第14話 さよなら、ゆき
「……まだだよ」
男の子の声が、夜の庭に消えていく。
美咲は窓から身を乗り出した。
「誰なの?」
返事はない。
青い靴跡だけが、庭の向こうへ続いている。
二つ。
小さな足跡。
けれど、その先には何もない。
美咲は裸足のまま外へ出ようとした。
その瞬間――
「美咲?」
背後から健一の声がした。
「……健一」
「何してるんだ?」
「今、子どもの声が……」
健一が窓の外を見る。
「子ども?」
「うん」
「こんな時間に?」
「……」
美咲は答えられなかった。
そこにはもう、靴跡すらなかった。
*
翌朝。
美咲は、昨夜のことを夢だったのだと思うことにした。
男の子の声も。
青い靴跡も。
全部、自分の心が作り出したもの。
そう考えれば、説明がつく。
けれど。
机の上に置かれていた青いリボンだけは――
消えていなかった。
美咲はそれを手に取った。
「……ゆき」
もう一度、名前を呼ぶ。
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
悲しい。
でも、以前のような絶望ではない。
ゆきが最後に言った言葉を思い出す。
――私のことを、悲しい思い出にしないで。
「うん」
美咲はリボンを箱に戻した。
「約束する」
*
それから一週間。
夢を見なかった。
約束の庭にも行かなかった。
最初のうちは、少し寂しかった。
毎晩、眠る前に期待してしまう。
今日は会えるだろうか。
ゆきは戻ってくるだろうか。
でも、何も起きない。
その代わり。
美咲は現実の生活を少しずつ取り戻していった。
健一と夕食を作る。
休日に買い物へ行く。
近所を散歩する。
以前なら「治療のため」にしか考えなかった予定にも、少しずつ別のものが増えていった。
ある夜。
美咲は日記を開いた。
最初のページには、こう書いてある。
『私は、もう自分を責めない』
その下に、新しく書き加えた。
『ゆき、ありがとう』
そしてペンを置いた。
その瞬間。
部屋の時計が止まった。
「……え?」
秒針が動かない。
電池を確認する。
問題ない。
美咲は時計を見つめた。
すると――
カチッ。
秒針が一つ進んだ。
そして。
部屋の明かりが一瞬だけ消えた。
真っ暗になる。
「健一?」
返事がない。
「健一?」
美咲が立ち上がった。
すると暗闇の中から――
小さな女の子の声がした。
「ママ」
美咲は振り返った。
「……ゆき?」
白い光が、部屋の中央に浮かぶ。
その光の中に――
ゆきがいた。
「久しぶり」
「……!」
美咲は駆け寄ろうとした。
けれど、ゆきは首を横に振った。
「今日は近づかないで」
「どうして?」
「もう、本当に最後だから」
美咲の胸が痛んだ。
「嫌だよ」
「うん」
「またいなくなるの?」
「うん」
「もう会えない?」
ゆきは少しだけ笑った。
「今の私は、もう会えない」
「……」
「でも、ママが私を忘れなければ――」
「忘れない」
「ううん」
ゆきは優しく首を振る。
「忘れてもいいんだよ」
美咲は泣いた。
「そんなこと……」
「ママ」
ゆきが微笑む。
「人はね、ずっと同じ場所に立っていられないの」
「……」
「前に進むときには、思い出を置いていかなきゃいけないこともある」
美咲は首を横に振った。
「置いていけない」
「じゃあ、持っていって」
「……え?」
「私との思い出を、悲しみじゃなくて――」
ゆきの身体が光に包まれる。
「優しさとして持っていって」
美咲は涙を拭った。
「ゆき」
「うん」
「私はあなたを忘れない」
「うん」
「でも、あなたのために泣き続けたりしない」
ゆきは嬉しそうに笑った。
「それでいい」
「ちゃんと生きる」
「うん」
「健一と笑う」
「うん」
「もし、未来に何かが待ってるなら――」
美咲は涙を流しながら笑った。
「怖がらずに進む」
ゆきは頷いた。
「約束だよ」
「約束」
ゆきが手を伸ばす。
美咲も手を伸ばした。
今度は――
触れられた。
ほんの一瞬。
小さな手の温もり。
「……ママ」
「うん」
「大好き」
「私も」
ゆきの姿が、白い花びらへ変わっていく。
「さよなら」
「……さよなら、ゆき」
最後の一枚が、美咲の手のひらに落ちた。
白い花びら。
それを握りしめた瞬間――
時計が動き出した。
カチッ。
カチッ。
カチッ。
もう止まらない。
美咲は時計を見上げた。
そして気づく。
時計の文字盤の下に、今までなかった小さな文字が浮かんでいる。
『約束は、終わらない』
美咲は静かに笑った。
そのとき。
遠くから――
また、足音が聞こえた。
トン。
トン。
今度は、二人分。
一つは美咲の足音。
そしてもう一つは――
まだ見えない、誰かの足音だった。




