第7話 雨の日の18人前
朝から降り続く雨が、レドニアの東市場を灰色にしていた。
屋根を打つ雨音は途切れず、石畳には薄い水膜が広がっている。普段なら朝の鐘が鳴る頃には買い物客で埋まる通路も、今日は荷車と店番の姿ばかりが目立った。
藤代誠吾は販売窓から外を眺め、湯気の立つ茶を一口飲んだ。
雨が降れば客足が落ちる。
日本でキッチンカーを始める準備をしていた頃から、そのくらいは覚悟していた。屋外商売なら天気も売上の一部だ。
問題は、今日のために仕込んだ食材だった。
餃子は150個。
炒飯用の米、斑羽鳥の卵、燻製肉も普段通り用意している。牙尾猪は前日に売り切ったため、回鍋肉飯は品書きから外していたが、青玉菜や香り葱の在庫は十分にあった。
冷凍できるものは冷凍すればいい。
だから、無理に売り切る必要はない。
ただ、せっかく朝から仕込んだ料理を、客が来ないからと何もせずしまうのも面白くなかった。
「雨だけは、鍋じゃどうにもならんな」
そう呟いていると、向かいの青玉菜の店主が布を頭からかぶり、小走りで火輪までやって来た。
「今日は暇そうね、セイゴさん」
「そちらもですか」
「朝のうちに宿屋へ少し売れたけど、いつもの半分くらいよ。この雨じゃ、家から出ない人の方が多いもの」
彼女は販売窓から漂う香りへ鼻を向けた。
「それでも仕込みはいつも通り?」
「天気を見て少し減らすことも考えたんですが、夜のうちはここまで降ると思っていませんでした」
「天気読みなら農家でも外すわよ。気にしても仕方ないわ」
「そういうものですか」
「そういうもの。雨が降らなきゃ野菜も育たないしね」
店主は笑い、自分の店へ戻っていった。
誠吾も販売窓を開けたまま営業を始めた。
雨でも客がまったく来ないわけではない。
市場で働く店主が餃子を買い、近くの職人が炒飯を持ち帰っていく。いつもより人通りが少ない分、店の者同士で話をしながら食べる客もいた。
それでも、昼が近づいても餃子は100個以上残っていた。
その頃、雨の向こうから見覚えのある大柄な男が走ってきた。
ダリオだった。
厚手の外套を羽織っているが、肩から下はかなり濡れている。火輪の日除けの下へ入ると、髪についた雨を手で払った。
「セイゴさん、今日は店を開けていて助かりました」
「この雨の中を来たんですか。ずいぶん濡れていますね」
「朝から荷が重なりましてね。昼を食べに抜けられない連中がいるんです。俺だけ交代で買い出しに出されました」
誠吾は市場の西側へ目を向けた。
ダリオたちが働いている荷場は、市場から歩いて10分ほどの場所にあると聞いている。
「何人分です?」
「俺を入れて18人です。ただ、全員分をここから持って帰るとなると、さすがに手が足りません。パンと干し肉を買って済ませるつもりだったんですが、火輪が開いているのを見たもので」
18人。
普段の営業なら珍しくない数だ。
だが、一度に持ち帰れる形へするとなると話は少し変わる。
「皆さん、仕事場を離れられない事情があるんですね」
「南から来た商隊の荷が予定より早く着いたんです。この雨で濡らしたくない織物が多くて、屋根のある倉庫へ全部入れるまでは手を止めにくい。交代で飯を食うつもりですが、店まで来て並んでいる時間はありません」
「温かい飯なら、仕事場で食べたいところでしょうね」
「できるなら、ですが」
ダリオは無理を頼むつもりはないらしく、そこで言葉を切った。
誠吾は厨房を見回した。
米はある。
餃子も十分すぎるほどある。
スープも温まっている。
問題は運ぶ方法だった。
18人分を皿へ盛って徒歩で持っていくのは現実的ではない。だが、火輪そのものなら動かせる。
「荷場の近くに、この車を止められる場所はありますか。荷馬車の邪魔にならず、ある程度平らな場所があれば、その場で作った方が早い」
ダリオは少し目を見開いた。
「店ごと来てもらえるんですか」
「火輪は店である前に車ですからね。市場の客も今日は少ないですし、昼の間だけなら場所を移しても問題ないでしょう」
「それなら助かります。倉庫の脇に荷馬車2台分くらい空いた場所があります。雨も建物の庇で多少避けられます」
「では市場係へ一言伝えてから行きましょう。18人分、料理はこちらで決めても構いませんか」
「仕事の合間に食べやすくて、腹にたまるものなら皆文句は言いません」
「それなら、炒飯と餃子にします。スープも付けましょう。雨の日ですから、温かい汁物があった方がいい」
「値段はいつもの組み合わせと同じで?」
「一人銅貨8枚で大丈夫です。まとめて作れる分、特別に高くする理由もありません」
ダリオはその場で18人分の代金を出した。
誠吾は数えて受け取り、販売窓へ《昼過ぎまで出張中》と書いた札を掛けた。市場係にも事情を伝えると、今日の客足なら問題ないとあっさり送り出された。
日除けと椅子を収納し、調理器具を固定する。
「ダリオさん、助手席へどうぞ。案内をお願いします」
「乗せてもらっていいんですか」
「歩いて案内してもらったら、火輪を持っていく意味がないでしょう」
「それもそうですね」
火輪は雨の石畳をゆっくり走り出した。
市場を離れて西へ進むと、町の雰囲気が変わっていく。商店が減り、代わりに大きな倉庫や荷車を止める広場が増えた。
屋根付きの荷場では、何人もの男たちが布に包んだ荷物を肩へ担いでいる。
地面は濡れていたが、倉庫の軒下だけは人が動きやすいよう板が敷かれていた。
「向こうの空き場所です。普段は壊れた荷車を置いていますが、今日は空いています」
「十分ですね」
誠吾は火輪を指定された場所へ止めた。
輪止めを置き、車体の傾きを確かめる。
販売窓を開けると、近くで荷を運んでいた男たちが次々とこちらを見た。
「本当に店を連れてきたのか」
「ダリオさんから18人分と聞いています。仕事を止められる方から順に食べてください。料理はこちらで出していきます」
誠吾は白衣と前掛けを身につけ、中華レンジへ火を入れた。
まずスープを温める。
鶏の清湯へ塩と白胡椒を加え、今日は生姜を少し利かせた。雨に濡れた身体なら、その方が口当たりもいい。
次に餃子を鉄板へ並べる。
18人へ6個ずつなら108個。
さすがに一度では焼けない。
最初に36個。その次も36個。最後に残り36個と、3回へ分けることにした。
炒飯も同じだ。
一度に大量へ走らず、鍋の温度を落とさない量で作る。
ただし普段の営業とは違い、注文内容はすべて同じだった。
聞き直す必要がない。
金の受け渡しも済んでいる。
作ることだけへ集中できる分、18人前でも思ったほど難しくはなかった。
最初の中華鍋を熱する。
燻製肉から脂を出し、斑羽鳥の卵を加える。卵の縁が膨らんだところへ米を入れ、強火で鍋を返した。
雨音の中へ、中華鍋と玉杓子の触れ合う音が響く。
醤油を鍋肌へ回した瞬間、焦がした香りが倉庫の軒下まで広がった。
荷を担いでいた男が、思わずこちらを振り向いた。
「ダリオ、その飯の話を毎日してたのは分かったが、匂いまでこんなにするとは聞いてないぞ」
「口で説明できるなら苦労しない」
「仕事を急ぐ理由が一つ増えたな」
「荷を落としてまで急ぐなよ」
笑い声が起きた。
誠吾は手を止めずに聞いていた。
仕事場の空気は嫌いではない。
厨房とは違うが、誰が何を運び、どこへ置き、次に何をするかが自然に決まっている。慣れた人間同士が身体を動かしている場所には、独特のリズムがある。
最初の6人分が出来上がった。
今日は皿ではなく、火輪に積んでいた蓋付きの深皿を使う。炒飯を盛り、餃子を添え、スープは蓋付きの椀へ注いだ。
「先に休める6人からどうぞ。餃子は中が熱いので、最初だけ気をつけてください」
ダリオが仕事仲間へ声をかけ、6人が交代で火輪のそばへ集まった。
雨に濡れた外套を脱ぎ、倉庫の庇の下にある長椅子へ腰を下ろす。
最初にスープを飲んだ男が、肩から力を抜いた。
「温かい汁があるだけで違うな」
「朝からずっと濡れてましたからね」
誠吾は次の鍋を振りながら答えた。
「生姜を少し増やしてあります。辛くするほどではありませんが、身体が冷えているときには飲みやすいでしょう」
別の男は炒飯を口へ運び、目を細めた。
「市場で食べたことはあったが、仕事場で食うと妙にうまい」
「腹の減り方が違うんでしょう」
「それもある。でも、普段は雨の日になると冷えたパンを倉庫で齧って終わりだからな」
誠吾はその言葉を覚えておいた。
2組目の6人。
そして最後の6人。
料理を出す頃には、最初に食べた者たちが仕事へ戻り始めている。
交代が自然に回るため、全員が一度に休む必要もない。
思った以上に相性がよかった。
最後にダリオが席へ座る。
「セイゴさんまで運んでもらって、いつもの値段では安かったんじゃありませんか」
「今日は市場にいても客が少なかったでしょうし、18人分まとめて注文してもらっています。十分ですよ」
「それならいいんですが」
「ただ、毎日となれば話は別です。市場を空けることになりますから、そのときは時間や数を相談させてください」
「もちろんです。こちらも毎日18人揃って頼むとは限りません」
ダリオは大人らしく、すぐ意味を理解した。
サービスで一度やるのと、商売として続けるのは違う。
誠吾もそこを曖昧にはしたくなかった。
「今日は雨のおかげで、別の売り方が分かりました」
「雨のおかげ、ですか」
「市場の客が少なかったから、こちらへ来られたでしょう。晴れていたら思いついても動けませんでしたよ」
「なるほど。俺たちは雨のせいで仕事が増えましたけどね」
「その辺りは立場の違いですね」
ダリオが苦笑した。
食事が終わる頃には、倉庫へ運び込む荷物もかなり減っていた。
そのとき、奥から一人の男が歩いてきた。
年齢は50歳前後。濃紺の上着を着ており、荷運びの者たちとは少し格好が違う。腰には鍵束と小さな帳面を下げていた。
ダリオが立ち上がる。
「親方、こちらが火輪のセイゴさんです」
「倉庫を預かっているガルムです。今日は助かりました」
男は誠吾より少し年上に見えた。
若い料理人を値踏みするような調子ではなく、同じ仕事を持つ者へ挨拶するように軽く頭を下げる。
「藤代誠吾です。こちらこそ、まとまった注文をいただいて助かりました」
「食った連中から評判を聞きました。うちは雨でなくても、昼に全員が倉庫を離れられない日が時々あります。大きな商隊が重なる日は特にそうです」
ガルムは火輪の車体を見た。
「今日のように店ごと来てもらえとは言いません。こちらから前もって人数を伝えたら、持ち帰れる形で飯を用意してもらうことはできますか」
誠吾は即答せず、少し考えた。
できるかどうかだけなら、できる。
だが、無条件で引き受ければ市場の営業とぶつかる可能性がある。
「前日までに人数が分かるなら、20人前くらいまでなら問題ありません。朝の営業分と分けて仕込めます。ただ、料理は何種類も選べる形ではなく、その日の一種類か二種類に絞らせてもらいたいですね」
「こちらとしても、一人ずつ違うものを頼む気はありません。腹いっぱい食えて、仕事へ戻りやすければ十分です」
「それなら、炒飯や回鍋肉飯のような飯物が向いています。餃子を付けることもできますが、人数が多ければ包む数との相談になります」
ガルムは納得したように頷いた。
「値段も、今日くらいならこちらで出せます。大きな荷が入る日は朝のうちにダリオへ伝えさせる。セイゴさんの都合が悪ければ断ってもらって構いません」
「その条件なら引き受けられます。毎回必ずではなく、こちらが用意できる日に、ということでお願いします」
「十分です」
握手を求められ、誠吾も応じた。
書類も長い話し合いもない。
今日実際に18人へ飯を出し、互いにどんな商売をしているかを見た後だからこそ、必要な条件だけで話がまとまった。
火輪を市場へ戻した頃には、雨脚が少し弱まっていた。
朝より人通りも増えている。
誠吾は再び販売窓を開けた。
残っている餃子は40個ほど。米もまだある。
午後から来る客へ出すには十分だった。
「お帰りなさい。ずいぶん長い買い出しだったわね」
青玉菜の店主が声をかけてくる。
「買い出しじゃなくて、今日は売りに行ってました」
「売りに?」
「荷場へ18人分です。雨で仕事を抜けられないそうで」
「店の方から客のところへ行ったの?」
「今日は暇でしたからね」
店主は感心したように火輪を見た。
「便利な車ねえ」
「俺もそう思います」
誠吾は笑い、中華レンジへもう一度火を入れた。
しばらくして、雨宿りを兼ねた客が一人、また一人と日除けの下へ入ってくる。
今日の売上が、晴れた日を上回ることはないだろう。
それでも構わなかった。
市場で待つだけでは届かなかった18人へ、昼飯を売ることができた。
さらに今後、大きな荷が入る日には20人前ほどの注文が入る可能性もできた。
雨で客が減った一日が、そのまま売上の減った一日で終わらなかった。
夕方、売上を数えてから、誠吾は小さな帳面へ書き込んだ。
荷場、18人。
次回は前日または朝に人数確認。
飯物中心、20人前程度まで。
それだけ記して帳面を閉じる。
大げさな事業計画を作るつもりはない。
ただ、誰がどんなときに自分の料理を必要としているのかは覚えておきたかった。
火輪で旅を始めたとき、誠吾が思い描いていたのは、景色のいい場所で気ままに鍋を振る暮らしだった。
実際には、雨に濡れた倉庫の脇で18人分の炒飯を作る日もあるらしい。
それも悪くない。
料理人にとって、腹を空かせた人間のいる場所が店になる。
雨音が小さくなった市場で、誠吾は最後の注文の餃子を鉄板へ並べた。




