第21話 牙尾猪は、甘酢で食わせる
ゼクトが火輪へ肉を持ってきたのは、誠吾が朝の仕込みに取りかかった頃だった。
東市場ではまだ荷車が行き交い、向かいの店では日除けの布を張っている。誠吾は包みかけの餃子へ乾燥を防ぐ布をかぶせ、手を洗ってから販売窓へ回った。ゼクトの荷車には蓋付きの箱が載り、その隙間に冷却用の氷が詰められていた。
「エルダのところで、戻ったと聞いてな。昨日仕留めた牙尾猪だ。先に見せる約束だったから、市場へ卸す前に寄った」
「ありがたいですね。留守の間に別の買い手が決まっていても仕方ないと思っていたんですが」
「そっちが町にいなければ、いつもの相手へ売るだけだ。戻ってきたなら、また見てもらう。それでいいだろう」
ゼクトは当たり前のことを言う顔で蓋を開けた。
冷えた空気の中から、深い赤色の肉と、乳白色の脂が現れる。誠吾は断面へ目を近づけ、匂いと表面の状態を確かめた。《食材眼》で分かる鮮度にも問題はない。血の処理がよく、脂に嫌な匂いがなかった。
背の肉へ指を添えると、細かな筋に沿って静かな弾力が返ってきた。
「背のところを2キロ半、お願いします。今日はこれを揚げて、甘酸っぱいたれで食わせてみたいんです」
「青玉菜と炒める飯とは、ずいぶん変えるんだな。あれは肉の脂までうまかった」
「この肉なら、揚げた衣にも負けませんよ。脂の甘さがあるぶん、酸味を合わせても面白そうです」
必要な部分を量って代金を払い、残りの肉を覆い直す。誠吾が冷蔵庫へ収めて戻ると、ゼクトは空になった火輪の前の通りを眺めていた。
「昼にまだ肉が残っていれば、俺にも1人前頼む。森へ入るのは明日の朝だから、今日はゆっくり食える」
「それなら1人前、取っておきます。昼前には仕上がるようにしておきますよ」
荷車が魚屋の方へ遠ざかっていくのを見送り、誠吾は仕込み台へ戻った。レドニアへ帰った途端、いつもの仕入れがまた動き始めた。その肉を、旅へ出る前とは違う料理にできる。
包みかけの餃子を仕上げてから、誠吾は冷蔵庫の酸実を取り出した。
*
赤い実を小鍋で温めると、皮が弾け、青さの残る鋭い香りが立った。
木杓子で軽く潰し、裏ごしして果汁と果肉を取る。以前、石鱗魚の甘酢あんに使ったときより、今日は少し濃く煮詰めた。白身魚を包むたれと、揚げた猪肉へ絡めるたれでは、欲しい厚みが違う。
誠吾は匙へ少量を取り、冷ましてから舌へ載せた。最初に酸味が来て、その奥に木の実らしい香りが残る。砂糖だけで丸めてしまうには惜しい味だった。
日本の酢を少し足し、砂糖、醤油、清湯で調える。酸実の香りは残しつつ、米と食べて輪郭がぼやけないところへ持っていった。
肉は大きな筋を外し、繊維を見ながら一口大に切る。醤油と酒、生姜で下味を付け、少量の水を揉み込んだ。指へ返る肉の張りを確かめながら、最後に溶き卵と片栗粉をまとわせる。
合わせる野菜には、遠隔仕入れで買った玉葱とピーマンを選んだ。玉葱はばらけすぎない大きさに切り、ピーマンも肉と一緒に口へ入るくらいに揃える。赤い甘酢の中へ緑が入れば、皿の見え方も明るくなる。
油へ試しの肉を落とすと、沈んだ衣の周囲から細かな泡が立った。
誠吾は温度を落とさない量にとどめ、肉同士がくっつかないよう、衣が固まってから箸で離した。最初は中まで火を通し、一度引き上げて休ませる。その間に野菜へ短く油を通し、最後に油の温度を上げて肉を戻した。
泡の音が軽くなり、衣の凹凸が薄いきつね色へ変わったところで油を切る。
別の鍋で甘酢を沸かし、水溶き片栗粉を控えめに加えた。艶が出たたれへ肉と野菜を戻すと、誠吾は大きく2度、鍋を返した。赤い膜が衣を包み、鍋底へ残っていた甘酢がほとんど消える。
白い皿へ少し盛り、まずは肉だけを口へ入れた。
歯が触れた衣は軽く割れたが、内側にはたれを吸った柔らかさがある。噛むと牙尾猪の濃い肉汁が広がり、脂の甘さを酸実の酸味が追いかけた。玉葱は縁だけが透き通り、芯には歯触りが残っている。
続けて米を食べ、誠吾は小鍋に残したたれへ清湯をわずかに足した。
皿だけで味わうなら、先ほどの濃さでもいい。飯に載せて最後まで食べてもらうなら、もう少し軽い方が箸が進む。
調えたたれで小さなひと皿を作り直したところへ、空の籠を抱えたエルダが立ち寄った。
「朝からずいぶんいい匂いがするね。うちの葉物を使う料理なら、昼に合わせて余分に持ってこようと思ったんだけど」
「今日は猪肉と玉葱を使います。青玉菜は餃子にたっぷり入れましたから、そっちはいつもの量で大丈夫です」
誠吾は小皿とフォークを窓へ出した。
「味見に1つどうぞ。酢豚という、揚げた肉を野菜と甘酸っぱいたれで絡める料理です。今日は牙尾猪で作りました」
エルダは籠を足元へ置き、肉に付いた艶を見てから口へ運んだ。噛んでいる間に少し眉が上がり、飲み込むと皿に残った玉葱も取った。
「この酸っぱさ、酸実だろう。あれを齧ったときは頬の奥が痛くなったのに、肉と一緒だと具合がいいね」
「甘みと油が入ると、食べた感じが変わるんです。酸味を消しすぎると肉が重くなるので、そのあたりは残しています」
「昼はそれを食べるよ。店番を夫と交代できるうちに来るから、私の分も取っておいて」
仕入れた野菜とは別の料理でも、こうして食べに来てくれる。誠吾は予約の2人分を手元へ書き留め、品書きの空いた場所に新しい料理を加えた。
『牙尾猪と野菜の甘酢炒め飯 16食』
見慣れない料理名だけを大きく書くより、これなら窓の前で迷う客にも中身が伝わる。
*
昼の営業が始まると、最初に動いたのはいつもの炒飯と焼き餃子だった。
誠吾は注文を受けた順に鍋を振り、餃子の焼き上がりを合わせながら、新しい飯の注文が入ったところで揚げ鍋を使った。肉を揚げる時間を伝えると、客は先に出した清湯を飲みながら待ってくれる。
ゼクトが来たときも、ちょうど1組分を仕上げるところだった。
「よければ、その客の分と一緒に頼む。急いでいないから、こっちのために手を変えることはない」
「助かります。米はしっかり盛っておきますから、先に座っていてください」
深めの皿へ白い飯をよそい、甘酢をまとった肉と野菜を載せる。たれを米全体へかけず、白いところも残した。どこから匙を入れるかで、口へ入る味の濃さを変えられる。
ゼクトは肉を半分に切り、断面を確かめてから食べた。衣を噛む小さな音がしたあと、フォークを匙へ持ち替え、今度は飯と一緒にすくった。
「猟の帰りに肉を焼くときは、塩を振って脂を落とすことが多い。これは、その脂まで飯を食う味になるんだな」
「肉の味が強いですからね。たれを絡めても、ちゃんと猪が残ります」
ゼクトはうなずき、皿を手前へ引き寄せた。
その隣へ座った荷運びの男は、最初、肉を飯から避けて食べていた。やがてゼクトの匙の動きへ目を向け、自分もたれの付いた米と一緒に口へ運ぶ。そのあとは皿の上で肉を小さく分け、飯のあちこちへ散らし始めた。
誠吾はその様子を見て、盛り付け用の杓子を置いた。肉の大きさは、あれくらいでよさそうだった。
少し遅れて来たエルダは、玉葱を先に拾った。
「家で煮るときより、ずっと甘く感じるね。まだ歯応えもあるのに」
「短く油に通してあります。外側に火を入れて、水気を出しすぎないところで上げるんですよ」
「それなら、何でも長く炒めればいいわけじゃないんだね。うちの青玉菜も、あんたが扱うと葉の感じが違うと思ってた」
エルダは言いながらも、食べる手を止めなかった。向かいの店へ戻る時刻が近いのだろう。最後の一口に残していた肉を食べ終えると、空いた皿を窓へ運び、夫の分には焼き餃子を買っていった。
甘酢炒め飯は、昼の混む時間が過ぎたところで残り2食になった。
そこで新たに来た2人連れは、1人が甘酢炒め飯、もう1人が炒飯を頼んだ。並んだ皿を見比べ、互いの料理を少しずつ分け合って食べている。誠吾は売れた数に線を引き、残り1食の札を窓へ出した。
それを見た顔なじみの客が、帰りかけた足を止めた。
「昼はもう食べたんだが、夜に家で食べる分を持って帰れるだろうか。あの肉の飯を1つ頼みたい」
「持ち帰れますよ。少し時間を置くなら、肉と野菜を分けておきましょう。家ではたれと一緒に温めてから飯へ載せると、食べやすいと思います」
食べる時刻を聞いて容器へ詰め、扱い方を伝えて渡す。それで用意した16食が出た。
片付けの途中、誠吾は売上から肉代とほかの材料費を引いた。手間は炒飯よりかかるが、注文が重なっても回せる量はつかめた。牙尾猪が入ったときに出せる料理が、また1つ増えた。
翌日の荷場へ持っていく餃子を包み始める頃には、揚げ油を片付けた厨房に、生姜と青玉菜の匂いが戻っていた。
*
約束していた20人分の昼食は、その翌日、時間どおりに荷場へ出した。
炒飯、焼き餃子、鶏の清湯。ガルムから受けた注文どおりの組み合わせだった。
荷を運ぶ者が一斉に持ち場を離れるわけにはいかない。誠吾はガルムと受け渡す順番を決め、先に休憩へ入る者から熱い皿を渡した。餃子を焼く鉄板の蓋を開けるたび、倉庫の軒下へ白い湯気が流れる。
ダリオが最後の組で受け取りに来たときには、肩の作業着に麻袋の繊維が付いていた。
「昨日の甘酸っぱい肉の飯、仲間が食べたそうです。俺は市場へ行く時間がなくて逃しましたけど、猪が入ればまた出ますよね」
「ゼクトさんからいい肉が入れば出しますよ。あの人も食べてくれましたから、脂の具合を見て、合いそうなところを頼んでおきます」
「それなら楽しみにしておきます。今日はこっちを食べないと、午後の荷が持てませんから」
ダリオは炒飯を受け取ると、皿の縁からこぼれそうな米を匙で押さえながら席へ向かった。誠吾は残りのスープを注ぎ終え、20人分を渡したことを手元の紙で確かめた。
鍋を洗い始めたところで、ガルムが代金を持ってきた。
「時間どおりで助かった。あんたが戻ったと聞いて、飯の心配が1つ減ったよ。しばらく町にいるなら、荷の日が決まったところでまた声をかける」
「お願いします。出発する日を決めたら、こちらからも早めに伝えますから」
受け取った代金を収めた誠吾は、倉庫の入口へ積まれている麻袋へ目を止めた。袋の口を縛り直している商人の手元に、細長い白い粒が見えたのだ。
米だった。
日本で仕入れているものより粒が長く、細い。誠吾が近づいて尋ねると、商人は袋の口を少し広げてくれた。
「南から川を上げてきた米だ。粒が崩れにくいから、汁で煮ても使いやすい。料理店なら、扱ったことがあるかい」
「俺の店でも米は使います。ただ、この米は初めてなので、少し買って炊いてみたいんです。小分けでも売ってもらえますか」
商人の了承を得て、掌に少し載せてもらう。乾いた粒が指の隙間をさらさらと落ち、ほのかに穀物の匂いがした。《食材眼》で見ても状態はいい。
誠吾は2キロを量ってもらい、代金を払った。
火輪へ戻ると、受け取った袋をいつもの米の横へ置いた。同じ量の水で炊けばいいとは限らない。まずは少量ずつ、水加減を変えてみるつもりだった。
荷場では、食べ終えたダリオたちが再び麻袋を担いでいる。誠吾は返ってきた皿を洗い終え、まだ温かい中華鍋を布で拭き上げた。
夕方の仕込みに入る前に、米を1合だけ炊く時間はある。
新しく買った袋の口を開けると、誠吾は計量用の器を手元へ引き寄せた。
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