第十章 島影のむこうの家
文江の家から戻ってきた夜、春口の風はひどく澄んでいた。
冬が深まると、海の匂いは薄くなるかわりに、空気の奥行きだけが増すことがある。港の灯りの向こうにあるはずの島影は見えないのに、見えないままそこに並んでいる感じだけはよく分かる。路地の角を曲がると冷たい風がまっすぐ通り、どこかの家の夕餉の匂いが一瞬だけ混じって消える。春口の夜は静かだ。だが、その静けさは何も無いからではなく、見えない先にいくつもの生活が折り重なっているからこそ成り立っているのだと、湊は最近になってようやく理解し始めていた。
帳場の灯りの下で、汐里はしばらく母の箱を見つめていた。
箱の中身は変わらない。
書きかけの便箋。
古い封筒。
小さな白い布切れ。
けれど、それらが何を意味するのかは、この数日のあいだに静かに変わっていた。
最初は、母の秘密のように見えた。
次には、届かなかった手紙の痕跡になった。
そして今は、母が島の名と春口の名のあいだで生きた証のように見える。
「母は」
汐里がぽつりと言った。
「私に、この箱をどうして残したんでしょうね」
「未来のため、かもしれません」
湊が答える。
「未来?」
「自分では決めきれないことを、次の世代に渡したかったとか」
「ひどい話ですね」
汐里は少し笑ったが、その笑いは乾いていなかった。
「でも、分かる気もします」
「ええ」
「母一人では、島の名も春口の名も整理しきれなかった。だから私に渡した」
「あるいは」
「あるいは?」
「自分の娘なら、どちらか一方だけを悪くしないで受け取ってくれると思ったのかもしれません」
汐里はしばらく答えなかった。
やがて、静かに箱の蓋を閉じる。
「そうだとしたら」
彼女は言う。
「母は、私のことを少し信じていたんですね」
「たぶん」
「その信じ方が、母らしいです。何も説明しないで置いていくところまで」
その一言に、湊は思わず少し笑った。
澄江は最後まで澄江なのだろう。
説明しない。
だが、何も無いまま消えもしない。
箱を置く。
手記を残す。
行き先のはっきりしない一通を確かめに島へ行く。
そのどれもが、沈黙の人間にできるぎりぎりの応答だったのかもしれない。
翌朝、汐里は一つの提案をした。
「島へ、もう一度行きたいです」
「宮川さんのところへ?」
「ええ。でも、それだけじゃなくて」
「では」
「澤井家の跡を見たいんです」
その言葉には迷いがなかった。
これまでの汐里は、母の過去へ近づくとき、どこか一歩引いた姿勢を保っていた。
知りたい。
だが一気に知りすぎるのは怖い。
その慎重さは今も変わらないだろう。
けれど、もう“ただ知らずにいる”ほうへ戻る気はないのだと、その声音から分かった。
「行きましょう」
湊はすぐに答えた。
「寒いですよ」
「構いません」
「歩くことになります」
「それも」
「……ありがとうございます」
汐里は、ほんの少しだけ視線を落として言った。
冬の便は相変わらず少なかった。
春口から列車に乗り、海沿いの停留所で降り、小型船で志々島の外れへ渡り、さらに渡しを乗り継ぐ。
この数日で、その接続は身体に少しずつ馴染み始めていた。
馴染む、ということは恐ろしいことでもある。
最初はただ不便だと思っていた便の少なさや待ち時間の長さが、あるところから先では「それがこの土地の生活の速度なのだ」と受け入れられていくからだ。
湊は、自分の中にそうした変化が起きていることを自覚していた。
春口は単なる旅先ではなくなり、島々への接続点として身体の中に地図を作り始めている。
島に着くと、宮川は港には来ていなかった。
代わりに、昨日とは別の男が待っていた。
六十代の半ばくらい。作業着の上に厚い上着を羽織り、顔の色は風に晒されたように赤い。
「宮川さんに頼まれて」
男は言った。
「澤井の跡まで案内します」
「ありがとうございます」
汐里が頭を下げる。
「あなたは」
「浜崎です。この島で生まれて、志々島に移って、今はまたこっちを見に来たり来なかったり」
説明になっているようで、なっていない。
だが島の人の自己紹介というのは、たいていそんなものなのだろう。
澤井家の跡は、港から少し上がった斜面の途中にあった。
家はもう無い。
石垣だけが残り、地面には古い井戸の跡らしき丸い窪みがある。柑橘の木が一本だけ立っていて、枝には冬を越した実がいくつか残っていた。
そこが“家の跡”だと分かるのは、単に人が住んでいた空間の平らさが残っているからだ。
家が消えても、生活の水平だけはしばらく土地に残る。
そのことが、湊には妙に痛かった。
「ここが」
汐里が小さく言う。
「ええ」
浜崎が頷いた。
「昔はもう少し賑やかだった。人も子どももおったし、港へ下りる荷もあった」
「澄江さんも」
「もちろん」
「千紘も?」
「時期によるな。おったり、おらんかったりや」
その言い方が、千紘の人生そのものを表しているように思えた。
いつもここにいるわけではない。
いることもあるし、いないこともある。
島と本土のあいだを行き来し、大人の都合で置き場所を変えられる子ども。
待つことに慣れていたのも、そういう背景があったからなのだろう。
汐里は石垣の前にしばらく立っていた。
何かを見ようとしているのではなく、立っていることでしか受け取れないものを待っている姿に見えた。
湊は少し離れて、周囲の風景を眺めた。
島の斜面。
海の見える角度。
港への道。
ここからなら、家の人間が港へ下りる姿も、逆に港から戻ってくる姿も、だいたい分かるだろう。
春口と同じだ。
この土地には、港や駅そのものだけでなく、それを見下ろす斜面や途中の道にも、人の待ち時間が染みついている。
「澄江ちゃんは」
浜崎が、汐里ではなく海を見ながら言った。
「春口へ行ったあとも、完全に“向こうの人”にはならんかったよ」
「どうしてそう思うんですか」
湊が訊く。
「戻ってきたときの立ち方で分かる」
「立ち方」
「島の人間は、港へ出るときと、港から戻るときとで足の向きが違う」
「……」
「澄江ちゃんは、戻ってきてもいつも“また出る人の立ち方”をしてた」
その表現に、汐里が振り向いた。
そして何かを飲み込むように目を伏せた。
「母は」
「ええ」
「島へ帰ってきたんじゃなくて、寄っていたんですね」
「たぶんね」
浜崎は言った。
「春口が家になったあとでも、島は切れん。けど、島へ戻ればそのまま落ち着けるわけでもない。そういう立ち方やった」
また出る人の立ち方。
それは澄江だけでなく、このシリーズの多くの人物に共通しているのかもしれない。
父も、春乃も、佐和子も、完全にそこへ落ち着くためではなく、何かを抱えたまま途中に立ち寄る人たちだった。
春口も島も、彼らにとっては“立ち寄りながら離れきれない場所”だったのだ。
石垣の端に、古い木の杭が半ば埋もれていた。
浜崎がそれを足で少し掘り起こし、「昔の郵便受けの柱かもしれん」と言った。
湊は思わず身をかがめる。
錆びた金具が残っている。
ここに、旧姓宛の手紙が届いたのかもしれない。
届いて、本人不在で、転送保留になった。
紙は、人より少し遅れてこの家へやってきて、そしてここにはもうその名の主がいなかった。
「春口へ出ていく人って」
湊が浜崎に訊く。
「どういう気持ちなんでしょう」
「人による」
浜崎はすぐに答えた。
「そりゃそうですけど」
「ただ、一つだけ言えるのはな」
彼は海の方を顎で示した。
「向こうへ出たからといって、島が消えるわけじゃない。便の本数が減っても、家が崩れても、人の中には残る」
「……」
「だから、手紙一通でまた引き戻されることもある」
その言葉を聞いて、湊は父のことを考えた。
父にとって春口は、戻り続ける場所だった。
澄江にとって島は、完全には切れない場所だった。
では自分にとっての春口は何になるのだろう。
今はまだ、その答えを急がなくていい気がした。
第三作の途中では、むしろ“複数の帰り先を持つこと”そのものを受け取るほうが大事なのかもしれない。
しばらくして宮川も坂を上がってきた。
寒そうに肩をすくめながら、汐里を見て言う。
「見たかい」
「はい」
「どうだった」
汐里は少し考えてから答えた。
「母がいた場所、というより」
「うん」
「母が“戻りきれなかった場所”でした」
宮川は目を細め、それからゆっくり頷いた。
「そうだろうね」
その返し方は、慰めでも否定でもなく、ただ長い時間を見てきた人の静かな同意だった。
帰り道、港へ下りる途中で、汐里が不意に足を止めた。
振り返ると、石垣と柑橘の木が、冬の薄い光の中で小さく見える。
彼女はしばらくそこを見てから、言った。
「私、母のことを“春口に残った人”だと思っていました」
「ええ」
「でも違いましたね」
「どう違いますか」
「春口に残ったんじゃなくて、春口を生きるしかなかった」
「……」
「島の名も持ったまま」
その言葉は鋭かった。
選んだ、というより、生きるしかなかった。
それは澄江を可哀そうな人として固定する言い方ではない。
むしろ、その時代と土地の条件の中で、彼女が取り得たもっとも現実的な生き方を認める言い方だった。
風待ちの渡し場で船を待つあいだ、空は少し曇ってきた。
風がまた強まりそうだ。
ベンチに座っていると、海の表面が少しずつ細かく荒れていくのが見える。
船は予定より遅れた。
今日は風待ちが長い。
けれど、その待ち時間が不思議と苦ではなかった。
汐里も黙って海を見ている。
この数日で、二人は“待つことそのものが持つ時間”に少し慣れてしまったのかもしれない。
「母も」
汐里が言った。
「こういうふうに、何度も便を待ったんでしょうね」
「ええ」
「島に向かう便も、春口へ戻る便も」
「そうだと思います」
「そのたびに、自分がどちらへ帰る人なのか少しずつ分からなくなったのかもしれない」
「でも」
湊が言う。
「その分からなさごと、お母さんだったんでしょうね」
「……はい」
船が来る。
冬の海の上を、小さく、しかし確実に。
湊はその姿を見ながら、第三作の終わりが少しずつ近づいていることを感じた。
父の手紙。
春乃の絵葉書。
澄江の箱。
千紘の白い布。
どれも届かなかったり、出されなかったり、半端に止まったものばかりだ。
それでも、それらは人の人生を変えてしまうほどには存在していた。
せとうちとは、そういう“届ききらないものの重さ”をよく知っている土地なのだろう。
春口へ戻る最後の列車の窓から見えた海は、ほとんど夜の色だった。
だが、島影だけはまだ薄く分かった。
見えないものの輪郭だけが残る。
それが、このシリーズの人物たちにも似ていると湊は思った。
誰も完全には分からない。
けれど、輪郭だけは確かに残る。
それを辿ることでしか、人は自分の帰り先を少しずつ知れないのかもしれない。




