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潮待ちのレール ― 島影をわたる風 ―  作者: たむ


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7/10

第七章 風待ちの渡し場

 翌朝の春口は、前日までの霧雨が嘘のように晴れていた。


 冬の晴天は、夏のそれとは違う。

 空の青は深くても熱を持たず、海の明るさもどこか硬質で、光そのものに輪郭がある。港に出ると、水面は細かく砕けたガラス片のように白く光っていた。昨日まで湿っていた岸壁も、乾く途中のまだらな色を残している。晴れているのに、暖かくはない。そういう日のせとうちは、見通しがきくぶん、かえって距離をはっきり感じさせた。島は見える。だが、その見えている島へ行くには、やはり便をつながなければならない。


 宮川から「見せるものを思い出した」と連絡があった以上、今日また島へ行かない理由はなかった。

 朝食を終えると、汐里は手早く支度を整えた。昨日よりも緊張しているように見える。宮川の話の続きが、母の過去にさらに深く触れるものだと分かっているのだろう。


「今日は風がありそうです」

 港へ向かう坂道で、汐里が空を見上げて言った。

「船、揺れますか」

「少し」

「それでも出るなら、助かります」

「冬の便って、そういう感じです。出るか出ないかではなく、出るけど簡単ではない」

「春口の話みたいですね」

 湊が言うと、汐里は少しだけ笑った。

「たしかに」


 列車も船も、昨日と同じ接続を辿る。

 春口駅を出る一両編成の列車。

 海沿いの停留所。

 小さな船着場。

 志々島の外れの渡し場。

 さらに先の小島。

 だが同じ移動でも、二度目になると風景の入り方は変わる。知らない場所へ向かう不安は薄れ、その代わり、そこで聞くことになるかもしれない話の重みのほうが前へ出る。

 湊は車窓から見える海を見ながら、第三作がこれまでの二作以上に「便そのもの」の物語になっていることを感じていた。

 人がどこに属していたか。

 どの家からどこへ移ったか。

 どの名で呼ばれていたか。

 そのすべてが、船と列車の接続の上に成り立っている。

 せとうちでは、人生そのものが移動の網の中で出来ているのだ。


 志々島の外れの渡し場に着くと、今日は風が昨日より強かった。

 海面は細かく波立ち、ベンチの脇の草が低く揺れている。

 待合と呼ぶにはあまりに簡素な壁だけの場所に立っていると、風を待つのか、便を待つのか、自分でも分からなくなる。

 そういうところだった。

 湊はこの小さな渡し場に、春口とも潮待ち浜ともまた違う種類の“途中”を感じていた。

 ここは決断の場所ではない。

 ただ、来る船を待ち、その風向きに従うしかない場所だ。

 その無力さが、島の暮らしの現実に近いのだろう。


「こういう場所、昔はもっとあったんですかね」

 湊が言う。

「たぶん」

 汐里がマフラーを押さえながら答える。

「でも、残るものと消えるものがあります」

「何が違うんでしょう」

「使う人がまだいるかどうか」

「それだけですか」

「それだけ、でもあります」

 彼女は海のほうを見た。

「名前が残るかどうかも、たぶん同じです」


 名前。

 旧姓。

 家名。

 便名。

 潮待ち浜。

 春口ではこれまで、名前が残るものと消えるものの違いを何度も見てきた。

 そして、名前が消えたからといって、時間まで消えるわけではないことも知った。

 この渡し場にも正式な駅名はない。

 けれど待つ身体の感覚は、たしかにここへ積もっている。


 船は予定より少し遅れて着いた。

 遅れといっても十分ほどだが、冬の島の便ではその十分が現実の厚みを持つ。

 船頭らしい男は乗客を見るなり「今日は風待ちしたからね」とだけ言った。

 風待ち。

 潮待ちに似ているが、少し違う。

 潮が満ちるのを待つのではなく、風の向きや強さが少し変わるのを待つ。

 せとうちでは、移動にはそういう待ち方もあるのだと、湊はあらためて思った。


「風待ちの渡し場、ですね」

 船に乗り込んだあとで湊が言うと、汐里は窓の外を見たまま頷いた。

「名前にしたら、ありそうです」

「このシリーズの中に」

「ええ」

「潮待ち浜より、もう少し小さい感じがします」

「でも、人の時間には同じくらい効きそうです」

「そうですね」


 小島に着くと、宮川は前回と同じように港へ下りてきていた。

 だが今日は杖をついていない。代わりに、両手で小さな布包みを抱えていた。

 こちらを見る目には、昨日より少しだけ迷いが少ない。見せるべきものを決めた人の顔だった。


「二度もすまないね」

 宮川が言う。

「いえ」

 汐里が答える。

「来ます」

「冬のうちでよかった」

 宮川はそれだけ言い、二人を家へ招き入れた。


 囲炉裏のない居間で、宮川は布包みをゆっくり解いた。

 中から出てきたのは、古い写真帳でも手紙でもなく、小さな木箱だった。

 桐ではなく、もっと簡素な白木の箱。

 長いあいだしまわれていたのか、木の表面に乾いた艶がある。


「これは」

 宮川が箱を撫でる。

「郵便局のものじゃない。私物だよ」

「……」

「澄江さんが三度目に来たとき、置いていったもの」


 汐里の手が、膝の上で小さく強張るのが見えた。

 母が置いていったもの。

 それがこの島に残っていた。


「どうして今まで」

 汐里がかすれた声で言う。

「返さなかったんですか」

「返せなかった」

 宮川は静かに答えた。

「そのとき澄江さんに、“もし娘さんが来たら、本人にだけ見せて”と言われたから」

「私に」

「そう」

「……」


 その一言だけで十分に重かった。

 澄江は、自分の娘がいつかここへ来る可能性を考えていたのだ。

 そして宮川は、その約束を冬の便のあいだじゅう、何年も守っていた。


 箱の蓋が開く。

 中には、半分に折られた便箋が一枚、それから古い切手の貼られていない封筒、そして小さな布切れが入っていた。

 布切れは白い。

 帽子の裏地か、ハンカチの端か分からないほど小さいが、その白さだけが妙に目に残った。


 湊の胸が、ひどく静かにざわついた。

 白い布。

 千紘の帽子を思い出させるのに十分だった。


「手紙、ですか」

 汐里が訊く。

「書きかけ」

 宮川が言った。

「澄江さんがここで書いて、結局出さなかった」


 汐里は、しばらく箱を見つめたまま動けなかった。

 やがて、ゆっくりと便箋を手に取る。

 文字は澄江の字だった。

 細く、整っていて、しかしところどころ筆圧が揺れている。


 ――島の名で呼ばれると、まだあちら側へ戻れる気がする。

 ――けれど、戻ったところで千紘はもういない。

 ――亮介さんの手紙が本当にあったとして、届かなかったのなら、それもまた私たちらしいと思う。

 ――誰かが悪かったというより、みな少しずつ遅く、少しずつ足りなかった。

 ――だから私は、この島の名を忘れないまま、春口で生きるしかない。


 そこまで読んだところで、汐里は一度目を閉じた。

 部屋の中が静まり返る。

 外の風の音だけが近かった。


「母は」

 しばらくして言う。

「やっぱり、父の手紙だと思っていたんですね」

「そうだろうね」

 宮川が答える。

「確証はなくても」

「そして、届かなかったとしても、それが“私たちらしい”って」

「そう書いた」


 “私たちらしい”。

 その諦めとも受容ともつかない表現に、湊は胸が痛んだ。

 父と澄江。

 千紘。

 春口と島。

 待たされた時間。

 届かなかった手紙。

 会えなかった人々。

 そのすべてを、澄江は結局「誰か一人のせいではない遅れと不足」として抱え込んだのだろう。


「この布は」

 湊が訊くと、宮川は小さく首を傾げた。

「澄江さんは何も言わなかった。ただ、箱に一緒に入れていった」

「白い……」

 汐里が呟く。

「帽子の裏地、でしょうか」

「分からない」

 宮川は言った。

「でも、あの子のものだと私は思ったよ」


 あの子。

 千紘のことだろう。

 もしそうなら、澄江は島の名と、届かなかった手紙と、千紘の白い布片を、この箱にまとめて島へ置いていったことになる。

 持ち帰ることのできないものとして。

 あるいは、自分の娘にしか渡せないものとして。


 汐里は便箋を何度も読み返した。

 泣いてはいなかった。

 だが、その横顔にはこれまで見たことのない種類の疲れと、奇妙な安堵が同時に浮かんでいた。


「母は、逃げたわけじゃないんですね」

 やがて言う。

「島を忘れたかったわけでも」

「ええ」

 湊が答えた。

「忘れないまま、春口で生きるしかないと決めた」

「その決め方が、母らしいです」

「……」

「全部を解決しないまま、でもなかったことにもせず、抱えていく」

「そうですね」


 宮川は二人のやり取りを黙って聞いていたが、やがて言った。


「娘さん」

「はい」

「これ、持って帰りなさい」

「この箱を?」

「そう」

「でも」

「もう私が持っている理由はない。冬の便があるうちに渡したかっただけだよ」


 汐里は両手で箱を受け取った。

 その動きは、壊れ物を扱うよりも慎重だった。

 箱の中にあるのは紙と布だけだ。

 けれどそこには、澄江が島の側と春口の側のあいだでようやく選び取った生き方の痕跡が詰まっている。


 帰りの便まで少し時間があったので、宮川は二人を港の外れの高台へ案内してくれた。

 そこからは、春口の方角の海がよく見えた。

 冬の光の下で、島影が幾重にも重なり、その向こうに本土の線がかすかにある。

 澄江は三度目に来たとき、このあたりで長く海を見ていたという。


「たぶんね」

 宮川が言う。

「自分がどこへ帰る人間なのか、最後に決めていたんだろう」

「春口へ」

 汐里が言った。

「ええ。でも、島を捨てるわけじゃない形で」


 その言葉は、第三作全体の主題に近い気がした。

 帰る場所を決めることと、元いた場所を捨てることは同じではない。

 せとうちの人々は、その二つをいつも完全には切り分けられないまま生きてきたのだろう。

 島を出ても、島の名が残る。

 春口へ移っても、旧い便が体に残る。

 だから届かなかった手紙一通が、何十年もあとまで人を呼び戻す。


 帰りの渡し場で風を待ちながら、湊は箱を抱える汐里の横顔を見た。

 その表情には悲しみもあったが、それ以上に、何かの重みが正しい場所へ戻りつつあるような感覚があった。

 母を理解することは、母を美しく許すことではない。

 その人がどんな矛盾を抱えたまま生きたのかを、自分の人生の中へ置き直すことだ。

 汐里はいま、まさにその途中にいるのだろう。


 春口へ戻る最後の船が出たころには、風が少し収まっていた。

 風待ちの渡し場。

 その名のない場所が、今日は妙に心に残った。

 潮待ち浜と同じように、正式な名前がなくても、人の時間を大きく左右する場所がある。

 せとうちでは、そういう場所のほうがむしろ本当の地図なのかもしれない。


 夜、宿へ戻ったあと、汐里は母の箱を自室へ持っていった。

 しばらく一人になりたいのだろうと思い、湊は何も訊かなかった。

 ただ、台所で湯を沸かし、二つの湯呑みを用意した。

 しばらくして彼女が降りてきたとき、その一つを黙って差し出す。

 汐里は受け取り、小さく「ありがとうございます」と言った。


「どうでした」

 湊が慎重に訊く。

「母が、やっと一人の人に戻った感じがします」

「一人の人」

「私の母でもあり、春口の人でもあり、島の人でもあった」

「……」

「今までは、母はただ“亡くなった母”だったけど、今日はそうじゃなかった」


 それ以上の言葉はいらなかった。

 湊は静かに頷いた。

 第三作は、ただ島の謎を解く物語ではない。

 春口で暮らす人間たちの背後にある、もっと古い“島の名”と“帰る先の複数性”を描く物語なのだと、いよいよはっきりしてきた。


 その夜、湊はノートにこう書いた。


 ――潮待ち浜のような名を持つ場所だけではない。

 ――風待ちの渡し場のように、名もなく人を止める場所がある。

 ――澄江は島の名を捨てずに春口で生きることを選んだ。

 ――それは帰る場所を決めることであって、元いた場所を消すことではなかった。

 ――島影をわたる風は、名を奪うのではなく、名を二つに分けたまま人の中へ残す。


 書き終えて窓の外を見ると、海は見えなかった。

 ただ、見えない向こうに島があることだけは分かる。

 第三作はまだ終わらない。

 むしろ、ここからようやく本当の“帰れなさ”の輪郭が見えてくるのだろうと、湊は静かに思った。

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