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潮待ちのレール ― 島影をわたる風 ―  作者: たむ


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第二章 冬の便

 翌朝、まだ空が完全に明るくなりきる前に、春口の港はすでに小さく動き始めていた。


 冬の朝の海は、夜の名残をそのまま薄く引いている。

 黒に近い群青が、東のほうから少しずつ灰色へほどけていく。そのあいだを、小さな定期船の灯りがゆっくり移動していた。港の岸壁は冷え、ロープにも、係船柱にも、夜気の硬さが残っている。夏なら朝の光に包まれてすぐ柔らかく見えるものが、冬にはしばらく固いままそこにある。その感じが、これから向かう島のことを少し先取りしているように湊には思えた。


 宿の台所では、汐里がまだ薄暗い中で朝食の準備をしていた。

 白い湯気が立ち、味噌の匂いが部屋をゆっくり満たしていく。

 湊が階下へ下りると、汐里は振り返って「おはようございます」と言った。昨日よりも少しだけ声が低い。朝が早いせいだけではないだろう。母に関わる何かを知っているかもしれない島へ向かう緊張が、彼女の中にも確かにある。


「眠れましたか」

 湊が訊くと、汐里は少し考えるようにして答えた。

「半分くらい」

「それは、眠れたほうですか」

「この場合は」

 そう言って、彼女はほんの少しだけ笑った。


 朝食は簡素だった。

 焼き海苔、湯豆腐、小さめの焼き魚、味噌汁。

 冬の朝は、量よりも温かさのほうが身体へ入る感じがする。

 二人は必要なことだけを話しながら食べた。

 何時の列車に乗るか。

 どこで乗り換えるか。

 小型船の便が遅れた場合、次を待つと何時になるか。

 海と鉄道の接続を中心に一日が組まれるのは、第一作や第二作でも経験してきた。けれど今回は、それがさらに細く、さらに不確かになる。冬の便は少ない。本数が少ないということは、待つ時間そのものの比重が大きくなるということだった。


 春口駅へ向かう坂道には、まだ人がほとんどいなかった。

 寒さのせいか、港の匂いもいつもより引き締まって感じられる。

 改札を抜けると、ホームには買い物袋を持った年配の女性が二人、すでに列車を待っていた。島へ渡る便と接続する列車だからだろう。都会ではただの通勤前の一時間でも、このあたりでは生活の動線そのものになっている。


 列車が入ってくる。

 冬の空気の中では、車体の銀色が夏より強く見えた。

 ドアが開き、車内の暖気が外へこぼれる。

 湊と汐里は並んで座り、春口を離れた。


 車窓の外で、海はすぐ見えたり隠れたりした。

 低い朝の光が防波堤に当たり、島影の輪郭をくっきり浮かび上がらせる。柑橘畑は葉を深く濃くし、家々の屋根は冬の空気の中でどこか乾いた色をしていた。

 湊は窓に映る自分と外の景色を重ねて見ながら、今回の旅の質が、夏の二作とは少し違うことを感じていた。

 夏は、待ち時間に光が満ちていた。

 冬は、待ち時間の輪郭のほうがよく見える。

 便を一つ逃せば次がない。

 日が傾けば港は早く暗くなる。

 移動の自由が少し減るぶん、人は一つひとつの接続をもっと深く身体で意識する。

 “帰りたいのに帰れない人々”を描くには、たしかに冬のほうがふさわしいのかもしれなかった。


「春口の外へ、こんなふうに一緒に出るのは初めてですね」

 湊が言うと、隣で汐里が窓の外を見たまま頷いた。

「そうですね」

「少し不思議です」

「私もです」

「今までは、春口の中で会って、春口の中で話していたから」

「ええ」

「今日は春口を背にしてる」

「でも」

 汐里は少しだけ考えてから続けた。

「春口を離れるというより、春口の先にあるものを見に行く感じですね」

「その違いは大きいですか」

「大きいと思います」

 彼女はそう言い切った。


 橘浜のさらに先の小さな駅で降りると、海は列車から見ていたよりずっと近かった。

 駅舎もほとんどないような簡素な停留所で、ホームの先に小さな船着場が見える。冬の朝のせいか人影は少なく、風が吹くたび、待合の時刻表がぱたぱたと小さく鳴った。

 ここから、小型船で志々島の外れの渡し場へ向かう。

 さらにそこから先が、今回の目的地だった。


 船着場の待合には、毛糸の帽子をかぶった老人が一人、発泡スチロールの箱を足元に置いて座っていた。

 それから、買い物帰りらしい女性が一人。

 観光客の気配はない。

 夏のにぎわいが遠い昔のことのように感じられる。

 湊たちが入ると、老人が一度だけ目を上げ、「寒いね」と言った。誰に向けた言葉とも定かでないその言い方に、女性が「風がないからまだまし」と返す。

 春口でもそうだったが、こうした待合では、会話は相手を特定する前に空気へ投げられる。

 待つことそのものが、すでに半分共有されているからなのだろう。


 時刻表を見る。

 便は少ない。

 そしてその少なさが、紙の上の数字以上に現実的に感じられる。

 もしこの船に乗り遅れれば、次は二時間以上後。

 その先の乗り継ぎもまたずれる。

 列車の時間でできた旅と、船の時間でできた旅とでは、計画の立て方そのものが違うのだ。


「ここまではまだ分かりやすいですね」

 湊が小声で言う。

「まだ?」

 汐里が訊く。

「この先の“渡し場でさらに乗り換える”が、だんだん現実味を帯びてきました」

「島の人にとっては普通の移動でも、都会の人にはちょっとした探検ですよね」

「探検というより、接続の不安が常に頭の片隅にある感じです」

「そうです」

 汐里は頷いた。

「この辺で暮らすって、そういうことなんです」


 船が見えてきた。

 白い小型船は、港へ入る直前に少し大きく揺れ、それから岸へ寄る。

 ロープを取る人の動きも、乗客が立ち上がるタイミングも、夏の便より少し慎重に見えた。

 冬は海が荒いわけではない。だが、少しの波でも船体の軽さがすぐ伝わる。

 湊と汐里はその流れに続いて乗り込んだ。


 船内は狭く、ビニール張りの座席が左右に並んでいる。

 暖房は効いているが、どこか潮の匂いが濃い。

 窓の外に小さな水滴がついていて、朝の冷たさがまだ残っているのが分かった。

 出航すると、陸がすぐに少し離れた。

 線路は高いところに細く見え、さきほど降りた停留所も、もうただの白い点のようだ。

 見えているのに、そこへ戻るにはまた接続をいくつも辿らなければならない。

 海の上へ出ると、その感覚はいっそうはっきりする。


「この船に乗ってると」

 汐里が窓の外を見ながら言った。

「母が昔、どんな気持ちで島へ行ったのか少し考えます」

「何か聞いたことはあるんですか」

「島の話はほとんどありませんでした」

「じゃあ、なぜ行っていたと?」

「春口の宿の古い帳面に、何度か島の便のメモが残ってたんです。母の字で」

「一人で?」

「たぶん」


 その言葉に、湊は改めて今回の旅の重さを感じた。

 澄江は春口の中だけの人ではなかった。

 千紘や父や潮待ち浜に結びついていた少女は、後年に島を訪れる大人にもなっていたのだ。

 その移動の理由が何なのか、今度こそ少し見えるかもしれない。


 志々島の外れの渡し場へ着くと、そこは港というより、海へ押し出した小さな板張りの突端に近かった。

 待合小屋もなく、風を遮る壁が一枚あるだけ。

 小さなベンチと、時刻表の板。

 向こう岸と呼ぶには遠く、本格的な島と呼ぶには近い、そんな距離にいくつかの島影が浮いている。

 ここで次の船を待つ。

 それが、春口からさらに先へ行くための途中だった。


「本当に“途中”ですね」

 湊が思わず言うと、汐里も少し笑った。

「ええ。こういう場所が、この辺にはたくさんあります」

「誰かの途中であり続ける場所」

「そうですね」

「夏とは違いますね」

「何が」

「待つことの見え方が」

「どう違いますか」

「夏は、人の熱の中で待っていた感じでした」

「ええ」

「冬は、便の少なさそのものの中で待たされる感じがする」

「それ、分かります」

 汐里はベンチに座りながら言った。

「この季節は、風景より先に時刻表が身体に入ってくるんです」


 その表現が、ひどく正確に思えた。

 春や夏なら、海や光や祭りのにぎわいの中で時間を感じる。

 冬は、便と便のあいだの長さが先に来る。

 まさに「帰りたいのに帰れない」が現実の重さを持つ季節だ。


 しばらくすると、向かいの島からさらに小さな船が現れた。

 船というより渡しに近い。

 客を多く運ぶのではなく、必要な人だけをその都度運ぶためのような軽い船だ。

 これが最後の接続になる。

 乗り継ぐ人は、湊たちのほかに中年の男が一人いるだけだった。


 最後の船は、海の上をまっすぐ進まず、島影を縫うように斜めに走った。

 風を避けているのか、潮の流れを読んでいるのか、湊には分からない。

 ただ、その“まっすぐ行けなさ”が、この旅の本質に近いように思えた。

 春口からこの小島まで来るのに、列車、船、待合、渡し場、また船。

 見えているのに、何度も途中を経なければ着かない。

 その移動のかたちそのものが、ここに暮らす人々の人生を決めてきたのだろう。


 島へ着いたとき、湊はまずその静けさに驚いた。

 志々島よりさらに小さいその島には、港の脇に数軒の家が寄り添い、その後ろにすぐ斜面が立ち上がっている。郵便局が一つ、小さな雑貨屋のような建物が一つ、あとは細い道が集落へ入っていくだけだった。

 冬の日差しがあるのに、島全体が薄く影をまとっているように見える。

 暮らしの規模が小さいぶん、沈黙もまた濃いのかもしれない。


「ここが……」

 湊が言うと、汐里は小さく頷いた。

「ええ。母のことを知っている人がいる島です」


 港には、誰も迎えに来ていなかった。

 だがしばらくすると、坂の上から杖をついた老女がゆっくり下りてきた。

 背は小さく、厚手の灰色の上着を着ている。

 こちらの顔を一人ずつ見て、最後に汐里へ目を止めた。


「澄江さんの娘さん?」

 老女が言った。

「はい」

 汐里が答える。

「三崎汐里です」

「そう」

 老女はそれだけ言って、少し息を整えた。

「よく来てくれたね。冬の便のうちでよかった」


 その言い方が、葉書の文面とまったく同じだった。

 春になると話さない。

 冬の便があるうちに。

 この老女にとって、伝えるべきことは季節と接続に縛られているのだろう。


「私は、宮川といいます」

 老女は言った。

「昔、この島の郵便局にいました」

「郵便局」

 湊が繰り返すと、宮川は少しだけ目を細めた。

「そう。だから、届かなかったもののことを、少し長く覚えてる」


 その一言で、湊の背筋に静かな緊張が走った。

 届かなかったもの。

 春口では、何度もその影に触れてきた。

 今度は島の郵便局から、その話が始まるのかもしれない。


 宮川は二人を港の脇の小さな家へ招いた。

 土間のある古い家だった。中には炭の匂いと、乾いた紙のような匂いがした。

 囲炉裏の火は今は使っていないらしいが、部屋の空気には長いあいだ火を囲んできた家特有の丸みがあった。

 湊と汐里が座ると、宮川は湯を沸かしながら、ゆっくりと口を開いた。


「澄江さんはね」

 その声には、過去を不用意に乱さないための慎重さがあった。

「何度かこの島へ来ていたよ。若いころじゃない。大人になってから」

「どうしてですか」

 汐里が訊く。

「手紙を探しに」

 宮川は言った。

「届かなかった手紙が、一通あったから」


 部屋の空気が、少しだけ変わった気がした。

 届かなかった手紙。

 父の出せなかった手紙。

 春乃の出さなかった絵葉書。

 そして今、島に残る別の手紙。

 第三作は、思っていたよりも早く核心へ近づき始めていた。

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