第四章 旧姓の島
帰りの渡しは、来るときより少しだけ揺れた。
風が強くなったわけではない。冬の午後の海はむしろ静かなほうだった。けれど、日の傾いたあとの水面には朝にはない鈍い厚みがあり、軽い船体はそのうえを、すべるというより、慎重に手探りで進んでいくように見えた。
汐里は窓の外を見たまま、ほとんど喋らなかった。
湊もまた、宮川の家で聞いた言葉を頭の中で何度も反復していた。
転送保留一通。
宛先、島の旧姓宛の可能性。
本人不在につき扱い留め。
その言葉は、公的な記録のようでいて、実際には極めて私的な痛みの気配を帯びていた。
手紙は書かれた。
誰かが誰かへ向けて、確かに一通を出した。
だが、その宛先はすでにずれていた。
そこに人がいないのではなく、そこにいるはずだった人が、もはやその名や場所に属していなかった。
それは、まさにこのシリーズ全体を通して湊が見てきたことの別の形だった。
来ないのではない。
届かないのでもない。
届く先が、少しだけ遅く、少しだけ遠く、少しだけ違ってしまったのだ。
志々島の外れの渡し場へ戻るころには、空はもう薄い灰色を帯び始めていた。
冬の夕方は、光が消えるというより、色が一枚ずつ剥がれていく。
便の待ち時間は三十分ほどある。
待合というほどのものもない小さな壁のそばに立ち、二人は次の船を待った。
「相沢さん」
ようやく汐里が口を開いた。
「はい」
「母は、何を探していたんでしょうね」
「手紙の中身ではなく」
「ええ」
「“届かなかったかもしれない”という事実そのものを」
「たぶん」
湊は答えた。
「でも、それだけじゃない気もします」
「どういう」
「お母さんは、差出人が誰かをある程度分かっていた。だとすると、探していたのは手紙そのものより、“向こう側から一度は来ようとしたものがあった”という確認だったのかもしれません」
「向こう側から来ようとしたもの」
「ええ。言葉でも、気持ちでも、謝罪でも」
汐里は少しだけ下を向いた。
風が彼女のマフラーの端を揺らしている。
「それがあるだけで」
低い声で言う。
「待たされた側の人生って、そんなに変わるんでしょうか」
「全部は変わらないと思います」
湊は正直に言った。
「でも、待っていた時間の意味は少し変わるかもしれない」
「意味」
「何も来なかった、ではなくて、来ようとしたものが途中で止まった、に」
「……」
「それだけでも、人は自分を置く場所を変えられることがあると思います」
それは、第二作の佐和子が経験したことでもあった。
来なかった人ではなく、来たかった人。
その違いは、出来事の外形を大きく変えない。
それでも、残された側の時間の置き方を変える。
人はときどき、事実そのものより、その事実に与える向きだけで生き延びる。
次の船が着き、再び小さな客室に座る。
帰路は行きより短く感じた。
同じ海を戻っているのに、もうその海が「知らない先」ではなくなっているからだろう。
島影は相変わらず近く、遠い。
行けるのに、すぐには行けない。
帰れるのに、接続が切れればすぐには戻れない。
それがせとうちの現実であり、その現実が人の人生の比喩ではなく、文字通りの条件として働いている。
春口へ戻る最後の列車に乗るころには、空はほとんど暮れていた。
ホームの灯りが点り、海は黒い面になっている。
冬の夜のローカル線は、夏の列車よりいっそう静かだった。
車内にいるのは、買い物帰りの高齢の夫婦と、部活帰りらしい高校生、それに湊たちだけ。
天井の明かりが窓へ映り、外の島影はときおりその内側へ重なるように見える。
「旧姓、というのが気になります」
湊が言った。
「ええ」
汐里も頷く。
「母自身のことなのか、千紘のことなのか」
「あるいは、別の家筋のことかもしれません」
「母の口から、島の旧姓の話は聞いたことがありません」
「でも、聞いていないこと自体が手がかりになることもあります」
「そうですね……」
汐里は窓の外を見たまま続けた。
「春口の三崎家に来る前に、母のほうの親類が島にいた可能性はあります」
「戸籍か何かで追えますか」
「たぶん、時間はかかるけど」
「なら、少しずつ調べてもいい」
「相沢さん」
「はい」
「あなた、ほんとうにもう春口の人みたいですね」
「それは違うと思います」
「どう違うんですか」
「外の人間だからこそ、戻ってきて調べることができるんだと思います」
「……」
「ずっとここにいる人には、近すぎて見られないものもあるから」
「それは、少し悔しいけど、たぶん本当です」
その言葉のあと、二人はしばらく話さなかった。
車窓の外に港の灯りが見え、やがて春口駅の赤い屋根が夜の中から浮かび上がる。
戻ってきた、と思った。
この感覚は、もう一度目や二度目のそれとは違う。
春口が目的地であると同時に、さらに先の島々へ出ていくための拠点になっている。
第二作までで「戻ることのできる場所」になった春口が、第三作では「そこからさらに先へ向かう場所」にも変わり始めていた。
宿へ帰ると、冬の夜気を含んだ玄関の匂いがした。
湯気の立つ鍋の音、廊下の古い木のきしみ、二階から下りてくる暖気。
こういう何でもない感覚が、島から戻ったあとにはひどく頼もしく感じられる。
帰りの便が無事につながり、灯りのある家へ戻っただけで、人は思っている以上に安堵するものなのだと、湊は改めて知った。
夕食のあと、汐里は宮川から受け取った紙片の内容を、改めてノートに写した。
澄江の手記、父のノート、宮川の記憶、島の郵便局の控え。
それらはまだ線になっていない。
だが、線にならないまま並んでいること自体に意味がある気がした。
「明日」
汐里が言う。
「少し役場に寄ってみます」
「島の旧姓の手がかりを?」
「ええ。直接戸籍までは無理でも、家の並びや昔の郵便の扱いくらいは分かるかもしれない」
「一緒に行きます」
「ありがとうございます」
「それに」
「それに?」
「宮川さん、まだ全部は話していない気がします」
湊が言うと、汐里はわずかに目を上げた。
「どうしてそう思うんですか」
「“届かなかった手紙”の話はした。でも、お母さんが三度目に島へ来て海を見て帰った、というところで、何か一つ言葉を飲んだ感じがありました」
「……たしかに」
「気のせいかもしれませんけど」
「でも、あの人はそういう話し方をする人でした」
「知ってるんですか」
「小さいころに一度だけ会った記憶が、少し」
そのことを、汐里はそれまで話していなかった。
湊が顔を向けると、彼女は少しだけ困ったように笑った。
「はっきりした記憶じゃないんです」
「それでも」
「冬の港で、母に手を引かれて船から下りたことがある気がして。今日、宮川さんの顔を見て、たぶんその人だと思いました」
「じゃあ、お母さんは本当に島へ来ていた」
「ええ」
「そして汐里さんも」
「たぶん一度だけ」
その事実は小さいようで、大きかった。
第三作の旅は、澄江の過去を辿るだけではなく、汐里自身の忘れていた“幼いころの移動”にもつながり始めている。
春口の物語は、いつもそうだった。
掘り進めると、知らなかった他人の時間だけでなく、自分自身の失われた輪郭にも触れてしまう。
夜更け、湊は部屋でノートを開いた。
窓の向こうは真っ暗で、海は見えない。
だが音はある。
遠くで一度だけ船のエンジンが鳴り、そのあと少し遅れて列車の音がした。
春口にいると、海と鉄道の気配は見えなくても分かるようになる。
そのこと自体が、もう自分の変化のひとつなのだろう。
今日の頁に、湊は書いた。
――届かなかった手紙は、何もなかったことを意味しない。
――むしろ、確かに向けられていた言葉が、場所と名のずれの中で止まったということだ。
――春口の外へ出ても、やはりこの土地の物語は、完全な不在ではなく、半端な接続の失敗として残っている。
――帰れなかった人だけでなく、届かなかった言葉もまた、島影のあいだをさまよっている。
書き終えたあと、しばらくペンを置いたまま窓を見ていた。
旧姓の島。
その言葉が、いまのところ最もしっくりくる気がした。
人は名を変える。
家を変える。
島を出る。
春口へ移る。
けれど手紙は古い名のまま来てしまう。
そのズレは、単なる郵便の事故ではなく、その人がどこに属してきたかの揺れそのものなのだろう。
第三作は、思っていた以上に静かなところから深く潜っていく。
島影のあいだを吹く風は、目に見えない。
だがその風が、人の名や家や帰る場所を少しずつずらしていく。
湊は、そのことを胸のどこかで感じながら灯りを消した。




