第6話 牙尾猪の回鍋肉
森を出た藤代誠吾は、火輪を街道脇へ呼び戻すと、牙尾猪の肉をすぐ冷蔵庫へ収めた。
ゼクトに教わりながら血を抜き、内臓を外し、持ち帰れる状態まで処理してある。それでも、仕留めたばかりの獣肉を厨房へ持ち込む以上、普段以上に扱いには気を遣った。
野外で使った山刀や革手袋は厨房へ入れず、専用の収納箱へ分ける。手や腕を念入りに洗ってから、厨房用の肉まな板と包丁を出した。
食材眼で改めて確認しても、牙尾猪の肉に異常はない。
《食用可》
《毒性なし》
《鮮度:良好》
《赤身の味が濃く、皮下脂肪は中程度》
能力が安全だと教えてくれるからといって、扱いを雑にしていい理由にはならない。長く客へ料理を出してきた誠吾にとって、その辺りは考えるまでもなかった。
背肉から、傷のない部分を少量切り出す。
肉の色は家畜の豚よりかなり濃い。赤身の間に入った脂は真っ白ではなく、わずかに乳色を帯びている。指で押すと赤身には弾力があり、脂も思ったほど柔らかくない。
販売窓の外では、ゼクトが椅子へ腰を下ろして待っていた。
「さっそく味を見るんだな」
「ええ。肉を料理へ使うなら、まずそのままの味を知っておきたいですから。ただ、野生の肉ですし、中心まできちんと火は通します」
「俺は明日でも構わないぞ。仕留めた直後より、少し置いた方が肉は落ち着く」
「本格的に料理する分は休ませます。今は方向を決めるための味見ですよ」
誠吾は背肉を厚さの揃った小さな切り身にし、塩だけを薄く振った。
中華鍋ではなく、厚手の鉄板を使う。
調味料の香りや鍋肌の焦げを足すより、今は肉そのものを知りたい。
十分に熱した鉄板へ載せると、肉から脂が滲み、低い焼け音が立った。
鼻へ届いた香りは豚肉に近い。しかし、その奥に土や木の皮を思わせる、野生の獣らしい匂いが混じっている。
嫌な臭みとは違う。
だが、家畜肉と同じつもりで扱えば、その香りが料理の邪魔になることもありそうだった。
片面へ焼き色を付けて裏返し、火を少し落とす。焦がさず、中心まで十分に熱を入れてから皿へ取った。
「塩だけです。まずはこれで食べてみましょう」
ゼクトへ一切れ渡し、誠吾も口へ運ぶ。
歯を入れた瞬間、豚肉よりしっかりした弾力が返ってきた。
赤身の味が濃い。
噛むほど肉の旨味が増し、その後から皮下脂肪の力強い香りが広がる。塩だけでも十分うまいが、脂の余韻は長かった。
誠吾は急いで飲み込まず、口の中で味の残り方まで確かめた。
「赤身がいいですね。脂にも味がある。ただ、この香りを苦手にする人はいるでしょう」
ゼクトも肉を噛みながら頷いた。
「そうなんだ。俺たちは慣れてるが、町じゃ牙尾猪を避ける客もいる。臭いと言う人間もいるからな」
「消してしまうより、合う香りをぶつけた方が良さそうです」
誠吾は森で採った森葱を取り出した。
若い茎を斜めに切り、牙尾猪の脂が残る鉄板へ落とす。
ジュッ、と短い音が立った。
生で齧ったときには尖っていた青い香りが、熱を受けて一気に丸くなる。葱に似た甘い香りの奥から、ニラやにんにくにも通じる力強さが立ち上がり、牙尾猪の脂と混ざった。
軽く焼いた森葱を肉へ載せて食べる。
「なるほど。ローデルさんが獣肉に使うと言っていた理由が分かりました」
「肉の匂いに負けないだろう」
「ええ。それでいて全部を森葱の香りに変えてしまうほど強くもない。このくらいなら使いやすいですね」
今度は乾燥させた森椒を一粒だけ潰し、ごく少量を肉へ付けた。
木を思わせる深い香りが、脂の余韻をすっと切る。
山椒そのものではないが、役割としては近いところがある。
牙尾猪、森葱、森椒。
そこまで確かめたところで、誠吾の頭に一つの料理が浮かんだ。
餃子に入れても面白い。
だが、この肉の濃さを考えれば、先に試したい料理は別にあった。
「作ってみたいものが決まりました」
誠吾が肉を見ながら言うと、ゼクトは残った一切れを口へ運んでから答えた。
「もう料理の形が浮かんだなら、さすがに俺には真似できんな。どんなものにするつもりだ?」
「回鍋肉です。俺の故郷で作っていた中華料理の一つで、豚肉と野菜を発酵調味料で炒めます。一度火を通した肉を鍋へ戻して仕上げる料理ですね」
「ホイコーロー、か。名前からでは味の見当もつかないが、この肉を使うわけだな」
「ええ。普通は豚肉ですが、牙尾猪の脂と赤身なら合うと思います。ただ、頭で考えた通りになるとは限らないので、まず少量で試します」
「その辺りは料理も狩りも似てるな。獣の跡を見て予想はするが、実物がその通り動くとは限らん」
「確かに。料理なら失敗しても鍋の中で済むだけ、まだ気楽ですよ」
ゼクトの口元がわずかに緩んだ。
誠吾は残りの肉を冷蔵庫へ戻す前に、ゼクトが取り分けた量と自分が火輪へ積んだ量を確認した。
「肉の代金も決めておきましょう。森へ案内してもらって、獲物を見つけてもらい、解体まで教わった。そのうえ肉まで受け取って、飯を一度出しただけで済ませるのは商売として気持ちが悪い」
「今日の牙尾猪には、セイゴさんの槍も入っている。全部俺の獲物というわけじゃない」
「それでも、俺一人では足跡すら追えていませんよ。市場へ卸すときの値段があるなら、その価格で買わせてください」
ゼクトは少し考えたあと、普段肉屋や赤鍋亭へ卸している相場を教えた。
誠吾の感覚でも無理のない値段だった。
火輪へ積んだ重量を確認し、その場で硬貨を渡す。
「森へ連れていってもらった分については、次にお願いするときに決めましょう。継続して頼むなら、案内も立派な仕事になりますから」
「そこまできっちり考えるなら、次からも話はしやすい。今日は初めてだったし、俺も様子を見るつもりで連れていった。案内分まではいらない」
「では今日はそうさせてもらいます。ただ、飯は別ですよ。あれは代金代わりじゃなく、俺が食べてもらいたいから作ります」
「分かった。そこまで言われて遠慮するのも面倒だ」
ゼクトの返事に、誠吾も笑った。
金の話は、それで終わった。
細かな契約書を作る必要はない。互いに納得できる条件で一度取引し、続ける価値があると思えば次も頼めばいい。
火輪を走らせてレドニアへ戻った頃には、昼を少し過ぎていた。
市場の区画へ車を入れる。
今日は営業を休むと告知していたため、販売窓を開けても客席を出すつもりはない。
それでも、火輪が戻ったことに気づいた向かいの青玉菜の店主が声をかけてきた。
「お帰りなさい。ゼクトさんと一緒だったなら、山の仕入れはうまくいったみたいね」
「おかげさまで。牙尾猪が手に入りました」
「やっぱり。この季節にゼクトさんと西の森へ行ったと聞いたから、そうじゃないかと思ってたのよ」
「もうそこまで話が回ってますか」
「市場じゃ、朝の出来事が昼にはみんなの耳へ入りますよ。それで、その肉を明日の料理に使うつもり?」
「今日試して、納得できるものになれば少しだけ出します。青玉菜も合わせたいので、明日の分を多めに残しておいてもらえると助かります」
「それなら任せて。状態のいいものを分けておくわ」
「ありがとうございます」
数日前まで知らなかった土地で、欲しい野菜を頼めば翌朝には用意してもらえる。
それだけでも、商売が少しずつ根を張り始めていることが分かった。
誠吾は厨房へ戻り、牙尾猪を部位ごとに分けていった。
背肉は焼き物に向く。
腿は赤身が強く、薄切りにも餡にも使えそうだ。
回鍋肉には、赤身と脂が重なった腹に近い部位を選んだ。
本来なら肉を少し落ち着かせてから本格的に使いたい。そこで明日出す分だけを必要量に絞り、残りは状態を見ながら冷蔵と冷凍へ分けた。
回鍋肉用の肉は、大きな塊のまま湯へ入れる。
森葱の硬い部分と生姜も加えた。
野生肉である以上、生煮えで済ませる気はない。中心まで十分に火を通しながら、沸騰させ続けて肉を締めすぎないよう温度を見る。
湯の表面へ灰汁と脂が浮き、森葱の青い香りが厨房へ広がった。
頃合いを見て肉を引き上げ、粗熱を取る。
包丁を入れると、火を通した後でも赤身の色は濃い。薄切りにすれば、赤身と脂の層がはっきり見えた。
誠吾は一切れだけ食べた。
塩焼きより野性味は穏やかになっているが、肉の濃さは十分に残っている。
「これなら使えるな」
中華鍋をレンジへ載せた。
試作を始めると知ったゼクトは、まだ帰らず販売窓の外から見ている。
誠吾は日本から持ち込んでいた豆板醤と甜麺醤を調理台へ並べた。
「さっき話していた発酵調味料が、それか」
「ええ。赤い方が豆板醤です。豆と唐辛子などを発酵させたもので、辛みだけじゃなく塩気と旨味もあります。黒っぽい方は甜麺醤。こちらは甘みとコクを付ける調味料ですね」
ゼクトは豆板醤の香りを少し嗅ぎ、鼻の辺りへ皺を寄せた。
「かなり刺激があるな。こっちで言えば赤火実に近いのかもしれん」
「赤火実というのは、辛みのある実ですか」
「ああ。山の南側にも生える。乾かして煮込みへ入れる家もあるが、俺はあまり得意じゃない」
「それなら最初は辛みを抑えます。牙尾猪の味を見るための料理ですし、辛さだけが前へ出ても仕方ありません」
中華鍋を十分に熱し、少量の油をなじませる。
薄切りにした牙尾猪を入れると、一度火を通した肉から再び脂が滲み始めた。肉の縁がわずかに反り、表面へ薄い焼き色が付いたところで豆板醤を加える。
熱い脂に触れた瞬間、発酵した豆と唐辛子の香りが立ち上った。
生姜を加え、甜麺醤を絡める。
甘い味噌に似た香りへ辛みが重なったところで、大きめに切った青玉菜を入れた。
鍋を返す。
強火の中で、青玉菜の表面へ肉の脂と調味料が薄く絡んでいく。
水分を出しすぎない。
芯に近い部分の歯触りを残したまま、最後に森葱の若い茎を加える。
森葱は長く炒めない。
青い香りが丸く変わったところで火を止め、仕上げに砕いた森椒をごく少量だけ散らした。
牙尾猪を塩だけで焼いたときとは、まるで違う香りが立っている。
「同じ肉でも、ここまで変わるものなんだな」
「味を足していますからね。ただ、足したものに肉が負けたら失敗です」
誠吾は小皿へ取り分け、まず自分で食べた。
牙尾猪の濃い赤身は甜麺醤の甘さに埋もれず、脂の強さは豆板醤と森葱が受け止めている。最後に森椒の香りが残ることで、飲み込んだあとの重さも軽くなった。
青玉菜との相性もいい。
肉の濃い味を、野菜の甘みと水分がちょうど和らげている。
ただ、店へ出すには豆板醤を少し減らした方がいい。
「方向は悪くありません。もう一度だけ作ります」
「俺には十分うまそうに見えるが、まだ変えるのか」
「俺が食べるだけなら、この辛さでもいいんです。ただ、火輪へ来る客は辛い料理に慣れている人ばかりじゃない。最初から食べにくいものを出す必要はないでしょう」
「なるほど。客に合わせて肉の味まで消すわけではなく、入り口を広くするということか」
「そんなところです。辛いものが好きな人には、後から足せるようにすれば済みますから」
2回目は豆板醤を少し減らした。
甜麺醤との釣り合いも微調整し、森椒はさらに控えめにする。
もう一度味を見る。
今度は最初に牙尾猪の肉が来て、その後から甘みと辛みが追いかけた。
「これでいきます」
誠吾は炊きたての白飯を皿へ盛り、その横へ出来上がった回鍋肉をたっぷり載せた。
「飯と一緒に食べてみてください。味を濃くしているのは、そのためでもあります」
ゼクトは匙で肉と青玉菜、白飯を一緒にすくった。
一口食べる。
すぐに感想は言わず、もう一匙を口へ運んだ。今度は肉を多めに取り、三口目では白飯と青玉菜の割合を変えている。
誠吾は急かさず、その様子を見ていた。
「塩だけで焼いた肉とは、ずいぶん違うな」
やがてゼクトが言った。
「塩焼きの方が、牙尾猪そのものの味は分かりやすいです」
「そういう意味じゃない。塩焼きは肉を食ってる感じが強いが、こっちは飯まで一緒に進む。脂の多いところも、これなら重く感じにくい」
「そこは俺も狙っていました。回鍋肉は、ある程度脂がある肉の方が合います」
ゼクトは腹肉をもう一切れ食べ、しばらく考えてから口を開いた。
「それなら、今後も腹や肩まで買ってくれるなら助かる。町じゃ赤身から欲しがる店も多いから、牙尾猪は部位によって売りやすさが違うんだ」
「状態が良ければ、腹も肩も見せてもらいたいですね。回鍋肉だけでなく、餃子や別の料理にも使えると思います」
「毎回同じ量を押しつけるつもりはない。その日の獲物を見てもらって、欲しい部位だけ選んでもらえばいい。ただ、相場より安くしろと言われるなら俺も続けにくい」
「そこを値切るつもりはありませんよ。今日と同じ程度の処理がされているなら、普段の卸値を基準にしてください。状態が特に良ければ、その分を上乗せしても構いません」
ゼクトは少し驚いたように誠吾を見た。
「高く買うと言う料理人は珍しいな」
「安く仕入れることだけ考えて、次にいい肉を持ってきてもらえなくなったら、その方が困ります。俺は一度だけ使いたいわけじゃないんです」
その返事を聞き、ゼクトはゆっくり頷いた。
「分かった。いい牙尾猪が入ったら、市場へ卸す前に火輪へ声をかける。見てもらって、欲しいものがあれば売る。必要なければ今まで通り肉屋へ持っていく。それなら互いに無理がない」
「お願いします。その形なら俺も助かります」
紙を何枚も並べて条件を決める必要はなかった。
その日に獲れた肉をゼクトが持ってくる。
誠吾が状態を見て、使いたいものを適正な値段で買う。
それだけで十分だった。
ゼクトの皿を見ると、いつの間にか白飯がほとんどなくなっている。
誠吾は鍋に残っていた回鍋肉を少し追加した。
「まだ飯を入れましょうか。肉だけ残すより、その方が食べやすいでしょう」
「そこまで食わせるつもりなら、もう少しもらおう。山を歩いた後だから腹は空いてる」
「最初からそう言ってくれれば、多めによそいましたよ」
「料理人の前で大盛りを頼むのは、少し様子を見てからにしてる」
「それは賢明ですね。店によって量が違いますから」
ゼクトが笑い、誠吾もつられて口元を緩めた。
◇
翌朝、火輪の品書きに新しい料理が加わった。
《牙尾猪と青玉菜の回鍋肉飯 銅貨9枚》
その下には、料理名だけでは分からない客のため、
《一度火を通した牙尾猪と青玉菜を、甘みと辛みのある発酵調味料で炒めた料理》
と説明も添えてある。
用意したのは20食分だった。
牙尾猪が手に入ったからといって、いきなり看板料理へするつもりはない。定期的に仕入れられる量も分からず、何よりレドニアの客がこの味を好むかも確かめていない。
最初は20食あれば十分だ。
朝の客が入り始めて間もなく、ダリオが仕事仲間2人を連れてやって来た。
いつものように炒飯を頼もうとしたところで、品書きに増えた一行へ目を止める。
「セイゴさん、この回鍋肉という料理が昨日の仕入れで作ったものですか?」
「ええ。ゼクトさんと森へ入って獲った牙尾猪を使っています。元々は豚肉で作る中華料理ですが、牙尾猪にも合ったので少量だけ出すことにしました」
「辛みのある調味料と書いてありますが、かなり辛いんでしょうか」
「口へ入れた瞬間に食べられなくなるほどではありません。昨日の試作より辛みを抑えています。それでも苦手なら無理に勧めませんよ」
ダリオは少し考え、隣にいる仲間の皿――まだ何も載っていない――を見てから笑った。
「昨日店が休みだったせいか、今日は朝からかなり腹が減っています。せっかくなら回鍋肉飯を大盛りでお願いします」
「初めての料理ですから、普通盛りを食べてから追加しても構いませんよ。気に入らなかったとき、大盛りだけが残るのも困るでしょう」
「なるほど。それなら普通盛りからお願いします。足りなければ後で何か追加します」
「その方がいいでしょう」
誠吾は注文札を置き、中華鍋へ火を入れた。
牙尾猪の薄切りを入れる。
一度火を通した肉の脂が鍋肌へ滲み、縁がわずかに反ったところで豆板醤と甜麺醤を加える。
発酵した豆の香りと甘い味噌の香りが立ち上る。
青玉菜を入れて強火で返し、最後に森葱を加えた。
炒飯とは違う、濃く甘辛い香りが市場へ流れる。
向かいの青玉菜の店主まで顔を上げた。
「昨日の牙尾猪、そんな料理になったのね」
「試食しますか?」
「商売なんだから、ちゃんと買うわよ。ダリオさんの感想を聞いてから決める」
「それも賢いやり方ですね」
盛り付けた回鍋肉飯を、ダリオへ渡す。
白飯の横で、牙尾猪と青玉菜が赤褐色の艶をまとっている。森葱の緑がところどころ残り、湯気には豆板醤の香りが混じっていた。
ダリオは最初に肉だけを一切れ食べた。
ゆっくり噛む。
飲み込んでから、誠吾の方へ顔を向けた。
「思っていたほど辛くありませんね。舌に少し残るくらいです」
「食べ進めると感じ方が変わるかもしれません。飯と一緒に食べる前提で調整しています」
言われた通り、今度は白飯と一緒に口へ運ぶ。
濃い味を米が受け止める。
ダリオはその後ほとんど喋らず、肉、青玉菜、飯の割合を変えながら匙を動かした。
半分ほど食べたところで、水を一口飲む。
「このくらいの辛さなら、俺にはちょうどいいです。炒飯とは違いますが、こっちも仕事前にはありがたい」
「腹持ちの方ですか?」
「それもあります。味が濃いから飯を食った感じが強いんですよ」
それを聞いた仲間の2人も回鍋肉飯を注文した。
続いて、青玉菜の店主もやって来る。
「私も一皿お願いします。ただ、辛い料理はあまり得意じゃないから、普通の量で」
「分かりました。今の配合なら、それほど強くはありません。それでも合わなければ遠慮なく言ってください」
同じ鍋で作り、同じように出した。
店主は青玉菜と牙尾猪を一緒に食べ、何度かゆっくり噛んだ。
「青玉菜は好き。煮込みより歯応えが残ってるし、肉の脂もよく合うわね。ただ、私はもう少し辛くない方が食べやすいかな」
「ありがとうございます。辛みを抜きすぎると料理の輪郭まで変わるので、別の作り方を考えた方がよさそうですね」
「そこは料理人に任せるわ。私は青玉菜を売るのが仕事だから」
「では、次に試したときは味を見てもらいます」
「それなら喜んで」
肉屋の主人は逆だった。
食べている途中で、別添えにしていた豆板醤へ視線を向ける。
「俺はもう少し刺激があってもいいな。これを足しても構わないか?」
「もちろん。かなり辛くなるので、最初は少量にしてください」
主人はほんの少しだけ足し、満足そうに頷いた。
同じ料理でも、好みは違う。
それでいい。
全員から同じ言葉をもらうより、どこが好きで、どこが合わないのか分かる方が次の料理につながる。
20食分の牙尾猪は、昼を待たずになくなった。
回鍋肉飯を目当てに来て間に合わなかった客もいたが、何人かはそのまま餃子や炒飯を注文した。
新しい料理をきっかけに火輪へ来て、別の料理も食べていく。
店としては悪くない流れだった。
売り切れた牙尾猪の札を裏返し、誠吾はいつもの餃子と炒飯へ戻る。
洗い物の合間に市場の入口を見ると、ゼクトが立っていた。
営業を邪魔しないよう、少し離れたところから様子を見ている。
誠吾が軽く手を上げると、ゼクトも応えた。
やがて客の波が切れたところで、火輪の前まで来る。
「肉の盆が空になってるな」
「20食、全部出ました。辛さの好みは分かれましたが、牙尾猪そのものを嫌がる人はいませんでしたよ」
「それなら持ってきた甲斐がある」
「次も状態のいいものが入ったらお願いします。ただ、無理に牙尾猪だけ狙わなくていいですよ。ゼクトさんが普段の仕事で獲れたものの中から、使えそうなものを見せてもらえれば十分です」
ゼクトは頷いた。
「そう言ってもらえる方が助かる。山は店の注文通りに獲物を並べてくれないからな。牙尾猪がなければ別のものを持ってくる。そのとき見て決めればいい」
「その方が俺も面白いですよ。知らない肉なら、また最初から味を見られますから」
「やっぱり料理人だな」
「30年やっていますからね」
誠吾は空になった肉の盆を洗いながら、少しだけ笑った。
森で仕留めた一頭の牙尾猪が、料理になった。
料理を出せば、客が金を払う。
肉を持ってきたゼクトには、新しい売り先ができた。
青玉菜を売る店からは、明日も状態のいいものを仕入れられる。
火輪にも、餃子と炒飯以外に新しい料理が一つ増えた。
たった一度、森へ入ったことから、いくつものつながりができている。
誠吾がやりたかった旅は、たぶんこういうものだった。
知らない土地へ行き、知らないものを食べる。
気に入れば仕入れ、自分の料理へ変える。
それを誰かが食べ、また別の食材や人につながっていく。
中華鍋の中では、次の注文の炒飯が香ばしい音を立て始めていた。
誠吾は玉杓子を握り直し、待っている客へ声をかける。
「お待たせしました。炒飯大盛り、もうすぐ上がります」
昨日までと同じ営業だった。
けれど、火輪で作れるものも、この町で声をかけられる相手も、確実に増えていた。




