第13話 最後の一日
時計が十二時を指した。
その瞬間、美咲の胸の奥で、何かがほどけた気がした。
「……十二時」
止まっていた時間が、動いた。
それだけのことなのに。
美咲には、それが新しい一日の始まりのように思えた。
*
その日は、健一と久しぶりに二人で出かけた。
目的地なんて決めていない。
車に乗ってから、健一が聞いた。
「どこ行く?」
「……どこでもいい」
「それが一番困るんだけど」
健一が笑った。
美咲も笑った。
「じゃあ、海」
「急だな」
「海が見たい」
「了解」
車は走り出した。
しばらく二人とも黙っていた。
以前なら、その沈黙が怖かった。
「子どもができない」
その事実が、二人の間に壁を作っていたからだ。
でも今日は違った。
窓を開ける。
風が入ってくる。
美咲は目を閉じた。
「気持ちいいね」
「うん」
「こういうの、久しぶり」
「……そうだな」
健一がハンドルを握ったまま笑った。
*
海に着くと、美咲は砂浜を歩いた。
波の音。
潮の匂い。
遠くを飛ぶ鳥。
何も特別なことはない。
それなのに、不思議なくらい穏やかだった。
「美咲」
「ん?」
健一が少し離れたところから呼んだ。
「これ」
手には、小さな青いリボン。
「……!」
美咲の顔から笑顔が消えた。
「どうして、それを?」
「家にあった」
「……」
「君が持ってた箱の中に」
美咲は黙ってリボンを受け取った。
夢の中で見たもの。
あの少女。
そして、湖の向こうにいた男の子。
「健一」
「ん?」
「もし……」
美咲は言葉を選んだ。
「もし、あの子が生きていたら、どんな子になってたと思う?」
健一は海を見つめた。
しばらく答えなかった。
「……分からない」
「うん」
「でも」
健一は少し笑った。
「きっと、君に似てたんじゃないかな」
「私?」
「泣き虫で」
「失礼」
「頑固で」
「もっと失礼」
「でも、優しい」
美咲は笑った。
「……健一に似てるところは?」
「俺?」
「うん」
「ないだろ」
「あるよ」
「どこ?」
「不器用なところ」
「それ、褒めてる?」
「たぶん」
二人で笑った。
その瞬間。
美咲はふと思った。
――これが、ゆきの願いだったのかもしれない。
子どもがいなくても。
こうして二人で笑えること。
それだけでいい。
そう思える自分が、少しだけ不思議だった。
*
帰宅した夜。
美咲は久しぶりに日記を書いた。
五年前には書けなかったこと。
夢の中でゆきに会ったこと。
言われた言葉。
そして今日、健一と笑ったこと。
最後に一行だけ書く。
『私は、もう自分を責めない』
ペンを置いた。
涙が一滴、紙に落ちた。
そのとき――
時計が鳴った。
十二時。
美咲は顔を上げた。
「……また?」
時計の針は正常に動いている。
カチッ。
カチッ。
もう止まらない。
けれど。
部屋の隅に、白い光が浮かんだ。
「……え?」
光は少しずつ形を変えていく。
少女の姿になる。
「ゆき……?」
少女は微笑んだ。
「ママ」
「まだいたの?」
「うん」
「どうして?」
「最後のお別れをするため」
美咲の胸が締めつけられた。
「……嫌」
「ママ」
「まだ、話したい」
「うん」
「もっと一緒にいたい」
「私も」
少女は美咲の隣に座った。
「でも、もう大丈夫だから」
「何が?」
「ママは、一人でも歩けるようになった」
美咲は黙った。
「前は、私に会わないと前に進めなかった」
「……うん」
「でも今は違う」
少女は美咲の手を握った。
「ママにはパパがいる」
「うん」
「そして――」
少女は窓の外を見る。
夜空。
その向こうに、何かを見つめているようだった。
「これから出会う人もいる」
「……あの男の子?」
少女は答えなかった。
ただ、優しく笑った。
「ママ」
「なに?」
「私のことを、悲しい思い出にしないで」
「約束する」
「それから……」
少女の身体が、少しずつ光に変わっていく。
「もし、いつか男の子に会ったら――」
美咲は息を止めた。
「その子にも、ちゃんと笑ってあげて」
「……分かった」
「私の分まで」
「……うん」
少女が微笑む。
「じゃあね、ママ」
「ゆき……」
「大好き」
美咲の目から涙が溢れた。
「私も……大好き」
少女の姿が消えていく。
最後に残ったのは――
小さな白い花。
そして。
少女が消えた場所から、青い光が一つだけ飛んでいった。
窓の外へ。
美咲はそれを見つめた。
青い光は夜空の向こうへ消えていく。
その直後。
庭のどこかから――
小さな足音が聞こえた。
トン。
トン。
トン。
美咲は窓を開けた。
誰もいない。
けれど、足元には――
見覚えのない、小さな青い靴跡が二つ。
美咲は息を呑んだ。
そして遠くから。
男の子の声がした。
「……まだだよ」
その声は――
昨日より、ずっと近かった。




