第八章 帰れない名
箱が春口の宿に持ち帰られてから、数日、汐里は以前より静かになった。
もともと多くを話す人ではない。
それでも、これまでの沈黙は外へ向いていた。宿の仕事をし、客を迎え、必要なことを手際よくこなしながら、余計な言葉を足さない静けさだった。
今の静けさは少し違う。
もっと内側へ向いている。
母の箱の中にあった便箋と白い布切れが、彼女の中でまだ新しい位置を探しているのだろう。
それは悪い変化ではないと湊には思えた。人は本当に重いものを受け取ったあと、すぐにはうまく言葉にできない。ただ、その重みを身体のどこに置くかが決まるまで、少しだけ静かになる。
春口の冬は相変わらず淡々としていた。
港には毎日船が出て、列車も決まった時間に海沿いを通る。
夏のような観光客の姿は少ない。
代わりに、買い物袋を提げた老人や、作業着の男たちや、学校帰りの子どもたちが町の骨格を作っている。
湊はその風景の中で、第三作がこれまでの二作以上に“暮らしのほうへ近い”ことを感じていた。
父や春乃のように、一度の夏で切り取られた時間ではない。
澄江の旧姓、島の家名、婚姻や移動の履歴、届かなかった手紙。
それらはすべて、日々の便の上に乗ってゆっくり形を作ってきたものだ。
だからこそ、冬の速度がよく似合う。
箱を持ち帰った翌々日、汐里が朝食のあとに言った。
「今日、母の部屋を少し見直したいんです」
「箱のことと合わせて?」
湊が訊く。
「ええ。今までは、春口の中の物だけを探していました」
「でも、今は島の側も見えてきた」
「はい。母の持ち物の中にも、その痕跡があるかもしれない」
母の部屋は、第一作や第二作でも何度も入った。
箪笥、小箱、手記、写真。
だがそのときはいつも、春口駅、港、父、千紘という線から見ていた。
今度は違う。
澄江は島の名を持っていた。
島の家筋から春口へ移り、それでも旧い名で呼ばれることを恐れつつ捨てきれなかった。
その前提で部屋を見れば、同じ物でも違って見えるかもしれない。
障子を開けると、冬の白い光が畳に細く落ちた。
部屋は整っている。
汐里が少しずつ片づけを進めてきた成果だろう。以前よりも「死者の部屋」という感じが薄れ、一人の人が暮らしていた痕跡のほうが静かに残っている。
箪笥の引き出しを順に開けていく。
着物、帯、手紙、小さな化粧道具、写真。
そのどれもが春口での澄江の生活を示しているようでいて、今日はどこか別の土地の影も引いて見えた。
「これ」
汐里が、小さな布包みを取り出した。
包みの中には、古い名札のような木札が一枚入っていた。
黒く細い字で、「澤井」とだけ書かれている。
汐里も湊も、しばらくそれを見つめた。
「母、持っていたんですね」
「ええ」
湊が答える。
「しかも捨てずに」
「これ、旅館の名札じゃない」
「家の荷札か、昔の荷物札かもしれません」
「澤井……」
島の家名。
澄江は確かにその名を手元に残していた。
しまい込み、娘にも見せず、それでも捨てなかった。
島の名で呼ばれると戻ってしまいそうで怖い。
けれど呼ばれないままだと、あの子を置いてきたままになる。
その一文の意味が、木札一枚で急に現実味を帯びた。
さらに箪笥の奥から、古い帳面が一冊出てきた。
家計簿のようでもあり、簡単なメモ帳のようでもある。
澄江の字で、日用品の買い物や宿の備品のことが書かれている。
その中の何ページかにだけ、春口とは別の島名と便名が繰り返し出てきた。
――志々島まわり
――午後便
――澤井へ寄る
――戻り最終
――風強し
――見送るだけ
「見送るだけ」
汐里がその言葉を指でなぞる。
「母、何を見送っていたんでしょう」
「手紙か」
湊が言う。
「誰かか」
「あるいは、自分の旧い名のほうかもしれません」
「……そうですね」
帳面の後ろのほうには、もっと短い断片があった。
――春口で呼ばれる名と、島で呼ばれる名のあいだに、ちょうど海がある。
――船に乗るたび、どちらへ寄るのか少し遅れる。
――遅れるたび、戻れなくなる。
湊はその文を読み、胸の奥がひどく静かに痛んだ。
遅れるたび、戻れなくなる。
それは郵便にも、人にも、関係にも当てはまる。
ほんの少しの遅れ。
ほんの少しの躊躇。
それが積もると、人は元いた場所へそのままでは戻れなくなる。
第一作で父が背負ったものも、第二作で春乃が待ち続けたものも、結局は同じ構造の中にあったのだろう。
「相沢さん」
汐里が帳面から目を上げた。
「はい」
「母、ずっと二つの名のあいだにいたんですね」
「たぶん」
「春口の三崎澄江でいようとしながら、島の澤井の名も完全には消せなかった」
「ええ」
「それって、帰れないってことなんでしょうか」
湊は少し考えた。
帰れない。
このシリーズで何度も出てきた言葉だ。
けれど今の澄江に当てはめるなら、単純な不在とは違う。
「帰れない、というより」
ゆっくり言う。
「どちらか一方にだけ帰ることがもうできない、に近いかもしれません」
「どちらか一方に」
「島へ戻れば春口を捨てることになる。春口だけで生きれば、島の名と千紘を切ってしまう」
「……」
「だから、どちらにも完全には帰れない」
汐里は長く息を吐いた。
その息が、少しだけ震えていた。
「母、かわいそうですね」
「そうですね」
「でも、母だけが特別かわいそうなわけじゃない」
「ええ」
「こういう土地の人って、みんな少しずつそうなんでしょうか」
「そうかもしれません」
湊は答えた。
「島から出た人も、春口に残った人も、完全にはどちらか一つの側にいられない」
そのとき、階下で電話が鳴った。
汐里が「出ます」と言って部屋を出る。
湊は一人残り、帳面の続きを見た。
頁の隅に、小さな地図のような走り書きがある。春口の港と、島の入り江、それにそのあいだを結ぶ細い線。
地図というより、自分の中の距離感を書き留めたものに近い。
誰かが見ればただの落書きだろう。
だがその線の細さに、澄江の迷いそのものが出ている気がした。
太くもなく、断ち切れてもいない。
ただ、消えずに残る程度の強さで引かれている。
しばらくして戻ってきた汐里が言った。
「宮川さんじゃありませんでした」
「ええ」
「島から別の人です」
「別の?」
「澤井の家を知ってるという人」
湊は顔を上げた。
「どういう」
「宮川さんから、こちらが来たことを聞いたみたいで。春になる前なら、一度だけ会うと言ってるそうです」
「その人も島に?」
「今は本土側の別の町。でも、昔は志々島のさらに先に住んでいたらしいです」
「では」
「澤井家と千紘のこと、少し知ってるかもしれません」
第三作は、また一つ先へ進むらしかった。
澄江の旧姓と、千紘の位置が、ようやく同じ地図の上に載り始めている。
しかも、その証言者はもう島には住んでいない。
ここにもまた、帰れなさの別の形がある。
島を出た人が、本土側の町からかつての家名を語る。
せとうちの物語は、島の中だけでも、春口の中だけでも完結しないのだ。
午後、二人は会う約束のために、隣町へ出る段取りを決めた。
列車で二駅。
そこからバス。
海から少し離れた、山沿いの住宅地らしい。
島を出た人が本土側で暮らすなら、そういう場所も多いのだろう。
便を乗り継ぎ、最終的に山沿いへ着く。
春口と島のあいだだけでなく、さらに内陸へ伸びる移動。
第三作の世界はますます広がっていく。
夕方、湊は一人で春口駅へ行った。
ホームの先の海は、冬の夕方らしく早く色を失い始めている。
赤い屋根の待合室に入ると、木の匂いがいつもより濃かった。
長椅子に腰を下ろし、澄江の帳面の一文を思い返す。
――春口で呼ばれる名と、島で呼ばれる名のあいだに、ちょうど海がある。
――船に乗るたび、どちらへ寄るのか少し遅れる。
――遅れるたび、戻れなくなる。
それは、春口のほとんどすべてを言い表しているように思えた。
海は風景ではない。
名と名のあいだ、家と家のあいだ、本土と島のあいだに横たわるものだ。
そしてそこを渡るたび、人は少しずつどちらにも戻れなくなる。
戻れないからこそ、覚え続ける。
覚え続けるからこそ、また来る。
それがこのシリーズの人物たちの動きなのだろう。
列車が入ってくる音がして、湊は顔を上げた。
冬の列車は短く、静かにホームへ滑り込む。
見送る人も、乗る人も少ない。
だがその少なさの中で、一人ひとりの移動の重さだけが浮いて見えた。
この町では、移動はいつも生活であり、喪失であり、選択の先送りでもある。
宿へ戻ると、汐里が帳場で明日の時刻表を書き写していた。
細い字で、列車とバスの接続時間、戻りの便、最終の時刻。
その真剣な横顔を見て、湊はふと、澄江もこうして何度も便を書き写したのだろうと思った。
手紙を探しに行くために。
島の名のほうへ少しだけ寄るために。
そして、そのたびに自分がどちらの名の人間なのかを、決めきれないまま戻ってきたのだろう。
夜、ノートに湊はこう書いた。
――帰れない名、というものがある。
――捨てたのではなく、どちらにも決めきれないまま持ち続けた名。
――澄江は三崎の名で春口に生きながら、澤井の名を海の向こうへ置いてきたのではなかった。
――その二つの名のあいだに、ちょうど瀬戸内の海があった。
――人は、海を渡るたび、どちらにも完全には帰れなくなる。
書き終えたとき、遠くで船の音がした。
そのあと少し遅れて、列車の音も。
海と鉄道。
第三作の夜もまた、その二つが見えないまま続いていた。
そして湊には、その見えないあいだに、まだ知らない名と家の記憶がいくつも浮いているように思えた。




