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潮待ちのレール ― 島影をわたる風 ―  作者: たむ


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第三章 届かなかった手紙

 届かなかった手紙、という言葉が、部屋の中に小さく沈んだ。


 外では、港のほうから波の音がわずかに聞こえる。島の波は春口より近い。家の壁一枚の向こうですぐ海が息をしている感じがする。その近さのせいか、宮川の言った言葉も、ただの昔話ではなく、すぐそこに置かれた物のように思えた。


 汐里が先に口を開いた。


「母が、その手紙を探しに来ていたんですか」

「そう」

 宮川は急須に湯を注ぎながら言った。

「何度もじゃない。けど、一度で諦めきれなかった人の来方だった」

「どんな」

「確かめたいのに、確かめたくもない人の来方」


 その言い方に、湊は父や佐和子のことを思い出した。

 知りたい。

 だが、知ったときに何かが一つの形で固定されてしまうことも怖い。

 春口に引き寄せられる人間は、そういう矛盾を抱えたまま移動してくるのだろう。


 宮川が湯呑みを並べる。

 湯気がゆっくり立ちのぼり、この島の静けさの中では、その動きまでよく見えた。


「澄江さんは、最初に来たとき」

 宮川が続ける。

「“昔、この島へ届くはずだった手紙が、港か郵便局で止まったことはありませんか”と訊いたんだよ」

「そんな言い方で」

 汐里が小さく言う。

「ええ」

「母らしいです」

「そうなのかい」

「直接“これですか”と名前を出さないところが」


 宮川は少し笑った。

 その笑い方には、澄江を思い出す親しさがあった。


「私は最初、分からないと言った」

「実際、分からなかった?」

 湊が訊く。

「はっきりした記録はね。昔の小さな局なんて、今ほどきちんと何も残っていないよ。特に島の便は、船の遅れや欠航で郵便物の流れもよくずれたから」

「……」

「でも、澄江さんが帰ったあとで、少し気になって古い箱を見直した」


 湊は無意識に前のめりになっていた。

 古い箱。

 そういうものの中から、第一作でも第二作でも、何度も時間の断片が出てきた。

 春口の物語は、公的な記録より、誰かが片づけきれなかった箱の中に長く残るらしい。


「そしたら」

 宮川は湯呑みの縁を指で押さえながら言う。

「一通だけ、宛先不明扱いにも、返送扱いにもなっていない封筒の控えが見つかった」

「控え?」

 湊が訊く。

「郵便そのものじゃないよ。配達が滞ったときの内部メモみたいなもの。正式な書類というほどでもない」

「それに何が」

「“島内不在、転送保留”とだけ」


 島内不在、転送保留。

 その冷たい言葉の響きに、湊は胸の奥を掴まれる感じがした。

 誰かに向けて書かれた手紙が、配達不能でも返送でもなく、島内不在のまま保留された。

 それは、届け先の人間が“いない”のではなく、“いるはずなのに今そこにいない”ということだ。

 帰れなかった人。

 このシリーズを通して何度も現れてきた気配が、ここでは郵便の言葉になって残っている。


「宛名は」

 汐里の声が少し硬かった。

「見つからなかった。控えだけだもの」

「じゃあ、それが母の探していた手紙かどうかは」

「分からない」

 宮川は正直に言った。

「でも澄江さんは、その文を見たとき、しばらく動かなかった」


 部屋の中の静けさが、さらに深くなった気がした。

 澄江はそれを見て、何を思ったのだろう。

 千紘のことか。

 父のことか。

 あるいは、自分自身の過去のどこかで、届かなかったまま島に保留された何かを思い出したのか。


「母は、何か言いましたか」

 汐里が訊く。

「“やっぱり”とだけ」

 宮川が答える。

「それから、“届けられなかったんじゃなくて、届く先が先にずれてしまったのかもしれませんね”って」


 その言葉は、第二作の春乃のすれ違いと同じ構造をしていた。

 届かなかったのではない。

 届くはずの先が、もうそこではなくなっていた。

 春口や島々では、人だけでなく、手紙もまた場所を読み違えるのだ。


 湊は訊いた。


「その手紙は、いつごろのものですか」

「だいぶ前だよ」

 宮川は記憶を探るように目を伏せる。

「澄江さんが若いころよりは、少しあと。けど、娘さんが生まれる前くらいかもしれない」

 汐里が小さく息を呑む。

 つまり、その手紙は澄江が大人になってからのもので、なおかつ自分が生まれる前後の時期に関係している可能性がある。

 それは千紘の夏より少しあとであり、しかし完全に切れたあとではない年代だろう。


「差出人も分からない?」

 湊が訊く。

「控えにはね。ただ」

 宮川はそこで少し言葉を切った。

「澄江さんは、誰からの手紙かを最初からだいたい分かっているようだった」


 その一言で、部屋の温度がわずかに下がった気がした。

 澄江は差出人を知っていた。

 あるいは少なくとも、そう思い込むだけの理由があった。

 父かもしれない。

 千紘に関わる誰かかもしれない。

 もしくは、それ以外の“春口の外”の人間かもしれない。


 汐里が膝の上で手を組み直した。

 その仕草は小さいが、緊張が走っているのが分かった。


「母は、そのあとどうしましたか」

「二度目に来たとき」

 宮川が言った。

「“もしその手紙が誰かの手元に残っているなら、見なくてもいい。ただ、あったかどうかだけ知りたい”って」

「見なくてもいい」

「そう。そこがね、澄江さんらしいと思った」

「どうしてですか」

「中身を知りたいわけじゃなかったんだろうね。届けられなかった事実だけ、たしかめたかった」


 それは父のノートや、春乃の絵葉書とも通じる態度だった。

 人は時に、言葉の内容そのものより、「たしかに向けられていた」という事実だけを求める。

 届いたかどうか。

 届けようとされたかどうか。

 出されたかどうか。

 その確認だけで、人の中の時間の置き方が少し変わることがある。


「それで」

 湊が訊く。

「宮川さんは、何と答えたんですか」

「“あったかもしれない”としか言えなかった」

 宮川は苦く笑った。

「本当のことだ。控えだけじゃ何も断定できない」

「母は」

「それで十分みたいだったよ。少なくとも、その日は」


 部屋の外で、風が少しだけ強くなった。

 古い窓枠が小さく鳴る。

 島では、風の音そのものが近い。


 湊は、澄江がこの島へ何度か来たという事実を改めて受け止めようとした。

 春口の宿で暮らしながら、ある日船と列車を乗り継いで、この小さな島へやってきた。

 探したのは、手紙。

 その中身ではなく、「届けられなかったかもしれない一通」の痕跡。

 それはまるで、千紘や父や春乃のように、やはり“届かなかった時間”の延長だった。


「その手紙」

 汐里がゆっくり言った。

「母は、父からだと思っていたんでしょうか」

 宮川はすぐには答えなかった。

 代わりに、湯呑みを少し回してから言う。


「私はね、亮介さんのことは直接知らない」

「ええ」

「でも澄江さんが、その名前を一度だけ口にしたことはある」

 湊の肩がわずかに強張った。

「いつですか」

「二度目に来たとき。“あの人は書いても出せない人だったけど、出していたなら届かなかったのかもしれない”って」

「……」

「その“あの人”が誰かは、わざわざ訊かなかったよ」


 それだけで十分だった。

 父は、出せなかった手紙がある。

 第一作でもそうだった。

 だが、出せなかったと思っていたものの中に、もしかすると一度は出され、それでも届かなかった手紙があったのかもしれない。

 春口と島々のあいだで。

 冬の便や夏の便の中で。

 誰かの手元へ行く前に、場所がずれ、保留されたままになった一通が。


「その控え、今もありますか」

 湊が訊くと、宮川は首を横に振った。

「郵便局が整理されたとき、多くは処分されたよ。残っていない」

「じゃあ」

「私の記憶しかない」

「……」

「だからこそ、冬の便があるうちにと思ったんだ」

 宮川は言った。

「人の記憶も、季節みたいにしまっていくからね。春になると、暮らしが前へ出てきて、こういう話は言わなくなる」


 その言葉には、嘘のない老いがあった。

 話せる季節がある。

 黙る季節もある。

 春口や島々では、記憶もまたそうした季節のうちに置かれているらしい。


「母は」

 汐里が小さく言った。

「そのあと、もう来ませんでしたか」

「来たよ」

 宮川は答えた。

「もう一度だけ」

「三度目?」

「ええ。そのときは、手紙の話というより……海を見ていた」

「海を」

「うん。しばらく港に立って、何も訊かずに帰った。帰り際に“もう探すのはやめます”と言った」

「やめる」

 湊が繰り返す。

「でも、“忘れるわけではないです”とも」


 それは澄江らしい終わり方だった。

 探すのをやめる。

 だが忘れるわけではない。

 第一作でも第二作でも繰り返し触れてきた感覚だ。

 待つのをやめることと、来なかったことをなかったことにするのは違う。

 澄江もまた、どこかでそれを選んだのだろう。


 宮川は立ち上がり、奥の箪笥から小さな缶を取り出した。

 錆びかけた蓋を開けると、中には古い切手が何枚かと、乾いた輪ゴム、それから小さな紙片が一つ入っていた。

 彼女はその紙片を二人の前へ置いた。


「これ自体は、手紙じゃない」

「では」

 湊が訊く。

「局で使ってたメモ帳の切れ端。澄江さんが最後に来た日に、私がその場で書いた控えのようなもの」


 紙には、年季の入った筆跡で短くこうあった。


 ――転送保留一通

 ――宛先、島の旧姓宛の可能性

 ――本人不在につき扱い留め

 ――三崎さん来局、確認のみ


 旧姓宛。

 その一言が、これまでよりさらに深い場所へ話を押し進めた。

 誰かは、今の名ではなく、昔の名に向けて手紙を書いた。

 それが島へ来た。

 だが本人は不在。

 転送も返送も決めきれず、留められた。

 澄江はその事実だけを確認しに来た。


「旧姓、ということは」

 汐里の声がわずかにかすれた。

「母ではなく、千紘……?」

「その可能性もある」

 宮川は言った。

「あるいは、澄江さん自身の昔の名のほうかもしれない。島とのつながりがどこにあったか、私は全部は知らない」


 部屋の中に、見えない線がいくつも引かれる気がした。

 澄江。

 千紘。

 島の旧姓。

 届かなかった手紙。

 父が出したかもしれない一通。

 第一作で追った潮待ち浜の時間が、ここへ来て、もっと広い島々の系譜の中へつながり始めている。


 湊は、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。

 第三作は、ただ春口から外へ出る話ではない。

 春口で起きたことが、島と本土の親類関係や、旧姓や、郵便の流れの中にまで根を伸ばしていたことを知る旅なのだ。


「宮川さん」

 汐里が言った。

「母は……つらそうでしたか」

「つらかったろうね」

 宮川はあっさり言った。

「でも、それだけじゃない顔だった」

「どういう」

「届かなかったことを知って、少しだけ楽になった顔」

「……」

「人は、届かなかったと分かるだけで、待ち方を変えられることがあるから」


 その言葉に、湊は第二作の佐和子を思い出した。

 来なかった人ではなく、来たかった人。

 届かなかった手紙。

 届く先が先にずれてしまった手紙。

 春口と島々の物語は、どこまでも“完全な不在”ではなく、“半端な接続の失敗”のほうへ向かう。

 だからこそ、終わりにくい。

 だが同時に、だからこそ、どこかで引き取りなおす余地も残るのだろう。


 話を終えて宮川の家を出るころには、日は少し傾き始めていた。

 冬の島では、午後が早い。

 港へ下りる道の脇に生えた草も、家々の壁も、光を受けて乾いた金色に近づいていく。

 湊と汐里はしばらく無言で歩いた。


 小さな港へ着いたところで、ようやく汐里が言った。


「母は、知っていたんですね」

「何を」

「全部ではなくても、少なくとも“誰かが手紙を書いたかもしれない”ことを」

「そうみたいですね」

「そして、それが届かなかったかもしれないことも」

「……」

「私、少しだけ救われた気がします」

「どうして」

「母の中に、ちゃんと“向こう側から来たもの”が一度はあったかもしれないから」


 その言葉は、重く、しかしまっすぐだった。

 澄江は何も与えられないまま生きたのではない。

 届かなかったにせよ、誰かは手紙を書いた。

 誰かは、言葉を向けようとした。

 その事実だけでも、待ち続けた側の人生には違う光が差すのかもしれない。


 冬の便が来るまで、二人は港のベンチに座って海を見ていた。

 島影は夕方の冷えた光の中で、輪郭だけを濃くしている。

 ここでもやはり、見えているのにすぐには帰れない。

 便がなければ戻れない。

 その現実の上に、届かなかった手紙や旧姓宛の記憶が静かに積もっている。

 第三作の海は、夏よりもさらに深いところで人の不在を受け止めているようだった。


 やがて、渡しの小さな船が島影の向こうから現れた。

 白い船体が、冬の海の中ではどこか骨のように見える。

 それが静かに近づいてくるのを見ながら、湊は思った。

 今日聞いた話は、まだ断片にすぎない。

 だがその断片の中に、父と澄江と千紘を結ぶ別の経路――手紙という経路――が確かにあった。

 そしてその経路もまた、海と便と場所の選択の中で途切れていたのだ。


 船が岸につき、二人は立ち上がった。

 帰りの便。

 第三作では、その言葉がこれまで以上に重い意味を持ち始めている。

 帰るためには、接続が必要だ。

 だが人生では、その接続がしばしば一度きりで、少しのズレで失われてしまう。

 島影をわたる風の中で、湊はそのことをよりはっきりと知り始めていた。

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