まった。
静寂。
そして――
「……まだ」
声がした。
「まだ?」
「名前は……まだ言えない」
「どうして?」
しばらく沈黙したあと。
「名前を呼んだら、ママは僕を探してしまうから」
美咲は胸を掴まれたような感覚になった。
「……それの何がいけないの?」
「まだ、その時じゃないから」
「その時って、いつ?」
「ママが決めたとき」
また、あの言葉だった。
未来は決まっていない。
選ぶもの。
美咲は霧の向こうを見る。
「あなたは……私の未来なの?」
男の子は答えなかった。
代わりに。
霧の中から、小さな手が伸びてきた。
美咲は反射的に手を伸ばす。
指先が触れそうになった、その瞬間――
手が消えた。
「……待って!」
美咲は走った。
霧の中へ。
何も見えない。
「どこにいるの!」
「ここだよ」
声はすぐ近く。
美咲は振り返る。
誰もいない。
「お願い……」
声が震えた。
「少しだけでいいから、顔を見せて」
沈黙。
やがて。
「……ママは、僕を見たい?」
「見たい」
「どうして?」
美咲は答えられなかった。
自分でも、分からなかった。
子どもが欲しいから?
それとも――
ゆきを失った悲しみを埋めたいから?
「……分からない」
正直に答えた。
「ただ……」
美咲は胸に手を当てる。
「あなたのことを、ずっと待っていたような気がする」
霧が揺れた。
男の子が、初めて少しだけ近づいた。
影が見える。
小さな身体。
短い髪。
そして――
顔の輪郭。
美咲は息を呑んだ。
「……あなた……」
もう少しで顔が見える。
その瞬間。
遠くで時計の音が響いた。
――カチ。
――カチ。
――カチ。
霧が急速に白くなっていく。
「待って!」
美咲は手を伸ばした。
「お願い!」
「ママ」
男の子の声。
「今日は、ここまで」
「嫌!」
「大丈夫」
「何が大丈夫なの!」
涙が溢れた。
「また消えるんでしょう?」
「消えないよ」
男の子は静かに答えた。
「僕は、まだ会ってないだけ」
「……え?」
「だから、消えない」
美咲の目から涙が落ちる。
男の子の影が、少しずつ遠ざかっていく。
「次に会ったら……」
声だけが残った。
「ちゃんと、顔を見せる」
「本当に?」
「うん」
「約束して」
男の子は答えた。
「約束」
そして――
霧が晴れた。
美咲の前に、一本の道が現れた。
その先に。
見慣れたものがある。
病院。
けれど、五年前の病院ではない。
現在の病院だった。
不妊治療で何度も通っている場所。
入口には、見慣れた文字。
美咲は立ち止まった。
「……現実?」
男の子の声が、遠くから聞こえる。
「そう」
「じゃあ、どうしてここに?」
「ママが、これから選ぶ場所だから」
美咲は病院を見つめた。
治療を続ける。
休む。
別の方法を考える。
それとも――
いったん、子どものことから離れる。
選択肢はいくつもある。
どれが正しいのか。
今の美咲には分からない。
ただ、一つだけ分かった。
未来を怖がって、何も選ばないことだけは違う。
「……分かった」
美咲は病院へ向かって歩き出した。
その背後で。
小さな男の子が、初めて笑った。
姿は見えない。
けれど――
声だけが聞こえた。
「ママ」
美咲が振り返る。
「なに?」
「もうすぐだよ」
――そして。
目が覚めた。
朝だった。
美咲は布団の中で、しばらく動けなかった。
夢だった。
そう思おうとした。
けれど。
枕元に――
小さな青い花が置かれていた。
「……また……?」
美咲は花を手に取った。
その花の茎には、小さな紙が結ばれている。
震える手で開く。
そこには。
たった一行。
――「次は、現実で待ってる」
美咲は紙を握りしめた。
そして。
その日。
美咲は健一と一緒に、病院へ向かった。




