第一章 ふたたび、海の先へ
冬の終わりに春口へ戻ってきたとき、湊は最初に海の色が変わったことに気づいた。
夏のあいだ、あれほど光を細かく返していた水面は、今はもっと深いところで静かに呼吸しているように見える。青というより、灰色に近い薄い群青。風が吹けば細かい皺が立つが、それも夏ほど華やかではない。島影はくっきりしていて、空気の澄んだ日には、夏には霞んでいた遠くの稜線までよく見えた。せとうちの冬は雪で世界を大きく変えるわけではない。だが、光の密度が変わるだけで、町の距離感も、人の歩く速さも、声の届き方も少しずつ変わるのだと、湊は駅を降りた瞬間に分かった。
春口へ戻るのは、これで三度目だった。
父の手紙に導かれて初めて来た夏。
春乃と佐和子の時間に立ち会った次の夏。
そして今度は、自分の意志だけで冬の終わりのせとうちへ来た。
仕事のほうは、以前ほど息苦しくはなくなっていた。
東京へ戻ってから、湊は会社を辞めたわけではない。相変わらず言葉を扱う仕事をしている。だが、以前のように「伝わりやすさ」だけを優先する書き方には、もう完全には戻れなかった。広告や企画書の言葉も必要だ。けれど、自分の中で何かが変わったあとでは、それだけでは空白が大きすぎる。春口へ行き来するようになってから、湊は小さなエッセイや紀行に近い文章を個人的に書き始めていた。どこにも発表していない。ただ、見た景色や、そこで会った人の時間を、自分の言葉の中へ置き直すためだけに書いていた。
それが何になるのかは、まだ分からない。
だが、分からないままでも続けていることが一つある、という事実は以前の自分にはなかった。
春口は、そういう種類の変化を人の中に作る町なのかもしれなかった。
改札を抜けると、赤い屋根の待合室が冬の光の中で少しだけ色を深めて見えた。
花壇には夏の花の代わりに、低い葉ものが植わっている。
ホームの先の海は、よく晴れているせいか寒そうに見えた。
待合室のガラス越しに映る空は高く、その向こうで港のクレーンが小さく動いている。
「おかえりなさい」
声のしたほうを見ると、汐里が立っていた。
厚手の紺のカーディガンに、首には淡い色のマフラーを巻いている。夏より髪が少し短くなっていて、そのぶん目元の輪郭がよく見えた。
湊は荷物を持ち直し、自然に答えた。
「ただいま」
「今度は迷いがないですね」
「もう三回目ですから」
「三回で、そう言えるなら大したものです」
「春口がそういう町なんでしょう」
「ええ」
汐里は少しだけ笑った。
「たぶん」
坂道を下りながら、湊は冬の春口を眺めた。
観光客はほとんどいない。
商店の前に出ている野菜の色も、夏より落ち着いている。
港には釣り人の姿がまばらで、船の上の作業着の色だけが海の鈍い青の中で目立っていた。
町は静かだったが、閉じてはいない。
むしろ余分な賑わいがないぶん、暮らしそのものの線がよく見える。
春口は春や夏だけの町ではないのだと、湊はようやく実感していた。
「寒いでしょう」
汐里が言う。
「東京も寒いですけど、こっちは風の感じが違いますね」
「海の風ですから」
「でも思ったより厳しくない」
「雪が積もるわけでもないし」
「そのかわり、静かですね」
「冬の春口は、だいたいそうです」
宿へ着くと、玄関先のオリーブの鉢は少しだけ葉を減らしていた。
けれど枯れてはいない。
夏の名残を完全に失わず、冬をやりすごしている。
その姿が、妙に春口らしく思えた。
部屋へ荷物を置き、居間へ下りると、汐里が湯気の立つ茶を出してくれた。
冬の瀬戸内の茶は、夏より少しだけ温度が大事に思える。手のひらに湯呑みをのせるだけで、外の海の冷たさと部屋の内側の暮らしのあいだに、はっきりした境界ができるからだ。
「今回は、何日くらいですか」
汐里が訊く。
「一週間ほど見ています」
「長いですね」
「今は少し仕事の区切りがついていて」
「逃げてきたわけじゃない?」
「それも少しはあるかもしれません」
湊が言うと、汐里は湯呑みを置いて小さく笑った。
「正直ですね」
「春口では、そのほうがいい気がして」
「そうですね」
しばらく、二人で黙って茶を飲んだ。
障子の向こうで、港のほうから短い汽笛が聞こえる。
そのあと少し遅れて、線路のほうから列車の音もした。
冬でも、海と鉄道は同じように町の外側を流れている。
変わるのはそのあいだに立つ人の事情だけだ。
「今回は」
汐里が言った。
「こっちから少しお願いしたいことがあります」
「何ですか」
「島へ行ってほしいんです」
「島?」
「ええ。志々島のさらに先です」
湊は少し身を乗り出した。
「そんなに遠くまで船が出ているんですか」
「今も一応、細い便はあります。ただ、本数は少ない」
「どうしてそこへ」
汐里は、すぐには答えなかった。
代わりに、引き出しから小さな封筒を一つ出した。
古いものではない。最近の封筒らしいが、紙は何度も手で持たれたせいか、角が少し柔らかくなっている。
「去年の秋、宿に一通だけ手紙が来たんです」
「誰から」
「差出人は、島の郵便局から。名前は書いてありましたけど、私は知らない人でした」
「内容は?」
「“三崎澄江さんを知っているなら、一度だけ来てほしいことがある”と」
湊は息を止めた。
澄江。
汐里の母。
第一作で千紘や父と結びついた、その名前がここでまた現れる。
「どうして今まで」
「すぐには行けなかったんです」
汐里が言う。
「母のことを、やっと少しずつ整理していた時期だったし、正直、知らない島の知らない人に呼ばれるのも少し怖かった」
「……」
「でも、年が明けてから、もう一度同じような葉書が届きました」
「同じ人から」
「ええ。“冬の便があるうちに”とだけ書いてあった」
冬の便があるうちに。
その言い方が、いかにも島の人らしかった。
観光シーズンではなく、生活の便の都合の中で時間を区切る。
しかも、澄江を知っているなら来てほしい。
そこにはきっと、春口からさらに先の時間が残っている。
「一人で行くつもりでしたか」
湊が訊くと、汐里は首を振った。
「最初はそう思ってたんですけど」
「でも」
「相沢さんが戻ってくると知って、少しだけ考えが変わりました」
「僕が」
「ええ。母の時間に触れるなら、あなたにも関係がある気がして」
「父のこととも」
「たぶん、少しは」
湊は封筒を手に取った。
中には葉書が二枚入っていた。
一枚目は短く、「三崎澄江さんを知っているなら、一度だけ島へおいでください。話しておきたいことがあります」。
二枚目はさらに簡潔だった。
「冬の便があるうちに。春になると私はたぶん話さないので」。
春になると私はたぶん話さない。
その文には、年老いた人特有の、説明を省いた切迫があった。
今なら言える。
季節が変わる前なら。
そういう時間の区切り方を、湊は第一作と第二作を通じて、少しだけ理解できるようになっていた。
「行きましょう」
湊は言った。
「そんなに早く決めていいんですか」
「たぶん、こういうのは早いほうがいい」
「……」
「春口では、便があるうちに動くのが大事なんでしょう」
汐里は一瞬驚いたようにこちらを見て、それから静かに笑った。
「ええ。だいぶこっち側の人っぽくなりましたね」
その日の午後、二人は翌日の船便を確認するため港へ下りた。
志々島を経由してさらに先の小島へ渡るには、春口から直接行けるわけではない。港の小さな案内所で確認すると、朝の列車で橘浜の先まで行き、そこから小型船へ乗り継ぎ、さらに志々島の外れの渡し場で別の便を待つ必要があるという。
聞いただけで、接続が多い。
多いということは、その分だけ待つ場所も増えるということだ。
「これ、かなり春口らしい行き方ですね」
湊が時刻表を見ながら言う。
「何がですか」
汐里が訊く。
「一つの目的地へ、まっすぐ行かせてくれない感じ」
「ええ」
汐里は頷いた。
「この辺の島はだいたいそうです。見えてるのに、すぐには行けない」
「だから人は、その途中で待つ」
「そうですね」
港の風は冷たかったが、冬の空は澄んでいた。
海の向こうに小さな島影がいくつも浮かんでいる。
そのどこかに、澄江を知る誰かがいる。
そして、その誰かは春になる前に一度だけ話したいと言っている。
湊は、第二作までの流れの上に、第三作の核がゆっくり立ち上がるのを感じていた。
春口はもう、自分と父だけの物語の場ではない。
この町からさらに外へ伸びる島々のあいだにも、戻れなかった時間や、言いそびれた記憶が残っている。
今度はその先へ行くのだ。
夕方、宿へ戻ると、空は早くも薄暗くなり始めていた。
冬の春口では、日が落ちるのが思いのほか早い。
港の灯りが一つずつ点り、レールの音が遠くで短く響く。
湊は部屋でノートを開き、今日のことを書いた。
――夏のあとに戻ってきた春口は、静かだった。
――だが、静かな町ほど、海の先の気配をよく運ぶ。
――今度は春口の中ではなく、春口から先へ行く。
――島影を見ているだけでは届かない時間のほうへ。
書き終えたところで、障子の向こうから汐里の声がした。
「相沢さん」
「はい」
「明日、朝が早いので」
「ええ」
「遅くならないうちに休んでください」
「分かりました」
そのやり取りが、以前より自然になっていることに気づく。
春口へ来るたびに、この町の時間が少しずつ自分の生活の中へ入り込んでいる。
それは居心地のよさでもあり、少しだけ怖さでもあった。
人は、繰り返し戻る場所に対して、いつの間にか責任のようなものを感じ始めるからだ。
夜、布団に入ってからも、海の先の島影を思い浮かべていた。
見えているのに届かない。
便をつなぎ、待ち、渡し、また待たなければならない。
その移動のしかたそのものが、第三作の主題なのかもしれない。
帰りたいのに帰れない人。
知っているつもりなのに辿り着けない記憶。
春口の外にある島々は、そうした“途中”をさらに細く、深くして待っているのだろう。
そして湊は、少しだけ胸を高鳴らせながら目を閉じた。
今度の旅は、もう父の遺したものに引かれて行くのではない。
春口から外へ伸びる物語の先を、自分の足で追いに行くのだ。




