第15話 空っぽの庭
目を開ける。
美咲は、いつものベッドにいた。
朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいる。
「……夢」
そう呟いてから、胸元に手を当てた。
昨夜の温もりが、まだ残っている気がした。
ゆきはもういない。
約束の庭も、きっと終わった。
そう思った。
けれど――
枕元を見る。
白い花びらが一枚。
そして、その隣に青いリボン。
美咲はそれをそっと箱にしまった。
「ありがとう」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
*
それから三日間。
美咲は夢を見なかった。
眠っても、約束の庭には行けない。
以前なら不安になっていたはずなのに、今は違った。
夢がなくても、ゆきとの時間は消えない。
美咲はそう思えるようになっていた。
ある朝。
健一がコーヒーを飲みながら言った。
「最近、少し変わったな」
「そう?」
「うん」
「悪い意味?」
「逆」
健一は笑った。
「前より笑うようになった」
美咲も笑った。
「健一もね」
「俺?」
「うん」
「そうかな」
「そうだよ」
二人は顔を見合わせた。
そして、同時に笑った。
*
その日の午後。
美咲は一人で散歩に出た。
目的地はなかった。
ただ、歩きたかった。
近所の公園。
小さな子どもたちが遊んでいる。
以前なら、その光景を見るだけで胸が苦しくなった。
けれど今日は――
少し離れたベンチから、笑顔で見守ることができた。
「……可愛いな」
自分でも驚いた。
そんな言葉が自然に出てきた。
そのとき。
公園の時計が目に入った。
十二時。
正常に動いている。
美咲はしばらく見つめた。
そして思い出す。
約束の庭の時計。
止まっていた時間。
十一時五十九分。
そして――十二時。
「……時間は進むんだ」
小さく呟いた。
その瞬間。
背後から、声がした。
「お姉ちゃん」
美咲が振り返る。
知らない男の子だった。
五歳くらい。
手には青い風船。
「これ、落としたよ」
男の子が差し出している。
「え?」
美咲は自分の足元を見る。
何も落としていない。
「私のじゃないよ」
「でも、お姉ちゃんのだよ」
「違うと思うけど……」
男の子は首を傾げた。
「さっき、白いお姉ちゃんが持ってた」
美咲の表情が変わった。
「……白いお姉ちゃん?」
男の子は頷いた。
「長い髪の人」
心臓が跳ねる。
「その子、どこにいるの?」
男の子は公園の奥を指差した。
「向こう」
美咲は走った。
けれど。
誰もいない。
木々が風に揺れているだけ。
「ゆき……?」
返事はない。
足元を見る。
そこには――
白い花が一輪、落ちていた。
*
その夜。
美咲は眠りについた。
そして――
久しぶりに、約束の庭に立っていた。
「……」
声が出なかった。
そこには、誰もいなかった。
木の家。
湖。
時計塔。
白い花畑。
すべてある。
けれど、ゆきだけがいない。
「ゆき?」
返事はない。
「ゆき!」
美咲は庭を走った。
家の中。
湖のほとり。
花畑。
どこにもいない。
「……もう、本当に終わったんだ」
美咲は立ち尽くした。
そのとき。
風が吹いた。
白い花びらが舞い上がる。
そして。
花畑の中に、一本だけ――
青い花が咲いていることに気づいた。
「……青い花?」
近づく。
花の隣に、小さな足跡があった。
一つ。
二つ。
三つ。
花畑の奥へ続いている。
美咲は足跡を追った。
その先にあったのは――
小さなベンチ。
以前、ゆきと座った場所だった。
ベンチの上に、紙が一枚置かれている。
美咲が拾う。
そこには、たった一行。
『ママ、次はあなたが見つけて』
「……何を?」
答えはない。
ただ、時計塔を見る。
時計は十二時を指している。
けれど――
文字盤の下に、見慣れない数字が刻まれていた。
「1」
美咲は眉をひそめた。
「……一?」
すると。
遠くから、声がした。
今度は女の子ではない。
少し低い、男の子の声。
『ここだよ』
美咲が振り返る。
誰もいない。
『まだ、顔は見せられない』
「誰なの?」
『まだ早いから』
「あなたは……誰?」
しばらく沈黙が続いた。
そして――
『ママが、ちゃんと未来を選んだら』
「……」
『そのとき、会おう』
美咲は息を呑んだ。
声の主は、まだ姿を見せない。
けれど。
その声には、不思議な懐かしさがあった。
まるで――
ずっと昔から知っているような。
『だから、もう泣かないで』
美咲の目から涙が落ちた。
『ゆきが言ってたでしょ』
「……え?」
『幸せになってって』
その瞬間。
時計塔の針が――
十二時から、ほんの少しだけ動いた。
そして庭の奥から。
小さな足音が聞こえた。
トン。
トン。
トン。
今度は、はっきりと――
美咲を待つように、誰かが歩いていた。




