第4話 赤鍋亭の晩飯
夕方の鐘が鳴る少し前、藤代誠吾は翌日の仕込みをいったん切り上げた。
青玉菜は150個分を確保し、肩肉も肉屋から受け取ってある。餃子の皮に使う生地はすでに練り、乾かないよう包んで冷蔵庫へ入れた。朝からすべて始めるより、ここまで済ませておけば余裕を持って営業に入れる。
やろうと思えば、今夜のうちにもっと進められた。
だが、今日は赤鍋亭へ行く約束がある。
レドニアへ来てから、自分の料理はずいぶん作った。城門の近くで豆と肉の煮込みを食べ、朝市でも食材をいくつか味見したものの、この土地の料理について知っていることはまだ少ない。
せっかく30年勤めた店を辞め、知らない土地の料理を食べて回ろうと旅に出たのだ。
異世界へ来たからといって、自分の餃子と炒飯ばかり作っていては意味がない。
「店を閉めたら、今度は俺が客だな」
白衣を脱いで手を洗い、厨房を片づける。
市場係には外出すると伝え、火輪は借りている区画へ残した。人の多い市場で突然車体を消す必要もない。戸締まりさえしておけば、少なくとも今のところ治安に不安を感じる町ではなかった。
南通りまでは歩いて10分ほどだった。
夕暮れのレドニアは、朝市とは別の顔を見せている。
串へ刺した肉を炭火で焼く店から脂の焦げる香りが漂い、その向こうでは平たいパンが窯から次々と取り出されていた。大鍋では貝に似たものが香草と一緒に煮え、仕事帰りの人々が酒場や食堂へ流れ込んでいく。
開け放した扉からは笑い声や食器の触れ合う音が漏れ、通りを歩くだけで腹を刺激された。
何軒か覗いてみたい店もあった。
それは明日以降の楽しみに取っておく。
小さな広場へ出ると、軒先へ赤く塗った鉄鍋を吊るした店が見つかった。
石造りの2階建てで、看板には《赤鍋亭》とある。
派手な店ではない。
それでも扉の開閉は絶えず、地元の客が次々と入っていく。長く続いている店には、外から見ても何となく分かる空気があった。
誠吾が扉を開けると、温かな空気と一緒に焼いた肉と煮込みの香りがまとわりついた。
10卓ほどある木の机は、すでに7割ほど埋まっている。仕事帰りらしい職人もいれば、年配の夫婦や子供を連れた家族もいた。酒を飲むだけの店というより、きちんと夕食を食べに来る客が多いようだった。
奥には、厨房と客席をつなぐ大きな受け渡し口がある。
その向こうで大鍋を見ていたローデルが、誠吾に気づいた。
「いらっしゃい、セイゴさん。来てくれましたか」
「約束しましたからね。今日は客としてお願いします」
「もちろん。その方がこちらも気楽です」
昼間と同じ焦げ茶色の前掛け姿だったが、営業中の顔は少し違う。
話しながらも鍋から完全には目を離さず、横を通った給仕へ料理を渡し、そのまま次の注文へ手を伸ばしている。25年店を続けてきたという話は、厨房での動きを見るだけでも納得できた。
「空いている席へどうぞ。こちらで何品か見繕っても?」
「お願いします。この町でよく食べられているものがいいですね」
「分かりました。量は普通で?」
「ええ。明日の仕込みがありますから、動けなくなるほどは勘弁してください」
「そこは心得ています。商売相手を食わせすぎて働けなくしたら、こちらも餃子を食べ損ねますから」
「それは困りますね」
誠吾が笑うと、ローデルも口元を緩めて厨房へ戻った。
入れ替わるように、料理皿を抱えた女性が出てくる。
ローデルと同じくらいの年齢だろう。灰茶色の髪を後ろでまとめ、洗い込まれた前掛けを身につけている。
「あなたが市場のセイゴさんですね」
「藤代誠吾です。お邪魔します」
「妻のミレナです。亭主から聞いていますよ。市場へ変わった料理を出す店が来たって」
「俺の方も、赤鍋亭はこの町で25年続いていると聞きました」
「気づけばそんなになりますね。こちらへどうぞ。今は一番忙しい時間ですから、亭主との料理談議は客足が落ち着いてからにしてください」
「その方がいいですよ。営業中に厨房の手を止めるのは、こっちまで落ち着きません」
ミレナは納得したように笑い、厨房が見える壁際の席へ案内してくれた。
腰を下ろして店内を眺める。
客へ運ばれていく料理は思った以上に種類が多かった。
骨付き肉と豆の煮込み、大きな魚を丸ごと焼いたもの、根菜を潰して焼き固めた料理。香草をたっぷり混ぜた卵料理らしいものもある。
どれも見慣れない。
それでも、雑に作られていないことは見れば分かった。
大皿へ適当に盛って終わりではなく、料理ごとに器を変え、付け合わせも違う。厨房から料理が出るたび、ローデルやミレナが一度皿へ目をやってから客へ渡していた。
しばらくすると、最初の料理が運ばれてきた。
平たい陶器の中央へ、手のひらほどの白身魚が載っている。
頭と中骨は外してあるものの皮は残され、表面には細かな切れ目が等間隔に入っていた。皮は薄く焦げ、縁がわずかに反り返っている。
横には淡い緑色のソースが添えられていた。
「石鱗魚の皮焼きです」
ミレナが皿を置いた。
「北を流れる川でよく獲れる魚です。名前の通り鱗が硬いので、処理には少し手間がかかりますけどね」
「いただきます」
誠吾は魚へ意識を向けた。
《石鱗魚》
《食用可》
《毒性なし》
《鮮度:良好》
《白身。脂肪分は少なめ》
《皮下に旨味が多い》
《鱗は硬く、そのままでは食用に不向き》
食材眼が教えるのは、素材そのものについてだけだ。
どう焼けばうまいか。
どんな味付けが合うのか。
そこまでは出てこない。
誠吾はフォークを入れた。
皮が小さく割れる。
その下の白身には、しっかり水分が残っていた。
一口食べると、まず皮の香ばしさが来た。塩は強くなく、淡い身の甘みを邪魔しない。脂の少ない魚なのに、中心まで硬くなってはいなかった。
続いて緑色のソースを少し付ける。
青い香草の香りと、はっきりした酸味。その尖りを油が丸く包んでいる。
「うまいですね」
思わず言葉が出た。
ちょうど別の皿を運んできたミレナが足を止める。
「口に合いました?」
「ええ。皮をかなり丁寧に扱っていますね。焼く前に少し乾かしていますか?」
ミレナの目がわずかに変わった。
「そこまで分かります?」
「この魚、水分が多いまま焼いたら皮がここまで軽くならないでしょう。切れ目も、身を反らせないためですよね」
「朝に仕入れて鱗を落としたあと、塩をして風へ当てています。しばらくしたら浮いた水を拭いて、注文が入るまでは冷やしておくんです」
「なるほど」
誠吾はもう一口食べた。
奇抜な料理ではない。
魚の特徴を知り、その魚が一番うまくなるよう手をかけている。
こういう料理は好きだった。
「このソースの酸味は何です?」
「酸実ですよ。赤い小さな実で、そのまま齧るとかなり酸っぱいです」
「市場にも?」
「香草を売っている辺りなら、この時期はたいていあります」
「明日見てみます」
ミレナが笑った。
「食べながら、もう仕入れのことを考えてますね」
「料理をやっていれば、そうなりませんか」
「なります。だから亭主と市場へ行くと時間がかかるんですよ」
厨房へ目をやると、ローデルは会話が聞こえていたらしく、苦笑しながら鍋を混ぜていた。
石鱗魚を食べ終える頃、次の料理が来た。
今度は小ぶりの土鍋だった。
蓋を取った瞬間、熱い湯気と一緒に、鶏に似た肉と炒めた玉葱の濃い香りが立ち上る。
骨付きの肉、白い豆、橙色の根菜。それらが乳白色に近い煮汁へ沈み、表面には細かな脂が浮いていた。
「灰羽鳥と白豆の煮込みです。うちでは昔からよく出しています」
ミレナが深皿へ取り分けてくれる。
「城門の近くでも肉と豆の煮込みを食べましたが、ずいぶん違いますね」
「同じような材料でも、店や家で作り方は変わります。うちは亭主が鳥を先に焼きますから」
それを聞いてから、煮汁を一口飲む。
鳥の旨味は濃いが、脂はしつこくない。豆の甘さと、よく炒めた玉葱の香ばしさが煮汁へ溶けている。
そして、飲み込んだあとに知らない香りが残った。
辛いわけではない。
舌を刺すほどの刺激もないのに、木を思わせる深い香りが肉の後味を締めている。
「この香りは?」
客足が少し落ち着いたらしく、ローデルが小さな器を手に客席へ出てきた。
中には、黒紫色の乾燥した実が入っている。
「森椒です。森の縁でも採れますが、うちでは猟師から買っています」
誠吾は1粒受け取り、指先で軽く割って香りを嗅いだ。
山椒に似たところはある。
ただし柑橘の爽やかさは弱く、その代わりに木や湿った土を思わせる香りが濃い。
食材眼を向ける。
《森椒》
《食用可》
《毒性なし》
《乾燥した果実を香辛料として使用》
《少量で強い香気を与える》
《加熱により刺激が弱まり、香りが残る》
「面白いですね。煮込んでも香りが死なない」
「ええ。ただ、入れすぎると肉より森椒を食っているような味になります」
「香辛料はだいたいそういうものですよ」
「違いない」
ローデルは笑い、向かいの椅子へ腰を下ろした。
完全に休憩へ入ったわけではない。厨房から注文の声が聞こえれば、すぐ戻れるよう身体の向きは半分そちらへ残している。
誠吾には馴染みのある座り方だった。
「昼にセイゴさんの厨房を見ましたが、ずいぶん強い火を使うんですね」
「中華は、強火を使う料理が多いです。ただ、何でも強ければいいわけじゃありません」
ローデルが、そこでわずかに首を傾げた。
「中華、というのは?」
誠吾は一瞬だけ考える。
自分にとっては30年間当たり前に使ってきた言葉だが、こちらの人間が知っているはずはない。
「俺の故郷にある料理の系統です。中華料理、と呼んでいました。炒める、煮る、蒸す、揚げると色々ありますが、強い火で短時間に仕上げる料理も多い」
「なるほど。餃子や、あの米を炒めた料理も、その中華という料理なんですか」
「ええ。米の方は炒飯といいます」
「チャーハン」
ローデルは発音を確かめるように一度繰り返した。
「客から名前は聞いていましたが、そういう料理の一つだったんですね」
「餃子もそうです。もっとも、中華料理といっても土地や店でかなり違います。俺が作っているのも、俺が働いてきた店で覚え、自分なりに作ってきたものです」
「それは、こちらでも同じですな。レドニアの料理と言っても、隣の家と同じ味ではない」
「そういうことです」
ローデルは納得したように頷き、それから昼に見た火輪の厨房を思い返すように少し目を細めた。
「では、炒飯という料理も、あの強い火で?」
「特に火力が欲しい料理ですね。強い火で短く仕上げます。ただし、鍋へ入れる量を欲張らないことも大事です」
「火が強ければ、大量に作れるというわけではない?」
「むしろ入れすぎれば鍋の温度が落ちます。米の水分が抜けず、重くなる。強い火を使うことと、火に任せることは別です」
「なるほど」
ローデルの視線が、料理人のものへ変わった。
「うちは米を使うなら、肉汁で炊くか、煮込みへ入れる方が多い。炒めることはあっても、あそこまで短い時間では仕上げません」
「それもうまそうですね」
「今度作りましょうか」
「ぜひ。その代わり、明日は餃子が残っている時間に来てください」
「今日、昼には売り切れたんでしょう?」
「ありがたい話ですが、150個に増やしてもどうなるか分かりません」
「それ以上は増やさないんですか?」
「売れ方を見てからですね。俺1人で作って、注文を取り、鍋も振る。数だけ増やして料理が雑になったら、売れた意味がないでしょう」
ローデルはすぐに頷いた。
「同感です。客が増えると、つい席や料理を増やしたくなるんですがね」
「経験がおありで?」
「ありますよ。店を始めて3年目だったかな。客が増えたのが嬉しくて席を倍近くまで増やした。人も育っていないのに料理の種類まで増やしてね」
「だいたい、その先は想像できます」
「客を待たせて、料理の出来までぶれた。売上は増えたのに、常連から『前の方がよかった』と言われましてね。半年もせずに席を減らしました」
誠吾は苦笑した。
「俺も雇われていた頃に似たことをやりました。宴会の予約を断るのが惜しくて詰め込みすぎた。帳面だけ見ればいい夜でしたが、厨房からすれば二度とやりたくない営業でしたよ」
「長く料理屋をやっていれば、一度くらいは欲をかきますか」
「その一度で覚えれば、まだましでしょう」
「まったくです」
同じくらいの年齢で、同じように長く厨房へ立ってきた男同士だった。
使う食材も、作ってきた料理も違う。
それでも、仕入れがあり、仕込みがあり、客から注文を受け、金をもらって皿を出す。
そこで起きる失敗には、案外似たものがある。
誠吾は煮込みの鳥肉へフォークを入れた。
骨から簡単に外れるほど柔らかい。それでいて、肉そのものの味は煮汁へ抜け切っていなかった。
「これ、煮込む前に皮を焼いていますね」
「やはり分かりますか」
「煮汁に焼いた脂の香りが残っています。それに、この鳥ならそのまま煮ると、もう少し脂が重くなりそうです」
「皮側だけ先に焼き、出た脂を少し捨てます。そのあと同じ鍋で玉葱を炒め、水を入れて肉を戻す」
「豆は途中から?」
「ええ。根菜はもっと後です。朝から全部入れたら、夕方には形がなくなりますから」
「ですよね」
何でもないことのように話している。
だが、その何でもない仕事を毎日きちんと積み重ねるのが料理屋だった。
25年店を続けている理由が、料理を食べるほど分かってくる。
「灰羽鳥そのものもうまいですね」
「店で使うのは飼育したものです。野生の灰羽鳥は、もっと味が濃いですよ。ただし、よく動く分だけ肉は硬い」
「それも食べてみたいですね」
ローデルが少し笑った。
「やはり、そちらへ興味が向きますか」
「知らない食材の話を聞けば、料理人なら気になるでしょう」
「それなら、紹介したい男がいます」
ローデルは卓上の森椒を指先で転がした。
「ゼクトという猟師です。この森椒も、うちで使う山の食材も、かなりの部分をあの男から仕入れています。鳥、茸、野草、小型の魔獣まで、食えるものには詳しい」
「本人が森へ入って採るんですか?」
「ええ。西の森で20年以上やっています。私も材料としては知っていますが、山のことならゼクトの方が何倍も詳しい」
誠吾の興味が、一段深くなった。
「会わせてもらえますか?」
「明後日の朝に荷を持ってくる予定です。急ぎでなければ、そのとき紹介しますよ」
「ぜひお願いします」
返事をしてから、誠吾は続けた。
「俺も、いずれ自分で食材を採りに行きたいと思っているんです。ただ、この土地の山を知らないまま1人で入る気はありません」
ローデルの目に、わずかに感心した色が浮かんだ。
「それなら話は早い。森へ入った経験は?」
「故郷で山菜を採ったことはありますが、この辺りの獣も地形も知りません。獲物を仕留める力があったとしても、山を知っていることとは別でしょう」
「その通りです」
ローデルは椅子の背へ少し身体を預けた。
「旅人の中には、自分が強ければ森でも何とかなると思う人がいる。だが、雨の後にどの沢が危ないか、どの獣が群れで動くか、どこまで入れば日暮れまでに戻れないか。そういうことは腕力だけでは分からない」
「俺は料理人です。山で20年食ってきた人と張り合う理由はありませんよ。教えてもらえるなら、その方が早い」
「ゼクトも、そういう人なら嫌がらないでしょう」
誠吾は《現地仕入れ》のことを思い出した。
この世界へ来てから、以前より身体は明らかに動く。重いものを持っても疲れにくく、端末の説明が正しければ、小型や中型の獲物なら自分でも仕留められる。
食材眼もある。
毒の有無や食べられる部分まで分かる。
だが、どこへ行けば獲物がいるかまでは教えてくれない。
足跡の古さも、風向きで変わる獣の動きも、森の中で安全に夜を越す方法も知らない。
便利な能力を得たからといって、自分が何十年も山へ入ってきた猟師になったわけではなかった。
「ゼクトさんは、今の時期だと何を獲るんです?」
「牙尾猪が多いですね。運がよければ角兎も持ってきます」
「牙尾猪というのは、猪に近い獣ですか?」
名前から勝手に決めつけるのを避け、誠吾は先に尋ねた。
「見た目はかなり近いです。ただ、尾の先に硬い突起があって、追い詰めるとそれを振り回す。家畜の豚より気性も荒い」
「肉は?」
「赤身の味が濃い。もう少し季節が進むと脂が増えますが、今くらいなら赤身との釣り合いがいいですよ。独特の匂いがあるので、森椒や森葱と合わせることが多い」
「森葱?」
「山に生える野草です。普通の香り葱よりずっと香りが強い。生の葉は硬いですが、若い茎は焼けば食えるし、葉を乾かして肉料理へ使うこともあります」
誠吾はそこで少し黙った。
まだ食べてもいない牙尾猪の味を、勝手に決めたくはない。
それでも料理人の頭は、聞いた情報から自然に組み合わせを考え始める。
脂が強すぎない猪に近い肉。
香りの強い野草。
森椒。
青玉菜と合わせればどうなるのか。
餃子へ使えるかもしれない。
あるいは、最初は余計な味をつけず焼いた方が、肉そのものを理解できる。
「まずは肉だけで食べてみたいですね」
「それがいいでしょう」
ローデルも迷わず答えた。
「ゼクトなら獲物の処理も見せてくれると思います。こちらは料理する側ですが、血抜きや解体前の扱いまで含めれば、猟師から教わることは多い」
「そこが知りたいんです。厨房へ届いてからだけ知っていても、その前で扱いを間違えたら肉は戻りませんから」
ローデルは静かに頷いた。
「セイゴさんとは、仕入れの話もできそうだ」
「料理屋なら、皿の上だけが仕事じゃないでしょう」
「まったくです」
厨房からミレナの声が飛んだ。
「ローデル、話が長くなるなら皿を3番へ持っていって!」
「今行く」
ローデルはすぐに立ち上がった。
「続きはまた今度にしましょう」
「営業が先です。その方が安心しますよ」
「同業者を客にすると、こういうところまで見られるから困る」
「俺も明日同じ目に遭います」
そう言って別れると、ローデルはもう厨房の顔へ戻っていた。
誠吾も残った煮込みをゆっくり食べる。
最後に出てきたのは、白い乳菓子だった。
山羊に似た家畜の乳を固めたものらしく、柔らかな酸味がある。そこへ琥珀色の樹液蜜が細くかけられ、魚と煮込みを食べたあとでも重くない程度の甘さに整えられていた。
「これもいいですね」
空いた皿を下げに来たミレナへ言うと、彼女が笑った。
「甘いものも作るんですか?」
「専門ではありませんが、杏仁豆腐や胡麻団子くらいなら作ります」
「アンニンドウフ?」
聞き慣れない言葉だったらしく、ミレナが首を傾げた。
「俺の故郷で食べていた冷たい甘味です。乳に似た白い見た目で、杏の種に近いものの香りを使います」
「へえ。それは食べたことがありません」
「材料が揃えば、そのうち火輪でも出してみますよ」
「では、そのときは早めに行かないといけませんね。今日みたいに売り切れたら困るから」
「甘味まで昼前に売り切れるようになったら、そのときは本気で人手を考えます」
ミレナが声を立てずに笑った。
食事を終えた頃には、店内の混雑も一段落していた。
誠吾は財布を取り出す。
「いくらです?」
「魚、煮込み、パン、乳菓子で銅貨12枚です」
ローデルが厨房から答えた。
言われた通りの硬貨を置く。
「思ったより安いですね」
「材料代も手間も入っています。その値段で25年やって、まだ店がありますから」
「それなら、余計な口は出さないでおきます」
「助かります。同業者の客は、自分の店の原価まで持ち出して値段を考え始めるから面倒なんですよ」
「それはお互い様でしょう」
「違いない」
同業だから奢ると言われるより、誠吾にはこの方がありがたかった。
料理は商品だ。
食べたなら、決められた金を払う。
それでいい。
席を立つと、ローデルが受け渡し口から顔を出した。
「セイゴさん。明日は私もそちらへ行きます」
「店は大丈夫なんですか?」
「昼前ならミレナと息子で回せます。25年やっていますから、その辺りはちゃんと考えますよ」
「それなら止めません。ただ、餃子が残っている保証はありません」
「150個へ増やすんでしょう?」
「ええ。でも今日の客がまた来ると言っていましたからね」
「では早めに行くことにします。中華料理というものを、今度はこちらが客として確かめたい」
さきほど説明した言葉を、ローデルはもう自然に使っていた。
誠吾は少しだけ口元を緩める。
「お待ちしています。餃子と炒飯だけで中華全部を判断されると困りますけどね」
「25年料理をしています。一皿で全部分かった気になるほど若くはありませんよ」
「それを聞いて安心しました」
2人で笑った。
赤鍋亭を出ると、外はすっかり夜になっていた。
石畳へ店先の灯りが落ち、昼間とは違う暖かな色で通りを照らしている。酒場からはまだ賑やかな声が漏れ、遅い客を相手にする屋台の火も消えていなかった。
腹は十分に満ちている。
それ以上に、知りたい食材が増えていた。
石鱗魚と酸実。森椒、森葱、灰羽鳥。そして牙尾猪。
だからといって、明日から全部を自分の料理へ放り込むつもりはない。
珍しい食材だから使うのではなく、うまくなるなら使う。
まず土地の人間がどう食べているかを知り、自分でも素材そのものを味わう。そのうえで餃子や炒飯に合うと思えば試せばいい。
30年料理を続けても、知らない食材はいくらでもある。
ここでは、それが毎日のように増えていく。
「旅に出た甲斐はあったな」
予定していた旅先とは、ずいぶん違ってしまったが。
誠吾はそんなことを考えながら市場への道を戻った。
明日は150個の餃子を包み、戻ってくる客へ飯を出す。
その翌朝には、山の食材を知る猟師と会える。
火輪の明かりが見えてくる頃には、食後の満腹感より、次に何を食べられるのかという興味の方が少しずつ勝ち始めていた。




