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潮待ちのレール ― 島影をわたる風 ―  作者: たむ


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12/12

第十二章 風の帰るところ

 第三作の終わりに近づくころ、春口にだけ一日遅れて春の気配が来た。


 来た、といっても目に見えて暖かくなるわけではない。海風はまだ冷たく、朝の港には冬の名残が残っている。けれど、島影の輪郭がわずかにやわらぎ、光の底に硬い青ではないものが混じり始める。駅の花壇の土が少し湿って見え、港へ下る坂道の石にも、凍える季節とは違うゆるみが出る。せとうちの春は、一日で町を変えない。人が気づくより少し先に、風の帰る場所だけが変わっていく。


 その朝、湊は早く目を覚ました。

 障子を開けると、港の向こうに見える島影が、冬のあいだより少しだけ淡い。

 今日が帰る日だと、昨夜のうちに決めていた。

 東京の仕事も、もうこれ以上先送りにはできない。

 けれど、第一作や第二作の帰りと違って、今回は“まだ足りないまま帰る”感じがそれほど強くなかった。

 第三作で見えたものは、答えというより位置だった。

 澄江は島の名と春口の名のあいだに生きた人だった。

 千紘は島と本土の家筋のあいだを動かされた子だった。

 父の手紙は、そのあいだで届き損ねた可能性がある。

 それで十分だとは言えない。

 だが、物語の骨組みはもう、はっきり見えていた。


 階下へ降りると、汐里はすでに台所に立っていた。

 湯気の立つ鍋、焼き魚の匂い、味噌汁のあたたかさ。

 春口の宿の朝は、何度見ても同じように始まる。

 だが、その同じさの中へ、これまでの旅の重なりが少しずつ積もっている。

 第一作のころには他人の台所だった。

 第二作では、戻ってくることのできる場所になった。

 第三作の今は、この台所の湯気の向こうに、島の家名や消えた航路まで透けて見える気がする。

 暮らしと記憶は、ほんとうは最初から別々ではなかったのだろう。


「今日、戻るんですね」

 汐里が振り向いて言った。

「ええ」

「今度は、前より早く決めましたね」

「たぶん、帰る場所が東京だけじゃなくなってるからかもしれません」

「それ、どういう意味ですか」

 湊は少し考えた。

 言葉にすると簡単すぎる気がしたが、それでも今は言えそうだった。


「東京へ戻るのは、仕事や生活のためです」

「はい」

「でも、春口ももう“去る場所”じゃない」

「……」

「だから、どちらへ行くかを前ほど一つに決めなくていい気がするんです」

 汐里は湯呑みを並べる手を一度止めた。

「母みたいですね」

「そうでしょうか」

「ええ。でも」

「でも?」

「あなたは、母より少しだけうまくやれそうです」

「そうだといいですね」


 二人はそれ以上言葉を足さず、朝食を食べた。

 春の手前の朝の光が、障子越しに白く入っている。

 港のほうから、短い汽笛が聞こえた。

 その少しあとで、列車の音もする。

 海と鉄道。

 第三作のあいだ、その二つはますます“景色”ではなく、人の人生の条件として響くようになっていた。

 どちらか一方だけでは帰れない。

 どちらへも少しずつ属しながら、人は途中を生きる。

 それが、澄江や千紘だけでなく、この土地に関わる多くの人間の実際なのだろう。


 朝食のあと、汐里は帳場の奥に母の箱を納めた。

 見えるようで見えすぎない位置。

 日々の宿帳や釣り銭箱のすぐそばではないが、完全にしまい込む場所でもない。

 そこに置かれた箱は、祭壇のようには見えなかった。

 むしろ、この宿の時間の一部として自然にそこへ収まっていた。

 澄江の島の名も、春口での生も、千紘の白い布も、これからはこの宿の暮らしの近くで息をしていくのだろう。


「これでいい気がします」

 汐里が言った。

「はい」

 湊が答える。

「お母さんも、たぶん“しまい込まれる”のは望まなかったでしょう」

「そうですね。出しっぱなしも嫌がったと思いますけど」

「ええ」

「母らしい場所です」


 その言い方に、湊は笑った。

 澄江はもう、“亡くなった母”や“千紘をめぐる過去の当事者”という一面だけではなく、汐里にとって「らしさ」を持つ具体的な人に戻りつつあるのだろう。

 それは第三作で得たもっとも大きな変化の一つだった。


 出発まで少し時間があったので、湊は一人で春口の高台へ上がった。

 港と駅と、遠い島影が見える場所。

 第一作、第二作、そして第三作と、何度も来た場所だ。

 空気はまだ冷たい。

 だが風の向きが、冬のそれとは少し違う。

 島影の向こうからまっすぐ吹き込むのではなく、どこかで一度やわらいでから町へ入ってくる感じがする。

 風の帰るところが変わる。

 そういうことが、季節の変わり目にはある。


 ベンチに座り、海を見る。

 第一作でこの景色は、父の背中につながっていた。

 第二作では、春乃の待ち時間を遠くから見下ろす景色にもなった。

 第三作の今、この高台は、春口がただ一つの町ではなく、島々や名や家筋の交差点であることを教える場所に変わっていた。

 春口は、海へ開く線路の終点ではない。

 島影のむこうの家々と、戻れない名と、消えた航路の余波が集まる港だ。

 そして自分も、もうその“余波の外”にはいない。


 ノートを開き、湊は最後の頁に向かった。

 第三作に入ってから、何度も書いては消した言葉がある。

 帰れない名。

 帰り先のない地図。

 風待ちの渡し場。

 どれも間違ってはいない。

 けれど、今日書くべきなのは、もう少し先のことだと思った。


 しばらく考え、ゆっくりと書く。


 ――人には、ときどき帰り先が二つ以上ある。

 ――どちらか一方へ決めきれないからではなく、どちらも本当に生きた場所だからだ。

 ――春口は、その重なりを知っている町だった。

 ――海と鉄道のあいだで、人は名を変え、家を変え、それでも古い呼び名を完全には失わない。

 ――風の帰るところが季節ごとに変わるように、人の帰り先も一つではない。

 ――それでも、人はどこかで朝の湯気を見て、生きる場所を選び続ける。


 そこまで書いて、湊は手を止めた。

 父のことを思う。

 父は、春口を何度も訪れた。

 それは罪悪感のためだけではなかったのかもしれない。

 ここが、彼にとっても“帰り先を一つに決めなくていい場所”だったから。

 東京の家庭人でありながら、春口に待たされた時間を抱えた人。

 その二つのあいだで、ただ黙ることしかできなかった父。

 今なら、その不器用さも少しだけ分かる気がした。


 高台を下りるとき、春口駅のホームに列車が入ってくるのが見えた。

 海沿いの一両編成。

 変わらない音。

 だが、聞こえ方はもう以前と同じではない。

 レールの響きの向こうに、島の渡し場や消えた航路の気配まで重なって聞こえる。

 それが、第三作で自分の中に起きた変化なのだろう。


 宿へ戻ると、汐里が玄関先で待っていた。

 荷物はもうまとまっている。

 玄関脇のオリーブの葉には、冬を越した硬い緑が残っていた。


「行きますか」

 彼女が言う。

「ええ」

「今回は、長かったですね」

「そうですね」

「でも、必要な長さだった気がします」

「僕もそう思います」


 坂道を下るあいだ、二人は多くを話さなかった。

 春口駅へ向かうこの道も、今ではもう“別れの道”というだけではない。

 戻るための道でもあり、また来るための道でもある。

 その感覚が、第三作を通していっそうはっきりした。


 ホームに立つと、春の手前の風が少しだけ吹いた。

 冷たい。

 けれど、冬の終わりを含んだ風だった。

 汐里が海のほうを一度だけ見てから、湊へ向き直る。


「相沢さん」

「はい」

「母のこと、ありがとうございました」

「僕は、ただ一緒に便に乗っていただけです」

「それが大きかったんです」

「……」

「母の島の名を、私一人では受け止めきれなかったと思うから」


 その言葉を、湊は静かに受け取った。

 春口に来てから、自分は父の背中を知り、春乃の午後を見送り、澄江の旧姓に立ち会った。

 誰かの時間を完全に引き受けることはできない。

 だが、置き去りのままにしないために、隣にいることはできる。

 それが、このシリーズの中で自分に与えられつつある役割なのかもしれなかった。


「また戻ります」

 湊が言う。

「ええ」

 汐里は頷く。

「たぶん、そういう町ですから」

「春口は」

「はい。島影のむこうまで含めて」


 列車が入ってきた。

 春口を離れるたび、少しだけ自分の身体の位置が変わる。

 だが今は、その変化を以前ほど恐れていなかった。

 東京へ戻る。

 仕事がある。

 日常がある。

 それでも春口も、島の名も、届かなかった手紙も、自分の中から消えるわけではない。

 それでいいのだと、ようやく思える。


 車内に乗り込み、窓際へ座る。

 発車の合図。

 ホームがゆっくり流れ始める。

 赤い屋根の待合室。

 汐里の姿。

 その向こうに、港。

 さらに向こうに、見えない島影。

 見えないのに、そこにある。

 第三作の終わりにふさわしい景色だと、湊は思った。


 列車がカーブを曲がり、春口の町が少しずつ視界から外れる。

 それでも、海へ開く線路の先に、この町の続きがあることをもう知っている。

 第一作で父の背中を追い、第二作で会えなかった時間を見送り、第三作で帰れない名の地図を受け取った。

 春口は、そのたびに違う顔を見せた。

 だが根にあるものは同じだ。

 人が途中の時間を抱えたまま、それでも朝の湯気の立つ場所へ戻ってくること。

 海と鉄道のあいだで、そのことを静かに知っている町であること。


 窓の外に、瀬戸内の海がひらける。

 冬の終わりの光が、まだ冷たいまま水面を照らしていた。

 島影は淡く、そのあいだを風が見えないまま渡っていく。

 風の帰るところ。

 それは一つではない。

 人の帰り先も、また同じなのだろう。

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