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潮待ちのレール ― 島影をわたる風 ―  作者: たむ


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第十一章 帰り先のない地図

 春口へ戻った夜、湊はしばらく自分の部屋の灯りをつけないまま、窓際に立っていた。


 窓の向こうには、もう海は見えない。

 港の灯りがいくつか低い位置で滲み、そのさらに向こうに黒い空の厚みがあるだけだ。

 だが、見えないからといって海が消えたわけではないことを、湊はもう何度も学んでいた。

 島影も、消えた航路も、旧姓で呼ばれる家も、届かなかった手紙も、夜の中ではいったん輪郭を失う。

 それでも翌朝になれば、また別の角度からそこに現れる。

 春口で暮らすとは、たぶんそういうことなのだろう。

 見えなくなったものを無いことにせず、次に見えるまで抱えたまま過ごすこと。


 部屋の机には、ここ数日の断片が増え続けていた。

 宮川の記憶。

 澤井家の名。

 島の名で呼ばれることを恐れた澄江の手記。

 白い布切れ。

 文江の証言。

 “また出る人の立ち方”。

 それらはまだ一つの物語になっているわけではない。

 むしろ、物語にしてしまうとこぼれ落ちるもののほうが多い気がした。

 だが、地図にはなり始めている。

 帰り先のない地図。

 あるいは、帰り先が一つではない人々のための地図、と言ったほうが近いかもしれなかった。


 階下へ下りると、居間にはまだ灯りがついていた。

 汐里が帳場の脇で、母の箱の中身を一度だけ並べ直している。

 便箋、封筒、白い布、木札。

 どれも小さい。

 それなのに、そこへ宿る時間はあまりに重い。


「まだ起きていたんですね」

 湊が言うと、汐里は顔を上げた。

「ええ。少しだけ」

「眠れなさそうですか」

「逆です」

「逆?」

「今なら眠れそうなので、その前に並べておきたくて」


 その感覚は、湊にも少し分かった。

 本当に重いものを受け取ったあとの夜、人は逆に眠れることがある。

 理解したからではない。

 ただ、それがどこにあるのかだけが定まったからだ。

 曖昧なまま宙に浮いていたものが、重さを持って机の上に置かれる。

 それだけで、身体は少し休んでいいと判断するのかもしれない。


 湊は、向かいに座った。


「汐里さん」

「はい」

「お母さんのこと、前より少し近くなりましたか」

 彼女はすぐには答えなかった。

 白い布を指で軽く押さえ、それから言う。


「近くなったというより」

「ええ」

「母が“母だけの人”じゃなかったと分かりました」

「島の人でもあり、春口の人でもあった」

「はい。それに」

「それに?」

「千紘のことを抱えた人でもあった」

「……」

「私はずっと、母は春口で病気になって、そこで終わった人みたいに思っていたんです。でも違った」

「ええ」

「島から来て、春口で生きて、島を捨てきれず、春口にも完全には安住できず、それでも私を産んで、宿を支えていた」

「そうですね」

「そういう“途中のままの人”だった」


 途中のままの人。

 その言い方に、湊は深くうなずいた。

 第一作からずっと、このシリーズの人物はみな途中にいる。

 父は千紘を見失った夏の途中に留まり、春乃は会えなかった港の午後に留まり、澄江は島の名と春口の名のあいだに留まった。

 そしておそらく、自分もまた、完全に東京の側へ戻りきらない途中の人間になり始めている。


「母を、かわいそうだと思う気持ちはあります」

 汐里が続けた。

「でも、それだけで終わらせるのは違う気がします」

「どうして」

「かわいそうだと言うと、母の選んだものまで奪ってしまうから」

「選んだもの」

「ええ。春口で生きること。島を忘れないこと。千紘を忘れないこと」

「……」

「全部うまくはいかなかった。でも、母はただ流されたわけじゃなくて、その中で残すものを選んでいたんだと思います」


 その言葉は、澄江をようやく一人の人間として受け止めた者の声だった。

 悲劇の中心ではなく、選び損ねながらも選んでいた人。

 島の名を捨てず、春口の暮らしも捨てず、その両方にひびを抱えながら生きた人。

 第三作で汐里が掴み始めているのは、その複雑さなのだろう。


 翌朝、春口はまたいつものように始まった。

 港には朝の船が入り、駅には通学の子どもが集まり、宿では朝食の湯気が立つ。

 だがその穏やかな始まりの中で、湊には一つだけはっきりしていることがあった。

 第三作は、もう“澄江の旧姓を探る話”に留まらない。

 春口そのものが、帰り先を一つに決められない人々の中継地であったことを描く話へ変わっている。

 そして、その先には必ず千紘の不在がある。


 朝食のあと、汐里が言った。


「千紘のことを、母は最後までどう考えていたんでしょう」

「責めていた、ではないと思います」

 湊が答える。

「ええ」

「でも、置いてきた感覚は消えなかった」

「はい」

「島の名を呼ばれると、その感覚まで戻ってくる」

「だから怖かった」

「そうでしょうね」


 汐里は少しだけ迷ってから、続けた。


「母の帳面に、まだ一つ気になる言葉があるんです」

「どこですか」

 彼女は手帳の写しを開いた。

 後ろのほうの余白に、走り書きのような短い文がある。


 ――海の向こうに“家”がある人は、どこへ行っても帰り先を一つに決められない。

 ――そのことを、春口の人はよく知っている。


「春口の人はよく知っている」

 湊が読み上げる。

「ええ」

「つまり、お母さんだけじゃなかった」

「そう思います」

 汐里は頷いた。

「この町には、島から来た人、島へ嫁いだ人、島へ親類を残した人、そういう人がたくさんいたはずです」

「帰り先を一つに決められない人たち」

「はい」

「……」


 それは、春口という町の本質を言い当てているように思えた。

 第一作と第二作では、春口は“待たされた時間”が集まる町として見えていた。

 第三作で今、そこにもう一つの輪郭が加わった。

 春口は、帰り先を一つに決められない人々の港なのだ。

 島へ戻る者。

 島を出た者。

 島に親類を残す者。

 春口で新しい名を得た者。

 そうした人々が、海と鉄道の接続の上で暮らしてきた。

 だからこの町には、千紘のような子どもも、澄江のような女性も、父のような外から来た男も引っかかってしまう。


 昼前、湊は一人で春口の高台へ上がった。

 港と駅と、遠い島影が同時に見える場所。

 第一作で父の背中を少し知ったあの場所だ。

 冬の空気は澄んでいて、海の向こうにいくつもの島が薄く重なっている。

 見える。

 だが、そのどれがどの島で、そこへどう行くのかは、初めて来た人間には分からない。

 せとうちはいつも、見えることと届くことを一致させない。

 それがこの土地の美しさであり、残酷さでもある。


 高台から見下ろすと、春口の港は小さい。

 駅も、小さい。

 けれどその小ささの中に、どれだけ多くの便と家名と行き違いが積み重なってきたのか、今では少し想像できる。

 父はこの町で、待機継続という一行の冷たさを背負った。

 春乃は来たかった人と会えなかった午後を抱えた。

 澄江は旧姓の手紙と千紘の不在を抱えた。

 そのどれもが、春口では個人の悲劇であると同時に、土地の構造の一部でもある。


 湊はベンチに座り、ノートを開いた。

 書くというより、いま見えているものを置き直すために。


 ――春口は、帰る場所である前に、帰り先を一つに決められない人が立ち寄る港なのかもしれない。

 ――島を出た者、島に残した者、島の名を捨てきれない者。

 ――彼らは海と鉄道のあいだで、自分の名と家を少しずつ調整しながら生きる。

 ――だからここには、帰れない名が多い。


 書き終えて、顔を上げる。

 遠くで列車が通り、少し遅れて船の音がした。

 その二つの音の重なりが、いまは以前よりはっきり聞き分けられる。

 春口へ戻るたび、自分の身体がこの土地の時間に少しずつ馴染んでいる。

 それは嬉しさでもあり、微かな怖さでもあった。

 東京の人間としての自分は、まだここに完全に属していない。

 だが同時に、春口を“関係のない場所”として見ることももうできない。


 夕方、宿へ戻ると、汐里が帳場で母の箱を閉じたところだった。

 表情は朝より少し落ち着いている。


「何か決めましたか」

 湊が訊く。

「完全には」

「ええ」

「でも、この箱は母の部屋に戻すんじゃなくて、帳場の奥に置こうと思います」

「客室ではなく」

「はい」

「どうして」

「母だけのものでも、私だけのものでもなく、春口で受け継ぐものだと思ったからです」

「……」

「母が持っていた島の名も、春口で生きることを選んだことも、どちらもこの宿の時間の中にある気がして」


 その判断は、とても汐里らしかった。

 過去を祭壇に上げるのではなく、暮らしの近くに置く。

 見る人だけが見られる場所に。

 それは春口そのもののやり方でもあるのかもしれなかった。

 大きく語らない。

 だが、無かったことにもさせない。


 夜、二人で簡単な夕食をとったあと、湊はふと思って言った。


「第三作が終わるころには」

「はい」

「千紘のことも、もう少し別の見え方になるかもしれません」

「別の見え方」

「いなくなった少女、だけじゃなくて」

「島と春口のあいだを動かされた子」

「ええ」

「それ、たぶん大事ですね」

 汐里は箸を置いて言う。

「母にとっても、あなたのお父さんにとっても」

「そして僕らにとっても」

「はい」


 その夜、湊はノートの新しい頁に、これまででいちばん短い文を書いた。


 ――帰り先のない地図を、人は自分の中に持って生きる。


 それだけを書いて、しばらく眺めた。

 短いが、それ以上足せない気がした。

 第三作は、いよいよ終盤へ向かっている。

 島影の向こうの家。

 旧姓の手紙。

 春口に残る宿。

 それらをひとつの場所へまとめることはできない。

 だが、まとめきれないままでも、人は暮らし続ける。

 そのことを、春口はずっと前から知っていたのだろう。

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