第九章 山側の町
翌朝、春口を出る列車は、海を離れるにつれて少しずつ音を変えた。
最初のうちは、いつものように防波堤と倉庫と小さな港の脇をかすめるように走っていた線路が、二駅、三駅と進むうちに山の裾へ寄り始める。窓の外から潮の白さが減り、代わりに斜面の畑や冬枯れた木立ちが増えていく。せとうちの本土側では、ほんの少し内陸へ入るだけで空気の組成が変わるのだと、湊は改めて思った。海の匂いが消えるわけではない。だが直接肌へ触れていたものが、一枚向こうへ引く。
春口を起点にしてばかりいると忘れそうになるが、この地方の暮らしは海だけでできているのではない。島を出た人々の多くは、こういう“山側の町”へ住み着き、海を見ない日常の中で、それでも便の感覚だけを身体に残していくのだろう。
汐里は窓際で、膝の上に小さな手帳を広げていた。
今日会う相手――宮川から連絡のあった人物――の住所と、列車・バスの接続時間、それから帰りの便の目安が細く整った字で書かれている。
湊はその頁を見て、澄江の帳面を思い出していた。
春口で呼ばれる名と、島で呼ばれる名のあいだに海がある。
船に乗るたび、どちらへ寄るのか少し遅れる。
遅れるたび、戻れなくなる。
今日の移動は海を渡らない。だがそれでも、島を出た人の記憶のほうへ向かう以上、やはり“帰り方”の問題を抱えている気がした。
「眠れましたか」
湊が訊くと、汐里は手帳から目を上げた。
「前よりは」
「箱を見つけたあとに比べると?」
「ええ」
「少し落ち着いた」
「落ち着いたというより、方向が見えた感じです」
「方向」
「母がどこから来て、どこへ向かおうとしていたのか、少しだけ」
その言い方は、第三作のここまでをそのまま言い表しているようだった。
第一作は春口の中で父の背中を追う話だった。
第二作は夏の船着場で会えなかった時間を引き取る話だった。
第三作は、ようやく人が“どこから来たのか”を本格的に問うている。
澄江は春口の人である前に、島の家名を持つ人だった。
その出発点が見え始めると、春口での沈黙もまた違う角度から見えてくる。
隣町の駅で降り、そこからバスに乗り換える。
バスは海から離れるように山沿いの道を上がっていった。
道の両脇には、新しくはない住宅が続いている。平屋と二階建ての家、柑橘の木が一本だけ残された庭、風で色の抜けた物干し台。
地方の“定住した町”の風景だった。
春口や島のように、海と便の気配が直接人の顔へ出てくる感じはない。
だが、ここに住んでいる人々の中には、かつて毎日のように港と渡し場を使っていた者も多いのかもしれない。
海から離れたからといって、海の記憶が消えるわけではない。
むしろ、見えないぶんだけ、身体の奥へ沈むこともある。
バスを降りた先は、坂の多い住宅地だった。
小さなスーパー、閉じたクリーニング店、曲がり角ごとに立つ電柱。
遠くに山が見え、その向こうに海があるのかもしれないが、ここからは分からない。
宮川が教えてくれた住所を辿ると、古い団地の端に、小さな一軒家があった。
門柱に表札はなく、代わりに郵便受けにだけ「坂井」と書かれた紙が差してある。
呼び鈴を押すと、しばらくして戸が開いた。
出てきたのは八十前後と思われる女だった。
背は伸びているが痩せており、眼鏡の奥の目は思いのほか強い。
こちらを一度見て、まず汐里へ目を止める。
「三崎さんとこの」
「はい」
汐里が答える。
「三崎汐里です」
「そう」
女は頷いた。
「顔立ちに、お母さんのほうがあるね」
その一言に、汐里の肩がわずかに揺れた。
家の中へ通される。
小さいがよく整った部屋だった。
海の匂いはしない。代わりに、乾いた畳と古い箪笥の匂いがある。
壁際には島の風景画が一枚だけ飾られていた。
その一点だけが、この家の暮らしの背後に“向こう側の景色”がまだあることを示しているようだった。
「私は坂井文江です」
女は座布団を出しながら言った。
「昔、澤井の本家のすぐ隣にいた」
「隣」
湊が繰り返す。
「ええ。いまはもう、あっちの家並みもだいぶ崩れたろうけど」
文江は急須に茶を淹れた。
手の動きはゆっくりだが、迷いがない。
こういう人は、言葉もまた必要なところまでしか伸ばさないだろうと湊は思った。
「宮川さんから」
汐里が切り出す。
「母のことを、少し伺いました」
「澄江ちゃんのことね」
「はい」
「あなたのお母さんは、島の名を忘れたかったわけじゃなかったよ」
文江は前置きのようにそう言った。
「そこを先に言っておく」
その一言だけで、汐里の顔つきが少し変わった。
澄江は忘れたかったのではない。
第一作から第三作にかけて、何度も見えてきたことが、また別の口から繰り返される。
人は、自分の過去の側にあるものを消したくて黙るのではなく、消したくないのに抱えきれなくて黙ることがあるのだ。
「澄江ちゃんはね」
文江が続ける。
「島を出る前から、千紘ちゃんのことを気にしていた」
部屋の空気が、そこで少しだけ張った。
「母が、島を出る前から?」
汐里が訊く。
「ええ」
「千紘はやっぱり、島の……」
「親類筋だよ」
文江は言った。
「はっきり“姉妹”とか“従姉妹”とか、そういう言い方をせんだけで、小さい島ではみんな少しずつ親類みたいなもんだ。でも、澄江ちゃんにとっては“島の子”というだけじゃなかった」
「じゃあ」
湊が前のめりになる。
「千紘は澤井の家に関係していた?」
「ええ。預かりの形で出入りしていた時期がある」
「預かり」
「親の事情でね。島と本土のあいだを動く子だった」
白い帽子の少女。
第一作で見えていた輪郭が、いまやっと生活の中に降りてくる。
千紘は、ただ夏の港で待たされたいつかの少女ではない。
島の家筋の中を動き、親類預かりの形で本土と島を行き来した子どもだった。
澄江にとって、その子は単なる“気になる子”ではなく、自分の島側の人生と切り離せない存在だったのだろう。
「母は」
汐里の声が少し低くなる。
「千紘と一緒に島を出たんですか」
「そこがな」
文江はゆっくり首を振った。
「一緒、ではない。だから後に残るんだよ」
「……」
「澄江ちゃんのほうが先に春口側へ移るようになって、千紘ちゃんはまだ親類預かりの形で島と本土を行き来していた」
「では、あの夏」
湊が言う。
「春口で千紘が待たされていたとき、澄江さんはすでに“島から先に出た側”だった」
「そうなるね」
その構図は、痛いほど理解できた。
澄江は千紘と同じ側の子どもではなく、先に別の岸へ渡った側だった。
だからこそ、一緒に待つこともあったが、最終的には“先に引き取られる側”になりやすい。
第一作で見えていた「自分だけ先にどこかへ引き取られた感覚」の背景には、そういう島と本土の家筋の力学まであったのだ。
「それで母は」
汐里が少し息を整えてから続ける。
「島の名で呼ばれると、戻ってしまいそうだった」
「ええ」
文江は頷く。
「戻ってしまえば、自分が先に向こうへ渡った側だということも全部戻ってくるから」
「……」
「けど、呼ばれないままだと千紘ちゃんを置いてきたようでつらい。あの子らしいよ」
文江の口から出る“あの子らしい”には、長い年月の後でも消えない親しみがあった。
澄江はここでも、責められるだけの人でも、美化されるだけの人でもない。
島の人たちにとっては、やはり具体的な一人の娘だったのだ。
「手紙のことは」
湊が訊く。
「誰が書いた可能性が高いと思いますか」
文江は少し考え、しかし曖昧に濁さなかった。
「亮介さんだろうね」
「……」
汐里も湊も黙った。
「見たわけじゃない。でも、あの頃に澄江ちゃんへ書く人間がいるとしたら、あの人くらいだった」
「母に?」
汐里が訊く。
「ええ。春口へ移って、千紘ちゃんのこともあって、言いたいことのある人間なら」
父は、やはり一度は出したのかもしれない。
届かなかった手紙を。
澄江はその可能性を知り、だから島へ確認に来た。
そして中身ではなく、「たしかに向けられた言葉があったかもしれないこと」だけを持って春口へ戻った。
第三作の中心が、ここでようやく一つの形を取り始めている気がした。
「でも」
文江がさらに言う。
「澄江ちゃんは、その手紙が届いたとしても、返事は出せなかったと思う」
「どうしてですか」
湊が訊く。
「返事を書いたら、自分がどちらの名で書くのか決めなきゃいけないから」
「……」
「澤井の名か、三崎の名か。島の側の言葉で書くのか、春口の側の言葉で書くのか」
「それは」
汐里が小さく言う。
「たしかに母には、重すぎたかもしれません」
「ええ。だから、届かなかったほうがあの子らしかった、と言えば、ひどいかもしれないけど」
文江は湯呑みを持ち上げた。
「このへんの人間は、そういうふうにしか生きられないことがある」
その言い方は残酷でありながら、妙にやさしかった。
届かなかったほうがあの子らしい。
それは美しい運命論ではない。
名も家も帰り先も複数ある土地で、人が一つに決めきれないまま生きるしかなかった現実の言い換えなのだろう。
話を終えて文江の家を出るころ、日は少し傾いていた。
山側の町の午後は、海辺よりも早く影を深くする。
バス停へ向かう坂道で、汐里はしばらく何も言わなかった。
やがて、ぽつりと呟く。
「母、ずっと宙ぶらりんだったんですね」
「ええ」
湊が答える。
「島の名でもなく、春口の名でもなく」
「でも、どちらでもあった」
「そうですね」
「私、そのことを今まで“弱さ”だと思っていたかもしれない」
「……」
「決めきれない人なんだって。でも違うのかもしれない」
「違うと思います」
湊は言った。
「決めきらないことでしか守れないものもある」
「千紘のこととか」
「ええ。島の名も、春口での暮らしも、どちらか一方を完全に嘘にしないために」
バスの窓から見える山の斜面は、冬の薄い光を受けて静かだった。
海は見えない。
それでも二人の会話の中心には、ずっと海があった。
島の名。
旧姓。
届かなかった手紙。
帰れない人々。
第三作は、海を直接見ない場所に来てもなお、海の条件を人の中に残し続ける物語になっていた。
春口へ戻る列車の中で、湊は窓に映る自分を見た。
第一作で父の手紙に引かれていた頃よりも、顔つきが少し変わっているような気がした。
答えを急ぐ顔ではなく、複数のまま残るものを、そのまま抱えようとする顔。
それが成熟なのかどうかは分からない。
ただ、春口を行き来するうちに、自分の中にも“決めきらなさ”を許す場所が少しできたのだろう。
宿へ戻ると、港の灯りがいつもより温かく見えた。
海は見えないが、島影の先から来る風だけが、町の路地を細く通っている。
春口は今日も、どこかの島や町から戻ってくる人を待つ港であり、同時に、戻れないままの名を抱えて生きる人の暮らしの場所でもあった。
夜、ノートに湊はこう書いた。
――帰れない名とは、失った名ではない。
――二つの岸のあいだで、どちらにも捨てられなかった名だ。
――澄江は島の名を捨てられず、春口の名を嘘にもできなかった。
――だから届かなかった手紙さえ、彼女にとっては一つの真実だったのだろう。
――この土地では、返事が出ないこともまた、沈黙のかたちをした応答なのかもしれない。
書き終えたあと、遠くで汽笛が鳴った。
海と鉄道の音は、夜になるといつも少しだけ似る。
その似方の中に、湊はせとうちの本当の時間がある気がした。
どこかへ向かい、どこかへ戻り、そして少しずつ行き違う。
その行き違いを抱えたまま、人は翌朝も同じ港へ出る。
第三作の終着はまだ見えない。
だが、ようやく“帰れなさ”の根に触れ始めていることだけは、たしかだった。




