第六章 潮の家名
翌朝、春口には珍しく霧雨が降っていた。
雨というにはあまりに細かく、傘を差していても濡れているのかいないのか分からなくなる程度の水気だった。港の向こうの島影は輪郭だけを残して薄く滲み、線路の銀も、いつもより早く光を失っている。冬の霧雨は景色を大きく変えない。むしろ、近くのものだけを静かに濃くする。路地の石、船具の金具、待合の木の柱、玄関先の鉢植え。そうした手の届く範囲のものばかりが急に現実味を増し、その向こうは少しずつ遠くなる。
湊は朝の港を見ながら、この天気もまた第三作にふさわしい気がしていた。見えているのに遠い。届きそうなのに、便が一つ違うだけで届かない。春口と島々のあいだにある距離感が、そのまま空気の中へ出てきているようだった。
朝食の席で、汐里は母の手記の頁を一枚だけ切り離した写しを卓袱台に置いた。
昨夜見つけた、あの一文のある頁だ。
――島の名で呼ばれると、戻ってしまいそうで怖い。
――けれど、呼ばれないままだと、あの子を置いてきたままになる気もする。
墨の色は薄く、字は崩れていない。
感情を直接書くことの少ない澄江の手記の中では、珍しく心の動きがそのまま出ている文だった。
島の名。
それは旧姓であると同時に、家の呼び名でもあり、その人がかつてどちら側の人間だったかを示す場所の名でもあるのだろう。
「今日、篠原さんがもう一度来てくれるそうです」
汐里が言った。
「家名のことをもう少し知りたいって話したら、昔の集落帳を見てみると」
「助かりますね」
湊が答える。
「島の澤井家と、春口の三崎家のつながりが見えてくるかもしれない」
「ええ」
「それに」
「それに?」
「澄江さんが“戻ってしまいそうで怖い”と思った理由も」
「そうですね」
食後しばらくして篠原が来た。
いつもの布鞄のほかに、今日はかなり厚いファイルを抱えている。濡れないようにビニールで包んできたらしく、表面に細かい雨粒がついていた。
居間に上がると、彼はまず手をこすりながら言った。
「冬の雨は、紙のことを思い出させます」
「前にも似たことを言っていましたね」
湊が言うと、篠原は「そうでしたか」と少し笑った。
「古い資料は、晴れの日より湿った日のほうが、なぜか生っぽく見えるんですよ」
ファイルを開く。
中には、島々の家筋や婚姻の流れを簡単に書き込んだ私的なメモと、古い集落帳の写し、それに島の家名を一覧にしたような紙が入っていた。
篠原は、そのうちの一枚を広げて指差した。
「澤井家というのは」
「はい」
「大きな家ではない。けれど港と郵便の仮受け渡しに少し関わっていた時期がある」
「宮川さんの話とも一致しますね」
「ええ。しかも、昭和の終わりに家の若い人間が二、三人続けて島を出ている」
「春口へ?」
「そこが面白いんです」
篠原は別のメモを引き寄せた。
そこには細い線で、島から春口、本土の別の町へと矢印が引かれている。
「一人は本土の工場へ。もう一人は春口の宿関係へ嫁入り、あるいは手伝いの形で移っている可能性がある」
「宿関係……」
汐里が小さく言う。
「三崎家」
「ええ」
部屋の空気が、じわりと深くなった。
澄江は春口で暮らしただけではなく、島の澤井家から三崎家へ移った人間だった可能性が高い。
つまり彼女にとって春口は、単なる港町ではない。
島の家名を捨てきれないまま、新しい家名の中へ入った場所。
だから旧姓宛の手紙は、春口での現在を揺らしかねないものだったのだろう。
「母は、島の人だったんですね」
汐里が、驚きよりも確認するような口調で言った。
「その可能性は高いです」
篠原が答える。
「少なくとも、島の家筋をかなり濃く引いている」
「だから“島の名で呼ばれると戻ってしまいそうで怖い”」
湊が言う。
「ええ」
篠原は頷いた。
「春口で生きるために、ある程度切り替えなければならなかったんでしょう。家も、名前も、人間関係も」
「でも、完全には切れなかった」
「島の側に、千紘が残っていたなら、なおさらです」
千紘。
その名前が出るたび、第一作の白い帽子がまだ近いところへ来る。
第三作は、春乃や佐和子のように別の人物の物語へ広がっているようでいて、結局また千紘へ戻ってくる。
だが今回は、千紘を「春口でいなくなった少女」としてではなく、島と本土の家筋の中を動かされてきた存在として見直し始めているのだった。
「澤井家の中に」
湊が訊く。
「千紘につながりそうな名前はありますか」
「はっきりとは言えません」
篠原は慎重に言った。
「ただ、同じ年代に“親類預けの子”として記録の端にだけ現れる女児がいる」
「名前は」
「記録では伏せられているか、略されています。小さい集落では、わざわざ本名を書かないことも多かった」
「……」
「でも、澄江と同じ家の周辺で動いていた子である可能性はある」
それだけで十分に重かった。
千紘は、春口へふらりと現れた外部の少女ではない。
澄江と同じ“島の側”に属していた子かもしれない。
だとすれば、第一作で見えていた父と澄江と千紘の関係は、単なる偶然の出会いではなく、島の家筋と春口の接続の中に最初から組み込まれていたことになる。
「澄江さんが島へ戻ると」
篠原が言葉を選びながら続けた。
「旧姓で呼ばれるだけでなく、千紘を置いてきた側の人間にも戻ってしまう感じがあったのかもしれません」
「置いてきた側」
汐里が目を伏せる。
「ええ。実際にそうだったかどうかは別として、本人の感覚としては」
その表現は、ひどく痛かった。
第一作でも澄江は、自分だけ先に親類に引き取られたことへの負い目を持っていた。
第三作で今見えてきたのは、それが単なる“事故の一回きりの罪悪感”ではなく、島から春口へ移ってきた者としての立場と深く結びついていた可能性だ。
島の名で呼ばれることは、幼い日の出来事だけでなく、その家筋や関係性全体の中へ戻されることを意味していたのだろう。
篠原が帰ったあと、二人はしばらく何も言えなかった。
窓の外では霧雨がまだ細く続いている。
海は灰色で、島影も線だけになっていた。
春口の冬の雨は、何かを劇的に見せるのではなく、少しずつ湿らせて輪郭だけを残す。今日の発見もまた、その天気に似ていた。
「母は」
やがて汐里が言う。
「春口へ来て、三崎の人になって、それでも島の名を捨てきれなかった」
「そうみたいですね」
「私、小さいころ、母に島のことをほとんど聞いていないんです」
「ええ」
「でも、たまに海を見てるときの顔が、春口の人の顔じゃなかった気がして」
「どう違うんですか」
「もっと遠くを見てる感じです。春口の港や船じゃなく、その先の島影の並びごと見てるみたいな」
「……」
「たぶん、あれは“戻りたい”じゃなくて、“戻れなかったものがある”顔だったんでしょうね」
その言葉に、湊は何も返せなかった。
戻りたいと戻れないは似ているようで違う。
前者には目的地がある。
後者には、もうそのままでは辿り着けない時間がある。
澄江も、父も、春乃も、その“戻れなさ”の中で生きていた。
それが『潮待ちのレール』の人物たちの共通した輪郭なのだろう。
午後、二人は春口の港沿いを歩いた。
雨はいつのまにかやみ、かわりに低い雲だけが残っている。濡れた岸壁は鈍く光り、船の白い腹はいつもより青みを帯びて見えた。
港の端に、今は使われていない古い船着場の名残がある。コンクリートが少し崩れ、手すりだけが残っている。
汐里がそこへ立ち、海の向こうを見た。
「母も、こういうふうに立っていたんでしょうか」
「島へ行く前後に?」
「ええ」
「たぶん」
湊は答えた。
「旧姓の手紙のことを考えながら」
「そうですね」
「そして、自分が今どっち側の人間なのか、決めきれないまま」
「……」
春口は、海へ開いている。
だがそれは、自由にどこへでも行けるということではない。
島の名を捨てた人にとっては、海は切れた縁の向こうでもある。
だからこの町で海を見ることは、ただ美しい景色を見ることではなく、かつての呼び名や家や便の記憶を同時に見ることになるのかもしれない。
その日の夕方、宮川から春口の宿へ短い電話が入った。
相手は汐里が出た。
受話器を置いた彼女は、少しだけ顔色を変えていた。
「どうしました」
湊が訊く。
「宮川さんが」
「ええ」
「“もう一つだけ見せるものを思い出した”って」
「手紙に関する?」
「たぶん。明日、来られるなら来てほしいそうです」
「また島へ」
「はい」
第三作は、さらに一段深くなるらしかった。
届かなかった手紙。
旧姓の島。
そして、まだ見せていないもの。
春口の外へ出た物語は、いま確実に、父や澄江や千紘の結び目へ向かい始めている。
夜、湊はノートに今日のことを書いた。
――旧姓とは、過去の名字ではなく、かつてその人が属していた側の呼び名なのだろう。
――それで呼ばれると、名だけでなく、置いてきた関係や時間まで一緒に戻ってくる。
――澄江にとって春口は終点ではなく、島の名を抱えたまま暮らす途中の港だった。
――その途中で、届かなかった手紙が海の先から追ってきた。
書き終えたあと、窓の外を見た。
雨はすっかりやみ、港の灯りが水に滲んでいる。
島影は見えない。
だが見えないことが、そこに無いことを意味しないのは、もうよく知っていた。
春口の夜には、いつもそういうものが潜んでいる。
届かなかった言葉も、呼ばれなかった名も、見えないまま海の向こうに残っているのだ。




