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『約束の庭――夢の中で、君に会った』  作者: こうた


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第16話 足音



 ――とん。


 また、聞こえた。


 白い花畑の向こう。


 誰もいないはずの場所から。


 ――とん。


 美咲は息を止めた。


 約束の庭。


 あの少女――ゆきが消えてから、何度もここへ来た。


 けれど、庭はずっと空っぽだった。


 木造の家も。  湖も。  止まっていた時計塔も。


 何も変わらない。


 なのに今だけは違った。


 確かに、誰かが歩いている。


 小さな足音。


 子どもの歩き方だった。


「……誰?」


 返事はない。


 美咲は一歩、足を進めた。


 ――とん。


 また一歩。


 ――とん。


 音も、一歩ずつ遠ざかっていく。


「待って……!」


 美咲は走り出した。


 白い花をかき分ける。


 その先にあったのは、一本の大きな木だった。


 木の枝には、青いリボンが結ばれている。


 見覚えがあった。


 現実の、あの古い箱の中に入っていたもの。


「……これ……」


 美咲が手を伸ばす。


 指先がリボンに触れた瞬間――


 景色が変わった。


 ◇


 病院の廊下。


 白い壁。


 消毒液の匂い。


 遠くから聞こえる、誰かの泣き声。


 美咲は立ち尽くした。


「ここ……」


 五年前に来た病院だった。


 あの日。


 妊娠を告げられて。


 その後、何度も通った場所。


 そして――


 小さな命を失った場所。


「嫌……」


 胸が締めつけられる。


 戻りたくない。


 忘れていたかった。


 あの日の自分に。


 あの日の悲しみに。


 美咲は後ずさった。


 すると。


 廊下の奥から、声がした。


「……ママ」


 美咲の身体が固まる。


 少女の声ではない。


 もっと幼い。


 男の子の声。


「……誰?」


 廊下の先を見る。


 誰もいない。


 ただ、二つの扉があった。


 左の扉には白い花。


 右の扉には青いリボン。


 美咲はその意味を理解できなかった。


「どっちに行けばいいの……?」


 すると、男の子の声がした。


「どっちでもいいよ」


「え……?」


「ママが選ぶから」


 美咲は扉を見つめた。


「選ぶって……何を?」


 しばらく沈黙が続いた。


 やがて。


「過去を見るか」


 左の扉。


「未来を見るか」


 右の扉。


 美咲の心臓が、大きく跳ねた。


「未来……」


 その言葉だけで、胸の奥が痛くなった。


 未来。


 それは、ずっと欲しかったものだった。


 子どもがいる未来。


 家族三人で笑っている未来。


 けれど同時に――


 何度も期待して。


 何度も裏切られて。


 何度も泣いた未来だった。


「……怖いよ」


 美咲は小さく呟いた。


「未来を見るのが?」


「ううん」


 涙が頬を伝う。


「未来を期待することが……怖い」


 期待すればするほど。


 失ったときの痛みは大きくなる。


 だから美咲は、いつからか期待することそのものを恐れていた。


 男の子は何も言わなかった。


 ただ。


 ――とん。


 小さな足音が聞こえた。


 今度は近い。


 美咲は右の扉に手を伸ばした。


 青いリボンに触れる。


「……私は」


 指先が震える。


「私は、未来を見たい」


 扉が静かに開いた。


 その向こうには――


 何もなかった。


 真っ白だった。


「……え?」


 未来というには、あまりにも何もない。


 家も。


 人も。


 病院も。


 何もない。


 ただ、遠くに小さな青い影が立っている。


 男の子だった。


 顔は見えない。


 こちらに背を向けている。


「……あなたなの?」


 男の子が振り返りかける。


 その瞬間。


 強い光が美咲を包んだ。


「待って!」


 美咲が手を伸ばす。


 男の子は立ち止まった。


「ママ」


「うん!」


「未来は、決まってないよ」


「……え?」


「だから――」


 男の子は振り返らない。


「僕がいるって、約束はできない」


 美咲の胸に、鋭い痛みが走った。


「……どうして?」


「だって、未来だから」


 小さな声だった。


「でも……」


 男の子は続けた。


「ママが笑ってくれたら、僕は嬉しい」


 その言葉を聞いた瞬間。


 美咲は泣いた。


 子どもを授かれるかどうか。


 それだけが幸せではない。


 そんなことは、頭では分かっていた。


 けれど――


 今まで心のどこかで。


 「子どもがいなければ、自分は幸せになれない」


 そう思い込んでいた。


「……ごめんね」


 美咲は涙を拭った。


「ママ、今まで……ずっと怖がってた」


 男の子は黙っている。


「でも、もう……逃げない」


 その瞬間。


 真っ白だった景色に、一輪の花が咲いた。


 白い花。


 その隣に――


 小さな青い花。


「……綺麗」


 美咲が呟く。


 男の子の声が聞こえた。


「じゃあ、帰って」


「え?」


「まだ、ここにいる時間じゃないよ」


「待って!」


 美咲は走り出した。


 けれど。


 男の子の姿は、もう見えなかった。


 ただ。


 地面に小さな足跡だけが残っている。


 その足跡は――


 美咲が立っている場所から、未来へ向かって続いていた。


 そして最後に。


 一つだけ。


 小さな文字が残されていた。


 ――未来は、待つものじゃない。


 ――選ぶもの。


 ◇


 翌朝。


 美咲は目を覚ました。


 カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。


 隣では健一が眠っていた。


 美咲はしばらく、その寝顔を見つめた。


「……健一」


「ん……?」


「今日、話したいことがある」


 健一が目を開ける。


「何?」


 美咲は少しだけ笑った。


「これからのこと」


「治療の?」


「それも」


 美咲は健一の手を握った。


「でも、それだけじゃない」


「……うん」


「子どもができるかどうかだけで、私たちの人生を決めたくない」


 健一は黙って美咲を見た。


「治療をどうするかは、ちゃんと先生と相談する。続けるか、方法を変えるか、休むか……二人で決めたい」


「……うん」


「でも」


 美咲は笑った。


「どんな未来になっても、私たちは私たちでいたい」


 健一は何も言わなかった。


 ただ。


 強く、美咲の手を握り返した。


 その温かさが。


 夢ではなく、現実だった。


 美咲は窓の外を見る。


 青い空。


 そして――


 庭の隅に。


 小さな青い花が一輪だけ咲いていた。


 この季節には、咲くはずのない花。


 美咲は目を細める。


 その瞬間。


 耳元で、かすかな声がした。


「……ママ」


 美咲は振り返る。


 誰もいない。


 けれど。


 今度の声は、寂しくなかった。


「次に会うときは――」


 小さな男の子の声。


「顔を見せるね」


 美咲の胸が、大きく高鳴った。


 そして遠くで。


 ――とん。


 小さな足音が一つ。


 確かに。


 未来へ向かって響いた。

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