第5話 猟師と森へ
翌日の火輪は、朝から昨日以上に忙しかった。
藤代誠吾が用意した餃子は150個。前夜に皮の生地と肉の下処理まで済ませていたため、朝の作業は青玉菜を刻み、餡を仕上げて包むところから始められた。
注文札も見直した。
餃子だけ、炒飯だけ、組み合わせ、大盛り。それぞれ印を変え、受けた順番が一目で分かるよう販売台の内側へ並べる。わずかな工夫だが、客が5人、6人と重なったときの動きは前日よりずっと楽になった。
ダリオたち荷運び人は約束どおり早い時間に現れ、何人かは最初から炒飯を大盛りで頼んだ。市場の店主たちにも顔を覚えられ、初めて来る客の中には「青玉菜を包んで焼く料理をくれ」と注文する者までいる。
餃子という名前までは覚えていなくても、料理そのものは少しずつ知られ始めているらしい。
昼前になると、赤鍋亭のローデルがやって来た。
「間に合いましたか?」
「今なら大丈夫です。餃子は残り48個あります」
「昨日150個作ると言っていましたよね」
「ええ」
ローデルは販売窓の前から客席を見回し、それから空になった餃子盆の方へ視線を向けた。
「昨日より増やして、それですか。繁盛していますね」
「ありがたいことです。ただ、この辺りが今のところ1人で無理なく回せる上限でしょうね」
「その判断ができるなら安心です」
「同業者に経営まで心配されるとは思いませんでしたよ」
「長く続きそうな店には、長くいてもらった方が食べる側も得ですから」
誠吾は笑い、品書きを示した。
「今日は何にします?」
「せっかくなので、餃子と炒飯を両方。昨日教えてもらった中華料理を、自分の舌で確かめてみたい」
「分かりました。組み合わせですね」
誠吾は注文札を置き、中華レンジへ向かった。
ローデルは厨房へ入ろうとはせず、販売窓から調理を眺めている。
鉄板へ餃子を並べ、底へ焼き色をつける。そこへ水を回し、蓋をした。
「最初に焼いて、それから蒸すんですね」
「ええ。皮の底は香ばしくしたい。でも、中まで焼くだけで火を通そうとすると皮が硬くなる。だから途中から蒸します」
「最後は?」
「水分を飛ばして、もう一度底を焼き締めます」
「一皿の中で、焼く、蒸す、焼くですか」
「そうなりますね」
ローデルは興味深そうに鉄板を見た。
次に誠吾は中華鍋を熱し、燻製肉を入れる。
肉から脂が出たところで斑羽鳥の卵を流し、まだ柔らかいうちに米を加えた。鍋を返すたび、米と卵がほどけるように混ざっていく。
「その丸底の鍋にも名前があるんですか?」
「中華鍋です。昨日話した中華料理でよく使う鍋ですね」
「やはり、料理だけでなく道具も違うわけですか」
「向いている道具はあります。ただ、中華鍋がなければ絶対作れないという話でもありませんよ。俺が長く使ってきて、一番手に馴染んでいるだけです」
仕上げの醤油を鍋肌へ回す。
熱で香りが一気に立ち上がると、ローデルが小さく鼻を動かした。
「昨日、客が話していたのはこの匂いですか」
「たぶん」
「なるほど。これは通りを歩いていても気づきますね」
出来上がった料理を席へ運ぶ。
ローデルはまず餃子を一つ取り、いきなり口へ入れず、焼き目と皮の厚みをしばらく見ていた。
「同業者に食べられると、妙に落ち着きませんね」
「昨日はこちらが同じ目に遭いましたから、お互い様です」
餃子を半分に割る。
肉汁が断面へにじみ、青玉菜と肩肉の餡から湯気が上がった。
ローデルはたれを付けずに一口食べ、ゆっくり噛む。
「思ったより皮が主張しますね」
「薄くすれば軽くなりますが、この餡なら俺はこれくらいが好きです」
「青玉菜も、煮たときとは別物だ。甘いのに、まだ少し歯に残る」
「水を抜きすぎないようにしています」
「肉だけ詰めるより食べやすい。なるほど」
大げさな声は上げない。
ただ、次の餃子へ手が伸びるまでが早かった。
炒飯も一口食べ、今度は匙の中を眺める。
「燻製肉をこんなに細かくした理由も分かりました。米と一緒に口へ入れるためですね」
「最初はもう少し大きく切っていたんですが、食べてみたらこっちの方が良かったんです」
「こちらへ来てから変えた?」
「ええ。この燻製肉を使うようになったのも、レドニアへ来てからです」
ローデルが小さく頷く。
「昨日、故郷の料理だからと同じ味へ固執するわけではないと言っていましたが、こういうことですか」
「俺はそう考えています。中華料理の基本はあります。でも、この土地の材料を使うなら、その材料がうまくなる方へ変えた方がいいでしょう」
「面白いですね」
「俺からすれば、赤鍋亭の料理も同じですよ。石鱗魚を知っているから、あの焼き方になる」
「確かに」
ローデルは炒飯をもう一匙食べた。
「中華料理というのは、もっと知りたくなりますね」
「餃子と炒飯だけで終わりじゃありませんよ」
「それは昨日聞きました。次は何が出るのか、楽しみにしておきます」
「まず食材次第ですね」
「なら、明日のゼクトはちょうどいい」
その言葉に、誠吾も頷いた。
料理人が料理を食べれば、話は自然と材料へ戻っていく。
ローデルは皿をきれいに空にし、代金を払って店へ戻っていった。
結局、その日の150個も午後の早い時間にはなくなった。
だが、誠吾は翌日さらに数を増やそうとはしなかった。
むしろ翌日は営業を休むことにした。
火輪の前へ《明日は仕入れのため休み》と書いた札を出すと、ダリオには随分残念そうな顔をされたが、食材がなければ料理屋は始まらない。
今回は、金を払って買うだけの仕入れではない。
自分の足で、材料がある場所へ行く。
◇
翌朝、誠吾は日の出より少し前に赤鍋亭の裏口へ着いた。
市場の営業は休み。
火輪は収納してある。
服装も白衣ではなく、厚手の長袖と丈夫な作業用のズボンに替えていた。足元は滑りにくい靴。腰には市場の道具屋で買った山刀を吊り、厚手の革手袋も持っている。
厨房の包丁は持ってこなかった。
店で使う刃物と、土や毛皮や骨へ当てる刃物を同じにする気はない。
裏口には、すでに男が一人立っていた。
50代半ばくらいだろうか。日に焼けた顔には細かな皺が刻まれ、短く刈った灰色混じりの髪の下から、こちらを静かに見ている。
背負い籠。
弓。
腰には幅の広い山刀と、何種類かの縄。
足元の革靴は何度も修理されており、装備のどれも新品ではないが、必要な場所だけ丁寧に手入れされていた。
「ゼクトさんですか」
「そうだ。あんたがセイゴさんだな」
声は低いが、ぶっきらぼうというほどではない。
「ローデルから聞いたよ。30年鍋を振ってきた料理人が、今度は森へ仕入れに入りたいそうだな」
「ええ。ただ、こっちの山は何も知りません。今日は教えてもらうつもりで来ました」
ゼクトは誠吾の格好を上から下まで確認した。
「厨房の包丁を腰に差して来るようなら、その場で帰ってもらおうと思っていた」
「さすがに、それはしませんよ。厨房の道具は料理に使います」
「それなら一つ安心した」
ゼクトの視線が腰の山刀で止まった。
「それは昨日買った?」
「ええ。店の人に、森へ入るならこれくらいだと言われました」
「切る方はそれでいい。狩りに使うには足りないが、今日は最初から大物を追うつもりはない」
「助かります。初日から無理をする気もありません」
そこで裏口が開き、ローデルが顔を出した。
「話はついたようですね」
「料理人にしては準備がいい」
ゼクトが答える。
「料理人だから準備するんですよ」
誠吾が返すと、ローデルが笑った。
「その辺りは2人とも似ていますよ。ゼクトも山へ入る前の準備だけは細かい」
「『だけ』は余計だ」
長い付き合いなのだろう。
2人の間には、誠吾が割って入る必要のない気安さがあった。
ローデルは小さな包みを渡してきた。
「昼に食べてください。パンと昨日の灰羽鳥です」
「代金は?」
「ゼクトへの弁当と一緒に作った余りです。そこまで細かく取ると、かえって面倒でしょう」
「それなら今日はご馳走になります」
無理に硬貨を出すことはしなかった。
「帰ったら、何か作りますよ」
「そちらの方を期待しておきます」
ローデルに見送られ、2人は西門へ向かった。
町を出てから、誠吾は街道脇の広い空き地で火輪を召喚した。
何もなかった場所に車体が現れる。
ゼクトは一歩だけ足を止めた。
「……魔導車を持ち歩けるとは聞いていなかったな」
「人が乗っている状態ではしまえませんが、空なら丸ごと収納できます」
「袋や箱の収納魔術なら見たことがあるが、車をそのままというのは初めてだ」
ゼクトはしばらく火輪を眺め、それから肩をすくめた。
「便利なら使えばいい。森の中まで走らせるつもりじゃないんだろう?」
「ええ。入れるところまでです」
「なら乗せてもらおう。歩けば1時間ほどかかる」
ゼクトを助手席へ乗せ、西の街道を進む。
20分ほど走ったところで、彼から止めるよう言われた。
「ここから先は轍が細い。無理に入れば帰りに困る」
「では、ここまでですね」
道路脇に車が収まる場所を確認し、2人とも外へ出る。
ゼクトが荷物を下ろしたあとで、誠吾は火輪を収納した。
車体が消えると、ゼクトはもう一度感心したように周囲を見た。
「帰りに獲物が増えても、運ぶ場所には困らなそうだ」
「そこはかなり助かっています」
「なら今日は、持ち帰りたくなるものを見つけないとな」
ゼクトは森へ向き直った。
そこから先は、誠吾の知らない仕事場だった。
街道からわずか数十メートル入っただけで、地面の感触が変わる。
腐葉土は柔らかく、木の根がところどころ地面から浮いている。朝露を含んだ草がズボンの裾を濡らし、頭上では鳥の声がいくつも重なっていた。
誠吾は自分の身体が以前より軽いことを改めて実感した。
傾斜を登っても息が上がりにくい。
足元の悪い場所でも身体が自然にバランスを取る。
《現地仕入れ》の効果なのだろう。
だからこそ、ゼクトの後ろを歩いた。
身体が動くことと、道を知っていることは別だ。
「そこ、踏まない方がいい」
前を歩いていたゼクトが、杖の先で地面を示した。
一見すると他と変わらない落ち葉の積もった場所だった。
よく見れば、わずかに地面が沈んでいる。
「何があります?」
「水が溜まってる。底が泥だ。膝くらいまで入るぞ」
ゼクトが細い枝を刺すと、簡単に半分ほど沈んだ。
「見ただけでは分かりませんでした」
「昨日まで雨が降ってなければ俺も気にしない。山は同じ場所でも毎日少し違う」
「覚えておきます」
「全部覚えようとしなくていい。最初は、俺が止まったら自分も止まる。それで十分だ」
経験者らしい言葉だった。
しばらく進むと、ゼクトが斜面の一角で立ち止まった。
「昨日、ローデルから森葱の話を聞いたんだろう?」
「ええ」
「あれだ」
指差した先には、細長い葉を何本も伸ばした植物が群生していた。
見た目だけなら、少し太いニラにも見える。
誠吾は近づき、意識を向けた。
《森葱》
《食用可》
《毒性なし》
《若い茎は生食・加熱ともに可》
《成熟した葉は繊維が強い》
《乾燥により香気が凝縮する》
食材眼の結果と、ローデルから聞いた話が一致している。
誠吾は1本抜こうとして、手を止めた。
「根から取らない方がいいですか」
ゼクトが少しだけ笑った。
「その質問が出るなら上出来だ。今日は茎と葉が欲しいだけだろう」
「ええ」
「なら根元から少し上で切る。全部取るな。この辺は俺以外も採るし、来年も生える」
「なるほど」
誠吾は山刀を使い、若い茎を選んで切った。
切り口からすぐ強い香りが立つ。
葱に似ている。
だが、昨日赤鍋亭で嗅いだ乾燥葉より青い香りが強く、ニラとにんにくの中間のような力もあった。
少しだけ先端を噛んでみる。
「生だと、かなり強いな」
「火を入れると丸くなる。肉の脂にはよく合う」
「これは試したくなりますね」
「料理人は皆そう言う」
ゼクトは慣れた様子で答えた。
必要な分だけ採り、籠へ入れる。
さらに進むと、今度は赤い実のついた低木を見つけた。
「酸実だ」
昨日、石鱗魚のソースに使われていたものだった。
熟した実を1つもらい、薄く皮を破って味を見る。
強い酸味が舌を締めた。
「これは確かに、そのまま食べるものじゃないですね」
「子供は罰遊びで食うがな」
「俺は料理に使う方で十分です」
何粒か採る。
市場で金を出せば買えるものだ。
それでも、どんな枝に実り、どの程度熟したものを採るのかを知ると、昨日までとは見え方が変わった。
さらに森の奥へ入ったところで、ゼクトが急に足を止めた。
誠吾も止まる。
ゼクトは何も言わず、地面へしゃがんだ。
湿った土に、2つに割れた蹄の跡がある。
「牙尾猪ですか?」
「そうだ」
ゼクトは跡の縁を指で触った。
「まだ新しい。朝になってからここを通ってる」
「どこで新しいと?」
「土がまだ乾いていないのと、縁が崩れてない。こっちを見てみろ」
少し先では、地面が鼻先で掘り返されたように乱れていた。
木の根元にも泥が付着している。
「身体を擦った跡ですか」
「そうだな。こいつはそこまで大きくない。若い雄だと思う」
「大きくないと言っても、どれくらいでしょう」
「60から70キロくらいかな」
「十分大きいですよ」
「人間よりは軽い」
「比較の問題でしょうか」
ゼクトが喉の奥で笑った。
「初日に狙うつもりはなかった。ただ、風向きはいい」
彼は小さな布切れを取り出し、指先から離した。
布は誠吾たちの方から、足跡の続く方向とは逆へ流れていく。
「向こうへ匂いが行っていない?」
「そういうことだ。見るだけ見てみるか?」
「お願いします」
「なら、ここから声を落とす」
ゼクトの雰囲気が変わった。
誠吾も余計なことを言わず、その後ろへ続く。
歩く速度は遅い。
足を置く場所まで選んでいる。
乾いた枝を避け、風が変わるたびに止まる。
食材眼は何も教えてくれない。
身体強化も、獣がどちらへ進んだかまでは教えてくれない。
ゼクトが折れた草を見て進路を変えるたび、誠吾には自分が知らない世界の広さがよく分かった。
10分ほど進んだところで、ゼクトが片手を上げた。
木々の向こうから、土を掘る音がする。
ゆっくり覗く。
黒褐色の獣がいた。
見た目は確かに猪へ近い。
だが、肩の位置が高く、鼻先から伸びる牙は日本の猪より太い。そして尾の先には、拳ほどの硬そうな塊がついていた。
牙尾猪。
食材眼を向ける。
《牙尾猪》
《食用可》
《毒性なし》
《若齢個体》
《赤身の味が濃く、皮下脂肪は中程度》
《内臓の一部も食用可》
食べられる。
だが、それだけだった。
仕留め方は出てこない。
ゼクトが誠吾の耳元で囁く。
「今日は見るだけでもいい」
「もし獲るなら?」
「俺なら弓で肺を狙う。だが、あんたは弓を使えないだろう」
「ええ」
「槍なら?」
「ほとんど経験はありません」
「正直でいい」
ゼクトは背負い籠の横から、短めの狩猟槍を抜いた。
「俺が貸す。穂先を見ろ。牙尾猪なら、ここを狙う」
自分の胸の少し後ろを指す。
「前から無理に突くな。頭と肩の骨が硬い。横を取れれば、この辺りだ」
「分かりました」
「ただし、仕留めようと思うな。今日は構え方を見るだけでも十分だ」
誠吾は槍を受け取った。
思ったより重い。
しかし、両手で持てば不思議なほど安定した。
身体が道具の重さを受け止めてくれる。
ゼクトが少し眉を動かした。
「その持ち方、初めてにしては落ち着いてるな」
「身体だけは妙に動くんです。知識はありませんよ」
「なら、身体に知識を追いつかせろ。それまでは勝手に前へ出るな」
「了解です」
ところが、その直後だった。
牙尾猪が顔を上げた。
風が回った。
鼻先がこちらへ向く。
「気づかれた」
ゼクトの声が低くなる。
獣は逃げなかった。
前脚で土を掻き、頭を低くする。
「下がれ。走るな」
誠吾は言われた通り、ゆっくり一歩だけ下がった。
次の瞬間、牙尾猪が地面を蹴った。
速い。
60キロを超える身体が、低い位置から一直線に迫ってくる。
普通なら恐怖で身体が固まったかもしれない。
だが、誠吾には動きが見えた。
《現地仕入れ》の補助なのだろう。
どこへ避ければいいかまで教えてくれるわけではない。それでも、獣の肩が沈み、踏み込む脚が見える。
「右へ!」
ゼクトの声。
誠吾は迷わず従った。
半歩、さらに一歩。
牙が服の前を通過する。
獣が勢いのまま身体をずらし、向きを変えようとする。
「今だ、肩の後ろ!」
誠吾は槍を構え直した。
料理人の包丁とはまるで違う。
だが、狙う場所は教わった。
余計なことはしない。
踏み込み、両手で槍を突き出す。
穂先が硬い皮を抜けた。
重い衝撃が腕へ返ってくる。
以前の身体なら押し負けていただろう。
今は耐えられた。
牙尾猪が大きく身を捩る。
尾の硬い塊が横へ振られ、誠吾は槍から手を離して距離を取った。
ゼクトの矢が飛んだ。
首の付け根へ深く刺さる。
獣は数歩進み、地面へ倒れた。
しばらく脚を動かしていたが、やがて止まった。
森が急に静かになる。
誠吾は息を吐いた。
怖くなかったわけではない。
むしろ、終わってから心臓が速く打ち始めた。
「無事か?」
ゼクトが近づく。
「ええ。服にも穴はありません」
「上出来だ。俺が横から射る前に、きちんと急所へ入ってる」
「場所を教えてもらったからです」
「教えたからと、突っ込んでくる牙尾猪に槍を出せる人間ばかりじゃない」
誠吾は倒れた獣を見る。
「俺1人だったら、そもそもあそこまで近づけませんでしたよ。足跡も風も分からなかった」
ゼクトは一度だけ頷いた。
「それを忘れなければいい」
褒めすぎもしない。
だから誠吾も余計に気負わずに済んだ。
「ここからが本当の仕入れだ」
ゼクトはそう言って山刀を抜いた。
「まず血を抜く。肉をうまく持ち帰りたいなら、仕留めたあとにのんびり眺めている時間はない」
「教えてください」
誠吾も、自分の山刀を取り出した。
野外で獣を解体するのは初めてだった。
ゼクトに言われた位置へ刃を入れる。
硬い皮へ触れた瞬間、《現地仕入れ》のもう一つの助けを感じた。どの角度なら刃が入りやすいか、関節がどこで動くのかが、手の感覚として妙に分かりやすい。
それでも勝手には進めない。
「次は?」
「腹を開く。ただし、深く刺すな。腸を破れば肉へ匂いが回る」
「この角度ですか」
「そう。そのまま皮だけを持ち上げろ」
誠吾は指示通りに刃を滑らせた。
厨房で肉を切るのとは違う。
まだ温かい身体から内臓を外し、食べられるものと食べないものを分ける。可食部を汚さないよう手を替え、刃についたものを拭く。
ゼクトは手を出しすぎなかった。
危ないところだけ止め、理由を説明する。
「肝は食える。ただ、色と匂いを見る。変なら捨てる」
「こいつは?」
「問題ない」
誠吾も食材眼を使って確認した。
《食用可》
《鮮度:良好》
能力とゼクトの判断が一致する。
それが面白かった。
「料理人の手だな」
ゼクトが、誠吾の刃の使い方を見ながら言った。
「肉になってからなら慣れています。ここまでは初めてです」
「初めての割には、食えるところを傷つけない」
「そこだけは、何となく手に分かるんです」
「便利な身体だな」
「俺もそう思います。ただ、順番を知らなければ使いようがありません」
「なら覚えて帰れ」
余分な部分を処理し、持ち帰れる状態へ整えた頃には、誠吾の額に汗が滲んでいた。
戦った時間より、こちらの方がずっと長い。
最後に肉を布へ包む。
「持てるか?」
ゼクトが聞いた。
誠吾はかなりの重量がある肉を持ち上げてみた。
両腕には重さがかかる。
だが、運べないほどではない。
「いけますね」
「……料理人の荷物じゃないな、それは」
「鍋も米も、結構重いですよ」
「その程度の話じゃないと思うが」
ゼクトが初めて呆れたように笑った。
来た道を戻る途中、誠吾は森葱と酸実の入った籠を見た。
そして肩には、さっきまで森を歩いていた牙尾猪の肉がある。
市場で買う食材とは違った。
どこで生えていたか。
どういう場所を獣が歩くのか。
仕留めてから肉になるまでに、どれだけの手間がかかるのか。
自分で見たことで、同じ肉でも扱い方が少し変わる気がした。
森を出たところで火輪を呼び戻す。
冷蔵庫へ牙尾猪の肉を収めると、ゼクトが販売窓から中を覗いた。
「で、それをどうする?」
誠吾は少し考えた。
餃子へ入れる案は、すでに頭の中にある。
森葱も使ってみたい。
森椒との相性も確かめたい。
だが、最初から調味料で味を作る気にはならなかった。
「まず、塩だけで焼きます」
「料理人なのに?」
「料理人だからですよ」
誠吾は冷蔵庫の扉を閉めた。
「肉そのものの味を知らないまま、料理を決めるわけにはいきませんから」
ゼクトはしばらく誠吾を見たあと、満足そうに頷いた。
「それなら、俺も一口もらおうか」
「もちろん。獲物を見つけたのはゼクトさんですからね」
火輪の厨房には、異世界へ来て初めて自分の手で仕入れた肉が収まっている。
まず食べる。
それから、何を作るか決める。
30年続けてきた料理人の仕事は、森へ入っても結局そこから始まるらしい。




